77それぞれの日常4
憂鬱な舞踏会の日がやって来た。命はエミリアを始めとする豪華絢爛に着飾った令嬢令息達を眼福にする楽しみはあるものの、エミリアの婚約者であるヴィンセントと顔を合わせるのは苦痛だった。
今日のエミリアは薄いピンクのドレスに髪の毛は編み込みのハーフアップ、控えめだが品のいいパールのイヤリングとネックレスを身につけていた。
「とてもお似合いですよ、エミリアお嬢様」
お世辞抜きに美しいエミリアに命の憂鬱な気持ちも和らぐ。うちのお嬢様が世界一だと会場で大声で叫びたいくらいだったが、もちろん実際にはしない。
クラークがエミリアを馬車までエスコートしてから命も乗り込み、舞踏会の会場へ出発する。今日は法律学校の学園長の誕生日を記念したものだそうだ。
「何度行っても舞踏会は新鮮ですね。まるで小説の世界の様です」
緊張気味のエミリアに命は笑顔で話しかける。水鏡族の村に舞踏会は無い。踊りといえば毎年雷の神子が披露している奉納の舞くらいだろうか。
「命も今度こそドレスを着て踊ってみたら?」
アンドレアナム家では日頃の感謝の気持ちで使用人をもてなすためにアンドレアナム家の人間と使用人達だけの舞踏会を年に一度行なっている。
その日は食事も音楽も外注して、ドレスやタキシードを町の衣装屋でレンタルして使用人も着飾りみんなで食べて踊って楽しむ日がある。どこの貴族もやっている訳ではなく、アンドレアナム家だけがやっている催しらしい。
去年行われた時命は気恥ずかしくて、よそ行きのワンピースでやり過ごしたのだった。
「そうですね、じゃあその時は是非一曲お相手してくださいね」
身内だけの気取った舞踏会じゃないからドレスを着てエミリアと踊るのもいいかもしれないと感じた命は今度暇を見てクラークに男性パートのダンスを教えてもらおうと思った。
少し早めに会場に着いたので、命はエミリアとクラークで控え室で軽食を取りながら待機していた。
しばらくしてそろそろ会場に行こうかとした時にノックもなくドアが開いた。
「フン、迎えに来てやったぞ。婚約者殿」
現れたのはエミリアの婚約者であるヴィンセントだった。プラチナブランドの髪の毛を無造作に流したくっきりとした二重の青い瞳、形の良い鼻筋と薄い唇は女性受けのする美男子であったが、人を見下した性格の悪さが滲み出ていて命は嫌悪感を持っていた。
「ありがとうございます、ヴィンセント様」
淑女としてエミリアは立ち上がり華麗にお辞儀をする。主人に倣い命とクラークも形だけ頭を下げる。
ヴィンセントはエミリアを一瞥してから命に視線を向けた。
「お前、いつになったら俺の愛人になるんだ?部屋ならすぐ用意するぞ。それとも金が欲しいのか?」
「お言葉ですが私はあなた様の愛人にはなりません。よそを当たって下さい。そもそも婚約者のエミリアお嬢様の前でよくもそんな破廉恥なことをほざけますね」
殺意を込めた視線で命はヴィンセントを睨んで愛人になる事を断った。
「お前みたいな田舎者で灰を被ったような頭に魔女のように吊り上がった赤い目、耳に穴を空けた野蛮で胸の大きさしか能が無いような売女をこの俺が愛人にしてやるというのに何が不満なんだ?」
水鏡族としての誇りと、これまでトキワがピカピカに磨き上げてくれた自尊心を踏みにじられたことで命は頭に血が上って行くのを感じ、必死に振り上げそうになる右拳を左手で抑えた。
「……ヴィンセント様、折角お迎え頂いた所申し訳ありませんが私、気分が優れなくなりましたので、今夜はお暇しますわ。どうぞ私のことはお気になさらずに舞踏会を楽しまれて下さいませ」
貼り付けたような笑顔でエミリアがヴィンセントに頭を下げるとクラークはすぐに察して、命に先に部屋を出ろと目配せをした。命は形だけのお辞儀をしてそれに従いドアを開けて部屋を出るとクラークがエミリアを誘導して部屋を出た。
「ごめんなさい、エミリアお嬢様」
馬車の中で命は気落ちした声でエミリアに謝罪した。伯爵令嬢として舞踏会を突然欠席するのは醜聞になるかもしれないと思ったからだ。
「あなたが謝ることなんて一つもないわ」
エミリアは優しく笑いかけると命の手を握って元気付ける。
「私、ヴィンセント様との婚約を破棄することに決めましたわ」
婚約破棄を決めたエミリアの瞳は迷いがなく、真剣そのものだった。命は心の底から安堵した。しかし簡単にことが進むのだろうかと直ぐに心配になる。
「時間はかかるかもしれないけれど、もう決めたの。明日まずはお父様に相談するわ。いくら家の為とはいえ私の大切な友人を侮辱されたら黙ってはいられないもの」
自分のために婚約破棄を決意したエミリアに命は胸に熱いものがこみ上げてきた。
「とりあえず今夜は帰ったら三人でお茶をして踊りましょう?」
可愛らしくエミリアがウィンクをすると命とクラークも表情を和らいだ。屋敷に戻ると早速お気に入りのお菓子と紅茶を楽しみ、笑い声を響かせながらエミリアとクラークによるダンス教室を命は堪能したのだった。




