156湯けむり温泉旅行3
翌日、秋桜診療所の改修工事が始まった。予算を抑えるために大幅なリフォームは行わず、傷んだ屋根の修繕や、ペンキの塗り替えに床の張り直しなどを行う。昨日命が蹴破ったドアも新しいドアが取り付けられることになっている。
現場責任者のヤマトがトキワら大工を連れて桜に簡単に説明と挨拶をした後、注意事項などを確認してから作業が始まった。
命は邪魔になるだろうと思い、様子をこっそり窓から見ていると、作業開始前のトキワに見つかり窓越しに目が合い、にっこり嬉しそうに笑い手を振ってきた。しかしヤマトに注意されたのか、気持ちを切り替え真面目に作業へと取り掛かったようだ。
改修工事による喧騒の中、命は弁当作りを再開した。早朝に光と実の分も詰めて持たせたので、おかずは完成している。あとは自分と桜とトキワの分を詰めるだけだ。桜の弁当箱は祈の置いて行った物、トキワの分は亡き父、シュウの大きな弁当箱に詰める。
メインのハンバーグは昨夜事前に肉だねを作って氷魔石が動力の冷蔵庫に入れて冷やしておき、朝焼いて粗熱をとった物だ。野菜の切れ端を微塵切りにして混ぜているので、中々のボリュームになっている。小ぶりのハンバーグは二個ずつ命と桜の分、拳大のハンバーグはトキワの分として詰める。そして花柄に型取った人参を甘く煮た物やマッシュポテト、茹でたブロッコリーと粉チーズとパセリのオムレツを詰めて弁当箱の蓋をして、主食のライ麦パンはスライスしてカゴに乗せて埃がかぶらないようにナプキンを被せたら、弁当は完成だ。
出来上がった弁当は昼時になったらすぐ食べれるように食卓に置いて、命は台所の片付けをした。片付けを終えると、桜が荷物を整理していたので手伝おうと思ったが、昨夜の疲れが少し残っている上に朝早くに起きた影響で睡魔が襲ってきたので、命は桜に仮眠を取ると伝えてエプロンを外し、二階の自室のベッドで横になって二度寝した。
二度寝から覚めて命が一階のリビングに降りると、桜とトキワがお茶を飲んでいた。どうやら小休憩中らしい。
「おはようちーちゃん」
「おはよう、休憩中?」
「うん、あと三分。休憩終わるまでにちーちゃんの顔が見れてよかった」
命が寝ていたのでトキワは起こさず大人しく桜とお茶を飲んで休憩していたようだ。
「もう行かないと。次はお昼休憩に来るね。お弁当楽しみだな」
「いってらっしゃい。お仕事頑張ってね。ご安全に」
作業を再開するトキワを命が声をかけると、トキワは目を輝かせて喜びを噛みしめるように拳を強く握った。
「仕事のお見送りをしてくれるちーちゃん……最高過ぎるっ!行ってきます!」
これでキスもしてくれたら言うことなしだが、桜がいるので断念して、結婚したら行ってきますのキスは必ずしたいと願望を膨らましつつ、トキワは家を出て行った。
「なんつーか、お前らラブラブだな」
「まあ、一応ね」
「このまま何事もなく一日が終わるといいな」
「……ですね」
トキワを始めとする大工達に怪我が無いよう願いつつ、命も荷物の整理を始めた。
十二時になると昼休憩になったトキワが家に入ってきた。
「ただいまー」
この家はトキワの家ではない。恐らく彼は新婚さんごっこがしたいのだろうと命は察してご機嫌でも取っておこうと思い、玄関まで出迎えた。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様!お弁当一緒に食べよう」
出迎えてくれた命の新妻感にトキワは感動すると同時に、ご飯?お風呂?それとも私?という定番の台詞を言ってもらいたい衝動を抑えつつ破顔した。
命とトキワと桜で食卓を囲むと、お弁当箱を開けて昼食を取る事にした。
「わー美味しそう。ちーちゃんすごい!いただきます」
トキワは命の作った弁当に感激しつつ、まずは大きなハンバーグを口にした。沢山の野菜とひき肉の旨味が溢れていて冷めても美味しかった。
「ちーちゃんハンバーグ美味しいよ。本当にありがとう」
デレデレになりながらトキワはハンバーグを褒めて他のおかずも口にしては命を絶賛した。
「もしかして私はお邪魔かな……」
気まずそうに桜がパンをかじるので、命は必死に首をブンブンと振った。
食後、命は大工達に差し入れしようと事前に作っておいたお茶とお菓子を用意すると、家の外に出て大工達に配った。トキワもそれを手伝う。トキワは仕事仲間達に命を結婚を前提に付き合っている恋人だと自慢げに紹介するものだから、命はなんだか気恥ずかしくなった。唯一顔見知りだったヤマトから結婚して家を建てる時はうちが格安で建ててやるから任せろと言われて、ますます顔が熱くなる。
そして昼休憩が終わり、作業が再開されてから時間が経ち三時の休憩になった頃、命と桜は各々トランクを持ち戸締りをして家を出て、玄関のドアに鍵を掛けた。
「すみません、出掛けるので後はよろしくお願いします。何かあったらトキワくんに確認するか、以前そちらが建てた家に住む姪に声をかけてください」
桜は休憩中のヤマトに留守の間の対応を説明した。
「わかりました。改修工事は任せてください。では道中お気をつけて」
「え、ちょっと待って。ちーちゃん達どこに行くの?買い物に行く格好じゃないよね?」
事態が把握できないトキワは酷く驚いた様子で珍しくよそ行きの服を着た桜とベルト付きの黒いシャツワンピース姿の命を交互に見た。
「……今から桜先生と二人で慰安旅行で温泉に行くの」
バツが悪そうに命はトキワと視線を合わさずに行き先を告げた。
「温泉って、もしかしてあの時のチラシって」
「うん、そこに行くの」
「だから俺が誘った時乗り気じゃなかったんだ」
トキワは命に完全に裏切られた気分になり、今日一日の多幸感が一気に消え失せた。
「何で黙ってたの?」
「言ったらトキワは、絶対仕事休んでついて来たでしょ?」
「………」
違うと否定したかったが、トキワは確実に命について行ってた気がして反論出来なかった。
「いつ帰ってくるの?」
「改修工事の最終日……」
旅の日程にトキワは更に絶望して瞠目した。
「そんな、これから工事が終わるまで……毎日休憩中にちーちゃんに会えると思って楽しみにしてたのに……」
「ごめん、でも私も桜先生と旅行に行くのずっと楽しみにしてたから、今回は見逃して。ね?」
命は首を傾げ手を合わせると、精一杯可愛くお願いした。そんな二人の修羅場を桜とヤマト達は面白そうに見物していた。
「わかった。だけどこの埋め合わせは必ずしてもらうからね」
「うん、でもお手柔らかにね」
トキワは断腸の思いで命と桜の旅行を認めて、埋め合わせを約束させた。
「とりあえずペンダント貸して。ムシ除けしとくから。桜先生もなんか石がついたアクセサリーとか無い?」
「指輪でいいかな?」
「うんそれでいい」
トキワは命の銀の天然石ペンダントと、桜のサファイアの指輪に魔術でムシ除けという名の守護効果を付与させるとそれぞれに返した。
「じゃあ、二人とも気をつけて。あと温泉楽しんできて」
「ありがとう、行ってきます」
お礼を言って命と桜は乗り合い馬車の待合い所を目指そうとトキワから背を向けると、不意に命はトキワに腕を掴まれて唇を奪われた。
「行ってらっしゃいのキスだよ。ちーちゃん愛してる」
人前でイチャつくのはルール違反だと命は叫びたかったが、温泉に行く事を黙っていた後ろめたさと、キスのときめきで言い返すことが出来ず、トキワの仕事仲間と桜の顔を見るのが怖くて俯き、待合い所まで早歩きで向かった。