295 番外編 とある夫婦の離婚危機
夜も更けて、明日の朝食と弁当の下拵えを済ませて、風呂も入りひと段落してから、命が子供部屋を覗くとクオンが一足先に眠りに就いていた。
先日体が大きくなって狭くなったからと、クオン専用にトキワがベッドを作ってあげた所、すっかり気に入った様子で変現の儀を前に早くも夜は1人子供部屋で寝る様になってしまった。
本来子供の成長を喜ぶべきなのだろうが、少し寂しい気持ちになりながら命は夫の待つ寝室へ向かった。
「ちーちゃんお疲れ様」
クイーンサイズのベッドの上で読書をしていたトキワは命が部屋に入って来るなり、両手を広げて出迎えた。命は迷わずその胸に飛び込んで背中に手を回してから体温を感じた。
「今夜は随分と積極的だね」
「クオンが急に親離れしちゃって寂しくなっちゃったの」
「なるほどね、まあ子供はいつか巣立つものだから今から慣れておかないと」
「それはそうだけど…」
「大丈夫、俺は一生ちーちゃんの隣で寝るから寂しくさせないよ」
抱きしめる腕の力を強めるトキワの揺るぎない想いにいつも支えられていると実感しながら、命も負けじと強く抱きしめ返した。
「今夜もたっぷり愛し合おう」
熱のこもった声で告げると、トキワは左手を掲げてベッドの周囲に結界を張った。これで結界の外に音と振動が漏れなくなるそうだ。ちなみに外からの音や振動は伝わる様に構成されている為、クオンに何かあっても気付ける様にしているそうだ。
手始めにとトキワは命のふっくらとした下唇を親指でなぞると、顔を近付けて自身の唇を重ねた。初めてキスを交わしてからもう数え切れない位しているのに飽きる事は無く、自分にとって神聖なこの行為はいつだって至福へ誘う。
命は回数を何度重ねても胸の高鳴りを抑えられず、次第に深く口内を蹂躙されれば、甘い感覚に瞳を蕩けさせて自然と身体の力が抜けていき、逞しい夫の体に身を委ねる。本当はいつもリードされてばかりだからたまには自分から積極的に動いて尽くして喜ばせたい願望があるのだが、毎回あれよあれよと流されるままだった。
甘い夜を過ごそうとトキワが命のネグリジェのボタンを3つ外した頃、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。
「こんな夜更けに誰だろう?」
「風かなんかで偶然鳴っただけだよ」
「そうかな…?」
言われてみればそうなのかもしれないが、もし火急の用事だったらと思うと命は気になってしまった。
しかし、トキワの推理に反して次第に呼び鈴に加えてドアをノックする音と共に聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「お姉ちゃん⁉︎」
呼び声が姉の祈だと確信した命は覆い被さっている夫を跳ね除けて急ぎ部屋を出て階段を降りると、玄関のドアを開けた。
「ちーちゃん!夜遅くにごめんね」
「一体どうしたの?」
「家出してきた。もう離婚するから、しばらくちーちゃんの家に泊めて」
トランクを掲げてウインクすると、祈はズカズカと家の中に入りソファに座り込んだ。命は呆気に取られながらも戸締りをしてから、祈の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「離婚てどういうことなの?」
「ねえお酒飲みたい!ある?」
「…ありません」
祈は酒に酔うと絡み酒になるので飲ませたら事情を話す場合では無くなるので、命は嘘を吐いた。
「なんなのこの人…」
いつの間にか2階から降りて来ていたトキワは祈に対して軽蔑の眼差しを向けながら妻の傍らに移動した。
「ごめんねー。お楽しみ中だったんでしょ?」
謝りながら祈が視線を胸元に向けた事で着衣が乱れていると気付き、命は慌ててネグリジェのボタンを閉めた。
「そう思うなら来ないでよ。本当迷惑」
辛辣なトキワの言葉を特に気にする事無く祈は脚を組んだ。
「聞いてよ!レイちゃんったら私の作ったラタトゥイユを不味いからって全然食べないで、ヒナとカイと一緒に明日の朝用のパンを食べたのよ!酷くない?」
家出の理由を話す姉に命は思わず顔を押さえた。相変わらず祈の料理は目分量で作っている様で、今回の料理は相当不味かったようだ。
普段から料理をする命なら味を整える事が出来るが、料理をしないレイト達にはどうする事も出来なかったのだろう。
「ふーん、俺だったらちーちゃんが炭にした料理でも喜んで食べるけどね」
「流石トキワちゃん!ちーちゃんへの愛に溢れてるわー!」
言われてみれば以前命が失敗したイマイチな料理もトキワは嫌な顔1つせずに完食していた事を思い出したので、今後料理を炭にしまいと心に誓った。
「そんな事で本当に離婚するの?」
呆れながら問い掛ける妹に対して祈は真剣な表情で頷いた。どうやら本気の様だ。
「結婚して早15年…日々の小さな不満が積もりに積もって今日の出来事で爆発したのよ。ちーちゃんだってトキワちゃんに対して不満な事とかあるでしょう?」
「…まあ多少はあるけど、今の所は離婚するほどの事じゃないかな」
「ちーちゃん、俺に悪い所があるなら直すから捨てないで!」
妻の発言に危機感を覚えたトキワは赦しを乞う様に命の胸に縋った。
「はいはい、だったら人前でベタベタするのは止めてね?」
自分の取った行動が裏目だと指摘されたトキワはすごすごと命と距離を取った。
「お互い長い付き合いの中で飽きて来ちゃったのかな…私もレイちゃんも日々戦いに刺激を求めて生きていた人間だったからなあ。元々家庭的じゃないし、勢いとノリで結婚した所もあるし…」
次々とネガティブな言葉を生み出す姉に命は掛ける言葉が見つからず悩んでいると、玄関からまたもや呼び鈴がなった。もしかしてと思い命が出ようとしたが、トキワが制止して代わりに出た。
「夜遅くにすまない、祈が…来てるな」
「師匠、早くアレ回収してよ」
どうやらレイトが迎えに来た様だ。弟子の抗議に対応すべくレイトは家の中に入ると義妹の背後に隠れている妻に向かった。
「帰るぞ」
「嫌だ。ていうかもうレイちゃんと離婚する」
「ヒナとカイはどうするんだ?」
「レイちゃんにあげる。2人の為にもお料理上手な人と再婚でもしたら?」
「なんだよそれ」
皮肉を放つ祈にレイトは仲直りをするつもりだったが、逆上して眉を顰めた。このままではここで喧嘩の2回戦が始まってしまうのかと命が危惧していると、トキワが祈とレイトの間に割って入った。
「2人ともうるさい、クオンが起きる」
一旦義姉夫婦を黙らせたトキワは防音の結界を張った。それを合図に再び祈は口を開く。
「とにかく私は帰らないし、離婚するの!なんだったらここで融合別離してもいいわよ!」
「落ち着け、頭を冷やせよ」
「私は冷静よ!真心込めて作った料理をろくに食べてくれない人達とはもう一緒に暮らせません!」
「そんな事いいながらお前自分で喰ってなかっただろうが!文句があるなら食べれる物作ってから言えよ!」
結界が張っているのをいい事にヒートアップする姉夫婦に命は不安に顔を曇らせる。出来る事なら離婚せずに仲直りをして欲しいが、どうすればいいのか見当が付かなかった。
「ちーちゃん、とりあえず止めてみて。あの人達シスコンだから言うこと聞くかも」
「…了解」
耳打ちで指示した夫の作戦に命は従う事にした。言い合いをする姉と義兄の手を握り、命は2人を順番に見つめた。
「私、お姉ちゃんとお義兄さんが別れたら悲しいな…」
ストレートに今の気持ちを告げた命に祈とレイトはぐらりと気持ちが揺らぐが、絆されずレイトは肩にかけていた鞄から弁当箱の様な物を取り出した。
「これが今日こいつが作った飯、こんなの食わされたら命ちゃんも姉妹の縁を切りたくなるから」
大袈裟だと思いつつも、命は好奇心に負けて祈が作ったとされるラタトゥイユを受け取り蓋を開けると、強烈なニンニクの臭いが立ち込めたので顔を顰めた。
「お姉ちゃん…これニンニクいくつ入れたの?」
「えー、5、6個かな?」
「それは入れ過ぎだよ…4人前ならせいぜい2片位だよ」
「えへへ…安売りしてて沢山買ったし、最近レイちゃん何かお疲れ気味だったから、精をつけて欲しいなーなんて思ったのよ」
祈なりの思いやりを持って作ったらしいが、極端だったので伝わらなかった様だ。
「これ食べたら1週間はニンニク臭くなりそう…まあちーちゃんが作った物だったら喜んで食べてスタミナ付けて朝までハッスルするけど」
「ほら!トキワちゃんは私の味方だよ?」
「いや、あくまで例え話でちーちゃんが作ってないなら即捨てるから。本当よくこんなゴミ作れるよね」
毒を吐いて容器の蓋を閉め、トキワは換気をする為に部屋中の窓を開けていった。薄着の命は寒くて身震いしていると、戻ってきたトキワがソファの背もたれに掛けてあったブランケットを肩に掛けてくれた。
「とにかく、お姉ちゃんがお義兄さんの事を想って作ったのは分かったけど、美味しく作らないと食べてもらえないでしょう?とりあえずラタトゥイユはニンニクを外して、それぞれパスタやスープとかチーズかけて焼いたりしてアレンジしたら?」
「うん…」
命が諭す内に祈も思う事があったのか、暫し俯いてから顔を上げるとレイトに向き直った。
「レイちゃん、ごめんなさい。私が独り善がりでレイちゃんの気持ちをまるで考えてなかった」
「俺も悪かった…頭ごなしに否定した上に、ヒナタとカイリと一緒にお前を悪者にしてしまった」
互いに謝り合い非を認めたのでこれで姉夫婦は仲直りとなるだろうと命はこっそり胸を撫で下ろした。
「後は帰ってから話し合って」
もういいだろうとトキワはまるで邪魔者を排除するかの様にレイトと祈の背中を押して家から追い出した。あまりに冷たい態度に2人は顔を見合わせると、怒りよりも笑いが込み上げて来た。
「うるさい!クオンが起きる!」
「ごめんごめん、それじゃあちーちゃん、トキワちゃんお騒がせしました。ありがとうね」
「今度借りを返すから」
不機嫌なトキワに祈とレイトは口々に謝罪を告げると仲良く腕を組んで家路へとついた。
「これ、捨てていいかな?」
レイト達が忘れて行ったラタトゥイユが入った容器を手にトキワが嫌そうな顔をしたので、命は首を振って容器を受け取って台所に向かいエプロンを着けると、早速姉夫婦の置き土産のアレンジに挑む事にした。




