218現実逃避行3
休日が明けて最初の診療日、診療所にはこの時期にしてはやけに多い患者が押し寄せた。一体何事かと命と桜は困惑したが、最初に受付をした中年女性の患者の一言で、全てを悟った。
「風の神子と結婚するんですって?おめでとう!」
中年女性の一言を皮切りに、待合室にいた患者たちも口々に祝福した。命は戸惑いながらも、ありがとうございますと深々と頭を下げた。
その後診察を開始したが、診療中も祝福や回覧板に記載された馴れ初めについての感想や質問などを命に次々と投げかけられる。それを桜が本題の診察へと強引に切り替える。
肝心の患者達の症状は処置を要するものはほぼなく、紙で指を切っただの、髪の毛の量が減った。深爪をした。最近食べ過ぎて太ったなどと桜が思わず聞き返してしまうような症状の患者ばかりだった。
午前の診察が終わり、昼休みに入ってからも、診療所の前に人だかりが出来て、命は驚き戸惑いを隠せずにいた。そして午後の診察も患者が次々と現れて、命に興味津々だった。夕方になると、若者も目立ち始めて、診療所の周りにたむろしていた。
「ちー、お前今日は診療所から出るな」
「そうします」
窓から外の様子を観察した桜の言葉に甘えて、命はこの日診療所に泊まる事にした。桜は診療時間を終えると、看板をしまってから、神殿に苦情を申し立てに行った。
診療所に一人残された命が耳を澄まして、外の様子を盗み聞きすると、若い女の子の声で命の顔を見てみたいという好奇心や、トキワが姿を現すかもしれないという期待を口にしていた。基本的に命の印象は悪くないようで、二人並んだ姿が見たいといった要望も聞こえてきた。
昨日の出来事も含め、命が村人たちに感じたのは、決して悪意はなく、命がトキワと結婚するのはむしろ好意的で、ただ噂の的である命の姿を一目でも見て、世間話の種にしたい様子だった。きっと自分も同じ立場だったら同じだろうから、責める気はない。
しかし悪気がなくても、診察の必要が無い人間ばかりだと本当に具合が悪かったり、怪我をした患者が困ってしまう。
今日だって嘔吐を繰り返して苦しそうな子供や、その場に倒れ込んだ女性がいたので、命はその都度桜を呼んで患者に頭を下げて診察の順番を変更した。
明日以降もこれが続いてしまったら、患者が増えて収入が増えても、助かる生命が助からなくなる可能性も出てきてしまう。命はそれを危惧していた。
「ちーちゃんごめんね」
不意に声がして振り返ると、申し訳なさそうにトキワが診察室の入り口に立っていた。魔術を使ったのか、気配が全くしなかったので、命は驚き声を上げそうになったが、両手で口を押さえて必死に堪えた。
「今日一日大変だったでしょ?うちの工務店にも暇な奴らがいっぱい来たよ」
「そうなんだ。お疲れ様。うちは今桜先生が神殿に対応を求めに行った」
「桜先生いないんだ」
「うん」
つまり今ここには命と二人きりだという事実と、不謹慎だけど困り顔の命が可愛くて仕方がなくて、トキワはムラムラしていた。
「お、俺もばあちゃんに文句言ってくる」
「待って!」
踵を返して診察室を出ようとするトキワの腕に命はすがる様に抱きついた。
「もう少しだけそばにいて……」
不安げに赤い瞳を揺らし、上目遣いで見つめてくる命にトキワは息を呑むと顔を逸らして、頭の中で床の板の目を数えてこの場をやり過ごそうとした。
百二十七目辺りから、命の胸に挟まれた腕から伝わる心音と柔らかさと体温で頭がいっぱいになり、つい彼女を振り払ってしまい、その衝撃で命は後ろに倒れて尻餅をついてしまった。
「ちーちゃんごめん!大丈夫?痛かったよね!?」
慌ててトキワはしゃがんで命の両肩を掴んで心配したが、命は初めて彼に拒絶されたショックで、顔を俯かせたまま動かなかった。
「大丈夫、気にしないで」
震えた声で命は無理に笑ってから立ち上がると、トキワに背を向けた。
「もう大丈夫だから、トキワは光の神子に会いに行って来て。みんなお祝いしてくれるのは嬉しいけれど、診察を必要とする患者さんに迷惑がかかるから、どうにかして欲しいんだ。だからお願いね」
「わかった。ちゃんと伝える」
「あと、事態が落ち着くまでここには来ないで。お願い」
「……それもわかった」
今命を一人にしてはいけない。頭の中では分かっていても、また彼女を傷つけるかもしれないという気持ちが勝り、トキワは後ろ髪を引かれる思いで気配を消すと、診療所から出て行って神殿を目指した。
二時間ほどしてから、桜が神殿から帰ってきた。苦情には暦が対応してくれたらしく、途中トキワも合流して光の神子と話し合い次第、急ぎ回覧板に挟む神殿からのお知らせを作成することになったと一緒に夕飯を食べながら説明してくれた。
「桜先生、私しばらく診療所を休んでいいですか?」
「ああ、その方がいい。しばらく家に引きこもっていろ」
桜も同じ考えだったので、命が休むことを快く了承した。しかし命は首を振って神妙な顔になった。
「私、今から村を出ます」
「は?何を言ってるんだお前!?」
思いにもよらない命の決断に桜は驚き声を上げた。
「建前は花嫁修行という事で期間はとりあえず一週間、次の結婚式の打ち合わせまでには戻ります」
早速命は立ち上がると診察室を出ようととしたので、桜は命を制止した。
「待て、その間お前はどこで何をするつもりだ?」
「とりあえず今夜はバイトしていた酒場にお世話になります。翌日からギルドで依頼を受けて時間を潰します」
居処がはっきりしているならば、止める必要は無いのかもしれない。ギルドで依頼をを受ければ記録が残り消息が掴めるし、命のギルドランクは低く危険な目に遭うことは殆どないはずだ。
「義姉さんがいいと言ったら行っていいぞ。ただしギルドで依頼を受けて消息が分かるようにすること、必ず約束の日までに帰ってくることが絶対条件だ。分かったな?」
「分かりました。じゃあ早速準備して出発します」
命は診療所のドアから顔を出して誰もいないのを確認すると、家に戻り急ぎ旅の準備をした。
母にも事情を話し、渋々と村を出ることを認めてもらうとお手製の照明魔石を貰って、心配気な実の頭を撫でてから家を出た。
祈達に話したら、反対されそうなので黙ることにして照明魔石を使って周囲を照らすと、夜行性の魔物が蔓延る獣道を弓を片手に一気に駆け抜けて港町を目指した。




