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260繋ぐ想い4

 8月になると、急激に暑くなって来た。これまで感じた事のない暑さに秋桜診療所には、夏バテや熱中症の患者が次々とやって来た。やって来る患者達は、風が吹かないと口を揃えて嘆いていた。

 診療所は窓を開け放していたが、受付に飾っている風車も微動だにしなかった。これでは待っている間に体調を崩してしまうと命は憂いて、命は魔術で霧とそよ風を発生させて、診療所内を快適に過ごせるように工夫した。


 風が吹かないとなると、村人達は神殿にどういう事かと詰め掛ける所だが、そこは神殿も先手を取って回覧板にて風の神子がもう長くない事を発表して、理解を得ようとしたが、ならば一刻も早く代行が後を継ぐべきだと批判の声が上がり始めて逆効果になっていた。

 診療所に訪れる患者も命に対して、早く夫を説得して風の神子になって貰えと訴える患者は後を経たなかった。その度に命は心臓が抉られるような気持ちになりながら、現在風の神子を継承する準備に入っていると、患者の納得する返事をした。


「…みんなだって自分の大切な人の自由が奪われたら悲しいだろうに。勝手だよな」


 診療時間が終了して仕事を終えた桜は、苦々しげに額の汗を拭った。命は仕事着から風通しの良い私服に着替えてから、冷たいお茶を桜に差し出した。


「暑いからイライラしちゃってるんですよ。桜先生も眉間にしわを寄せてますよ」


「眉間にしわも寄せたくなるよ。可愛い姪夫婦が苦しんでいるのだから。昨日なんか家の窓ガラス割られてたんだろう?」


 昨夜命が帰宅すると、窓ガラスが割れていた。命は風で何か飛んできたのかと、呑気に片付けて割れた所に板を打ち付け応急処置をしてその夜は寝たが、真夜中に帰ってきたトキワに揺り起こされ、物凄い剣幕で問い質されてからようやく意図的に割られた物だと気がついた。翌朝からトキワは家に強力な結界を施して、朝の礼拝の為神殿に向かった。


「トキワくんを怒らせてわざと嵐を起こして涼もうとしてるのかもな」


「そんな極端な…暑さで思考が停止してるんですね」


 暑さ対策として神殿が何もしていない訳ではない。氷の神子達が各所に溶けにくい氷の塊を提供したり、雪を降らせたり、水の神子達は霧を発生させ、そしてトキワも各集落に大量の風魔石を提供して、暑さを和らげさせる努力をした。命も少しでも力になれればと風魔石作りを手伝っていた。


 診療所を出てから帰宅すると、命は早速夕飯作りを始めた。今日も暑いのでさっぱりとしたメニューを中心に作った。サラダの上に茹でて割いた鶏肉を乗せてレモン汁をかけた物や、トマトとバジルの冷製パスタ、白身魚のマリネを作る。パスタを用意している途中でバジルがない事に気付いて、命は庭先のバジルを収穫しようとハサミを持って家を出た。


「痛っ…!」


 庭でバジルを収穫していた命は突如後頭部に強い衝撃を受けた。何が起きたか分からないまま命は意識を失うと、その場に倒れてしまった。



 ***



「ちー!大丈夫か!?」


 桜の声が降り注いで命は後頭部の痛みに顔をしかめながら目を開いた。何故桜がいるのか状況が読めない命はぼんやりと頷いた。


「私どうしたんですか?家の庭にいたと思ったんだけど…」


 上体を起こして命が辺りを見回すと、ここは秋桜診療所の診察室で、桜だけでなく光と実まで涙を浮かべて命を見つめていたが、実は祈に伝えると診療所を出て行った。


「お前は村の男に薪で頭を殴られて気を失っていたんだ。しかし思いの外出血が酷くて男はビビったんだろうな。お前をここまで運んできて謝罪すると、うちの婿殿に連れられて自警団に自首しに行った」


 どうやら風が吹かない事に痺れを切らして命に八つ当たりをしたらしい。命が包帯が巻かれた後頭部に触れると鈍痛が走った。


「はあ、結界張ってるからって油断してたな。もっと精進しなきゃ。じゃあ家に帰るね。夕飯の途中なの」


 結界は家に張っていたが、庭には張っていなかったようだ。今度は敷地全体に張って貰おうと命は決意すると、家に帰ろうとするが、桜と光に止められてしまった。夕飯が傷むと主張すれば、光が一緒に帰ってくれる事になった。


 光の肩を借りながら命は自宅に戻り、事件現場の畑を確認すると、確かに血溜まりが出来ていた。もし犯人の男に逃げられていたら、最悪死んでいたかもしれないと命は今更怖くなって体が震えた。それに気付いた光は優しく娘を抱きしめた。


「ちーちゃんっ!お義母さんも…どうしたの!?」


 珍しく早く帰ってきたトキワは頭に包帯を巻いた命の姿に動揺を隠せずにいた。


「バジルを収穫しようとしたら転んで頭を打っちゃって…診療所で治療をしてもらった帰りなの」


「…ごめんね、ちーちゃん」


 今にも泣き出しそうな声でトキワは謝り、妻の見え透いた嘘を追及せず、2人で光を見送った。


「夕飯直ぐに仕上げるから、待っててね」


 バジルを収穫し直してフラフラと台所に向かう命をトキワは抱き上げてソファに座らせると、後は自分がすると献立を確認すると台所に入って行った。料理はパスタ以外は完成していたので、直ぐに夕飯にありつけた。


「今日は早かったんだね」


 食後、事件のことを語りたく無かった命が話題を振ると、トキワは暫し黙り込んでいたが、意を決したように命に向き直った。


「じつは夕方の礼拝した後…大工の仕事を辞めてきた」


 大工を辞めたという事は風の神子の務めに専念するという事だ。トキワがどんな気持ちで大工を辞めてきたのかと思うと、命は掛ける言葉が見つからなかった。


「まあ元々日雇いだし、親方も戻って来れたらまた雇ってくれるってさ」


「そっか…お疲れ様」


 命はそっとトキワを抱きしめて労いの言葉を掛けるのがやっとだった。


「明日、じいちゃんから風の神子の代表を継ぐよ。これからちーちゃんには辛くて寂しい思いをたくさんさせると思う。ごめんね」


 本当は家族や世話になった人達にに別れを言ってから継ぐつもりだったが、昨日家の窓ガラスを割られた事や、今日怪我をした命の姿を見て、トキワは明日継ぐことを決心した。愛する妻にこれ以上の事が起きたら自分は何のために生きているのか分からなくなりそうだったのだ。


「…私は大丈夫だよ。ありがとうトキワ」


 自分を心配してくれる事もそうだが、一族の為に自由を捨てたトキワに命は妻としてではなく、水鏡族の一人として感謝せずにはいられなかった。


 その夜2人は別れを惜しむように時間を共に過ごして、朝になりトキワは準備を済ませると家の外に出た。


「…いってらっしゃい」


「…いってきます」


 いつものように挨拶を交わしてから短く口付けると命は一生の別れじゃない。一緒にいられる時間が減るだけだと自分に言い聞かせてから、笑顔で大きく手を振りトキワの背中が見えなくなるまで見送った。


 


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