75それぞれの日常2
「桜!」
授業を終えて屋敷に帰ろうとする命の背後から叔母の桜の名を呼ぶ声が聞こえたので振り返ると、焦げ茶色の髪の毛を短く刈り上げた緑色の瞳と鷲鼻が印象的な三十代ほどの男性がいた。白衣を羽織っているから学校関係者だろう。
「……すまない。水鏡族の知り合いと間違えてしまった」
しばらく命を観察してから人違いと気づいた男は頭を下げて謝る。この地方では水鏡族の特徴である灰色の髪に赤い瞳をした人間がいないので間違えたのだろう。悪い人ではなさそうだったので、命は桜との関係を話すことにした。
「桜は私の叔母ですよ」
命の言葉に男は目を丸くしてしばらく動かなくなった。心配になり、命が男の目の前で手を振るとはっと我に帰る。
「君!これから時間はあるかな?桜の事を詳しく聞かせて欲しい」
食い気味に桜の情報を求める男に命は不審に思いつつも、もしかして彼は桜とただならぬ関係者なのではと興味を持った。
「今日は真っ直ぐお屋敷に戻ると伝えているので、時間はありません。それと失礼ですがどなたですか?」
「ああ、すまない私はアレクシス・オーガスト。医者の卵達を指導している。君は?」
「私の名前は命と申します。この学校でナースの勉強をしながらアンドレアナム家のメイドをしています」
お互いに名乗り身分を明らかにする。名字があるという事は貴族なのだろうか。命がぼんやりと考えていると、アレクシスが口を開く。
「そうか君も桜と同じようにアンドレアナム家に下宿してるんだね。よし、では明日の放課後にカフェに行かないか?」
「先生とはいえ男性と二人きりで会うのは抵抗があります」
命は苦笑して誘いを辞退するが、アレクシスは諦めない。
「ならば今からアンドレアナム家に行って、正式に君との面談を依頼しよう。それならいいだろう」
強引なアレクシスの提案に命は顔を引きつらせつつ、伯爵に対応してもらった方が安心だと判断して頷いた。
「ありがとう、それにしても君はやっぱり桜の姪御さんだ。表情がよく似てる」
アレクシスは優しく笑うと、命を待たせて帰り支度を済ませると共にアンドレアナム家に向かう事にした。
アンドレアナム家に辿り着くとアレクシスは他の使用人の案内でちょうど在宅している伯爵の元へ挨拶に赴いた。命は自室に戻りメイド服に着替えてから、通常通りエミリアの元へ向かった。
先ほどあったことを話しながら、命が来週のエミリアの舞踏会のドレスや装飾品を選びながら過ごしていると、クラークがやってきた。
「命、アレクシス様がお前と話がしたいと御所望だ。二人で話すのが嫌ならエミリア様の同席も構わないというが……もちろん一人で行くよな?」
エミリアを煩わせるなというクラークの圧を感じながら、命は確かにそうかもしれないと思い一人で行こうとしたが、事前に話を聞いていたエミリアかそれを制止した。
「私も命の叔母様の話が聞きたいわ」
「かしこまりました。準備いたします」
エミリアが行くと言ったら従うしかないクラークは渋々と応接間にお茶とお菓子の手配をしに行った。
命は出していたドレスと装飾品をしまってから、エミリアと応接間に向かった。
応接間で待っていたアレクシスに命はエミリアと二人でお辞儀をすると、エミリアを椅子に座らせて自分は傍に立った。
「改めて本日は突然の申し出に応じてくれてありがとう。まずは何を聞こうかな。そうだな、桜は元気かな」
ありきたりな問いだが、最初に聞くにはちょうどいい質問だと命が感想を持っていると、クラークが現れてテーブルに紅茶とお菓子が並べられる。
「元気に村で医者をしてます。去年私が入学する際には母とここまでついて来てくれました」
去年桜が学園都市に来てた事実を知ったアレクシスは愕然とした表情を浮かべて、しばらく言葉を失ってしまった。
「アレクシス様、大丈夫ですか?」
心配するエミリアの声で現実に戻ったアレクシスはひとつ咳をして用意されていた紅茶を口にする。
「失礼、いや……なんていうかその、会いたかったな……」
眉を下げて笑うアレクシスに命は桜のただの知り合いには思えず、踏み込んだ質問をしたくなった。
「不躾な質問ですが、叔母とはどういったご関係なんですか?」
エミリアも気になっていたらしく、クッキーを上品に食べつつも目を光らせてアレクシスを見た。
「……桜とは学生時代、恋人同士だったんだ」
ここがエミリアの部屋でいつものお茶会の場だったら命はエミリアと共に黄色い声を上げて盛り上がっていただろう。今は貴族の娘に仕えるメイドとして必死に上品さを振る舞うために口に手を添えて表情を隠した。
「当時私は子爵家の次男で家を継ぐ予定もなく、卒業後は桜と結婚して水鏡族の村に行こうと決めていた」
もしアレクシスが桜と結婚していたら、彼は叔父になっていたのかと思うも命にはそれが想像出来ず、そのままアレクシスの話に耳を傾ける。
「しかし卒業間際に兄が不幸な事故で亡くなり、私は後継者になってしまい、水鏡族の村には行けなくなった。そして自分勝手を承知で桜に私を支えて欲しいと求婚した」
桜が子爵夫人。似合わな過ぎて想像するだけで笑いが止まりそうになかったので、命は拳を強く握って堪えた。
「それで、叔母は何と返したのですか?」
現在桜は水鏡族の村で医者をしている訳だから二人が結ばれなかったことは分かっているが、流れ的に命は問うた。
「あなたが家を守りたい様に私も家を守りたいから結婚は出来ない。でも、もしそれでも……お互いを忘れられなかったら一緒になろう。桜がそう言ったから、私達は別々の道を歩んだ。その後数年は手紙のやり取りを行ったが、次第に桜からの便りは途絶えてしまって現在に至る」
以前桜が口にした遠距離恋愛なんて続かない。お互いに身を引いた方が楽という言葉を命は思い出した。あれは彼女の体験談だったのだろうと今更気が付いた。




