297 番外編 とある最後の恋
午後から休暇を貰っていた命はクオンを託児所に迎えに行く前に買い出しをする為に商店に向かっていた。いつもはトキワに夕飯を作ってもらっているが、今夜は自分が振る舞うつもりだ。
最近クオンがお気に入りのクリームソースのスパゲティとトキワの好きなハンバーグを作ろうと頭の中で献立を考えていた所で前方に地図を持った見慣れない男が2人いたので足を止めて警戒した。
見た所男達は水鏡族ではなく、辺境の村に合わない仕立てのいいスーツに身を包んでいたので命はどこかの貴族が水鏡族の村に観光に来たのかもしれないと推測した。
しかし西の集落に観光と言えそうなものは無い。大抵の観光客は神殿を見学するだけだ。現在地は神殿からも乗り合い馬車の停留所からも離れているのでもしかしたら道に迷っているのかもしれない。
面倒事に首を突っ込むのは良くないと分かっていたが、放っておく事も出来ず命は男性2人に声を掛けることにした。
「何かお困りですか?」
問い掛けに振り向いた男の片割れに命は目を見開いて仰天した。相手側も命を見て同様の表情をしていた。
「アレクシス先生…!」
「命さん…久しぶりだね!しばらく会わない内にまた綺麗になったね」
「それはどうも」
彼はアレクシス・オーガスト、昔命が学園都市の医療学校に通っていた際に知り合った教師で桜の元恋人だ。まさかこんな所で再会すると思わず、ただただ驚いた。だが知り合いとはいえ再会に感激して感情のままに熱い抱擁や握手を交わす程の仲でもないので、命は距離を取ったままメイド時代に習ったお辞儀をした。
「どうしてここに?」
学園都市から水鏡族の村まで鉄道や馬車を利用して1週間かかる。貴族の道楽で来るには中々骨が折れる場所に多忙であろうオーガスト家の当主がここに来たのはやはり桜に会うためだろう。もし今更桜に求婚して村から連れ出そうとしているつもりならば、命は何としても阻止しようと考えていると、アレクシスからクスクスと笑い声が上がった。
「心配しなくても君から桜を奪うつもりはないよ。ただ久しぶりに顔を見たくなっただけだ」
「へえ、暇人なんですねー」
「ふふふ、君は相変わらず容赦ないな。だが暇人だというのは正解だ。じつは養子にした甥っ子に当主の座を明け渡して今や隠居の身なんだ」
「有能な甥御さんなんですね」
「ああ、そして有能な使用人達がいるからオーガスト家は安泰だ」
隣にいる従者らしき男性に目配せをして同意を求めてアレクシスは以前より増えた目尻の皺を深く刻んだ。
「えっと、この流れは私に診療所まで案内しろって感じですよね?」
「出来ればそう願いたいが、忙しいかな?」
「そうですね、すごく忙しいです。これから夕飯の買い出しをして、託児所に子供の迎えに行って家に帰って夕飯の支度とかやらなきゃいけない事のオンパレードです」
今こうしている間も可愛い我が子が待っているのだと命が説明すればアレクシスは目を白黒させた。
「いやあ、結婚してお子さんもいたんだね…」
「そんなに意外ですか?」
「すまない、私の中で君は学生時代の姿で止まっていたから想像つかなかったんだ」
「予定では桜先生と独身同士仲良く暮らす予定でしたが、私とどうしても結婚したいという人が現れたので子供も欲しいし結婚しました。すごくカッコよくて素敵な人なので気が向いたら紹介しますよ」
「それは楽しみだが、まずは桜に会わせてくれないか?」
本題に戻ったアレクシスに命はどうするべきか悩んだ。桜は吹っ切れているし、会わせても問題なさそうだが、診療時間中に会わせたら村人からの噂の的になってしまうので避けた方がいいと判断した。
「まだ診療中なのでとりあえず観光して来たらどうですか?この舗装された道に沿って行けば神殿に着くので見学して行ってください。なかなか立派ですよ」
「随分と焦らすものだ…分かったよ。診療所の場所もそっちで聞くよ。行こう」
桜を困らせるなという意図が伝わったアレクシスは従者と共に踵を返すと神殿観光へと決め込んだ。彼らの後ろ姿を見届けた命は急ぎ商店へと向かい買い物を済ませると、可愛い我が子が待つ託児所へと足を急がせた。
***
「ねえねえ、おかーさん。なんでしんりょーじょにいくの?」
「お母さん桜先生にお話ししたい事があるの」
「ふーん、そうなんだ」
結局命は桜とアレクシスの件が気になってしまい、クオンと共に診療所に舞い戻ってしまった。一先ず買った物を実家の台所に置かせてもらい、命は母にクオンを任せてから診察室に顔を出した。
「桜先生、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「信じられないかもしれませんが…アレクシス先生が水鏡族の村に来ています」
「ああ、何か手紙に書いてあったな。今日だったか」
事前に桜に知らせてあったのかと命は肩透かしを食らってしまった。言われてみればお互い連絡先を知らない訳でもないし、近年は音信不通ではなかった事を思い出して自分の行動が空回りだったと自嘲した。
「買い物に行こうとしたら偶然会って、診療所の場所を聞かれたけど、診療時間中に来ても迷惑だから先に神殿でも見学する様に勧めておきました」
「そうだな、それがいい。ありがとうな」
お礼を言った所で皐から患者が来たと呼ばれたので桜はカルテを探し始めた。
「私今日は実家で夕飯取りますから、よければ桜先生もアレクシス先生達と食べに来て下さい」
貴族の舌に合うかどうか分からないが何も食べないよりマシだろう。命の申し出に桜は快諾して感謝すると患者を迎えたので命は診療所を後にして夕飯作りへと取り掛かった。
***
診療時間が終了したので桜は看板をしまおうと外に出て、群れをなして巣へと帰る鳥達を見上げた。
「桜…」
もう何十年も聞いていないのに優しくて心地よい彼の声を鮮明に覚えている事に桜は自分を嘲笑いながら振り向いた。
「随分とまあ老けたな」
「それはお互い様だ」
皮肉を言い合えば昔の様な錯覚に陥ったが、隣の家から聞こえてきた無邪気なクオンの笑い声で現実に戻った。
「だけど君が綺麗なのは変わりない」
「相変わらず歯の浮く様な台詞を平気で言うものだ」
「君にだけだよ」
照れ臭そうに鷲鼻を掻いて笑うアレクシスに桜はつられて笑った。
「さくらせんせーごはんだよー!」
隣の家からクオンが母親から預かった伝言を発しながら桜にまっしぐらに抱き着こうとしたが、アレクシスと従者に驚き怖気付いてしまった。
「ありがとうな、くー」
泣き出す前にと桜はクオンに歩み寄ると抱き上げて愛おしげに頬擦りした。アレクシスはもし自分と桜が結婚して子供を授かったらこんな光景を目にする事があったのかもしれないと叶わなかった夢を重ねてしまった。
「このおじさん達は私の友達でお前のママが世話になった人だ。ご挨拶しなさい」
「…こんばんは、クオンです」
たどたどしく挨拶するクオンにアレクシスは従者と破顔して挨拶を返した。
「夕飯はまだだろう?隣のうちの家族達と一緒に食べよう。従者の方も一緒にどうぞ。今夜は診療所に泊まるといい」
桜の厚意にアレクシス達は甘える事にして勧められるままに隣の家へと招待を受けた。
「…誰このおっさん?」
家に入るなり出迎えた人間離れした銀髪の青年の美貌にアレクシスと従者は絶句して立ち尽くしていたので、桜はケラケラと笑ってからお互いを紹介した。
「なるほど、君が命さんの旦那さんか。すごくカッコよくて素敵な人だと惚気ていたよ」
「ちょっ…!何バラしているんですか!」
料理をテーブルに運んでいた命がアレクシスの発言に顔を真っ赤にした。普段なら可愛い我が妻と仲良くする輩を許さないトキワだが、妻が他人に惚気ていた事実が嬉しくて機嫌よくアレクシス達に椅子を勧めた。
そして一同はテーブルを囲んで夕飯となった。命と桜は努めてそれぞれに話題を振り、アレクシスから最近の学園都市の様子やアンドレアナム家の近況や、最新の医療について聞き出したり、水鏡族の村の現在の医療について話したりと賑やかな時間を過ごした。
夕飯を終えて外も暗くなってきたので片付けを終えた命は夫と子供と共に我が家へと帰って行った。今夜はアレクシス達を診療所に泊めるので桜はここに泊まる事にした。一先ず着替などを取りに行くのと、彼らに寝床と水回りなどの使い方を教える為に3人で診療所に戻った。
「ここが浴室な。魔石があるからこれでお湯を沸かして」
「ありがとう、桜。ところで2人で話がしたいのだが、いいかな?」
何となくそうなる気がした桜は静かに頷いて従者にベッドのある病室を案内してからアレクシスと肩を並べて診療所前のベンチに座った。空は既に満点の星空が輝いていた。
「いい所だな」
「だろ?」
「家など捨てて君と一緒になれば毎日この夜空を楽しめたのだろうな」
「どうだか」
今でもアレクシスは夢で桜と別れた時の事を繰り返し見ていた。その度自分の選択は間違いだったのかもしれないと悔やんでいた。しかし時を経て再会した桜はどうやらそうではない様子だ。彼女は心から幸せそうだと夕食時家族に囲まれて過ごす笑顔からそう感じ取れた。
「アレクシス、過ぎた時間を嘆くよりも今後どう楽しむか考えた方がいいぞ。気付けば40代の私達に残された時間は少ないのだから」
ニカっとやんちゃに笑う桜にアレクシスは愛しさから抱き寄せたい気持ちになったが、それが許される身分では無いと自戒した。
「もし、私が君と一緒になって村で暮らしたいと言ったらどうする?」
「あなたと私がか?」
ダメ元で問いかけたアレクシスに桜は腕を組んで頭の中で想像してみた。
「医者として働いてくれるなら大歓迎だ。ちーはそろそろ2人目の子供が出来るかもしれないし、もう1人のナースも産休から復帰したばかりだ。めでたい事が続くのは嬉しいが、人手不足は否めない」
「私を労働力としか考えてくれていないのか?」
若者の様にラブラブとまでは言わないが、せめてもっと色気のある返事を期待したアレクシスは肩を落として桜を非難する。
「何十年も恋をしていないのだから、突然恋愛モードになれと言われても困る。私は姪っ子達のお陰で既に子育てをして孫もいる気持ちでいるからな。あなたもそうだろう?」
「確かに…甥は養子だから息子同然だし、彼の子供達も孫として接している」
いきなり恋人に戻るにはブランクがあり過ぎると納得するアレクシスにそうだろうと桜は何度も頷く。
「で、どうする?村に住むのか?」
「いや、あくまで例え話だ。私には医者をする程の体力が残っていない」
「随分と弱気だな」
「弱気にもなるさ。じつは先日病が見つかってね、現在の医療では完治は困難だと言われた。念の為自分でも調べたから間違い無い」
アレクシスの告白に桜の顔はみるみるうちに青ざめていった。何十年も前に別れた恋人でも情は残っているのだ。
「そんな顔しないでくれ、まだ初期症状だから死ぬまでは早くて5年後位だ」
「5年なんてあっという間だ…」
「そうだな…」
悲痛な桜の言葉にアレクシスは星空を見上げる事しか出来なかった。しばし沈黙が続き、虫の鳴き声だけが響いていた。
「この村に万病に効く薬があると言ったら…?」
神殿で生活する一角獣の角を調合した薬を飲めばあらゆる病を治すと言われている。無論この薬は気軽に手に入れられる物ではないがトキワが神殿の神子なのでツテがあった。
「そんな物語の様な話あるわけない…が、桜が今そんな冗談を言うわけがないからあるんだろうね」
「だったら…」
「いらないよ」
ハッキリとした口調で断るアレクシスに桜は目を見張った。
「勘違いしないでくれ、私は生きる事を諦めた訳では無い。万能薬だって喉から手が出る程欲しい」
「ならば何故⁉︎」
責めるように問いかける桜の肩にそっと触れてアレクシスは首を振った。
「私の病は既に周囲に公表している。それが突如完治したらどうなるか君なら分かるだろう?」
不治の病のアレクシスが回復すれば治療法が水鏡族の村にあるという情報はどこからか必ず漏れてしまう。そうなれば愛する人が暮らすこの静かで平穏な村は瞬く間に穢されるだろう。それだけは絶対防ぎたかった。桜も理解したのだろう、次第に目に涙を溜めて眼鏡を外すと鼻を啜った。
「今回君に会いに来たのは決意表明の為だ。私も医者の端くれだ。自分を実験台に治療法を探して生き延びてみせるよ。その為に甥に当主の座を明け渡した」
「とんだ医療バカだな」
「光栄だ」
呆れ気味の桜に対してアレクシスは満足気に胸を張るので、桜は次第に涙を引っ込ませてクツクツと笑い出した。アレクシスもつられて笑い、まるで学生時代に戻った様な夜を過ごした。
***
翌日命が診療所に出勤した時点でアレクシスは従者と共に朝一番の馬車で村を去っていた。
「てっきり村に居座ると思っていた」
「また気が向いたら遊びに来るだろう。さあ、診察の準備をするぞ」
大きく体を伸びして桜は診察室へと移動した。これは休憩時間にアレクシスとどんな逢瀬を交わしたか問い詰めようと命は謎の使命感に燃えつつ背中を追うのだった。




