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毎日が新世界

作者: 恵梨奈孝彦

毎日が新世界


「そうだ。そのまま直進。もう少しで左カーブだから道なりにすすめ」

おれは右手で松明を持ち、左手で洞窟の壁を触りながら歩いている。

洞窟の中は冷たく、しめっぽく、灯りがあるとはいえ視界は2メートルもない。

「よし、三歩ほど歩いたら丁字路になっている。そこを右だ」

地面の高低差がひどく、袋小路が多い。迷路そのものの洞窟の中ではイヤホン越しの指示だけが頼りだ。

丁字路を曲がって100メートルも歩いただろうか。おれは妙なことに気がついた。

「ここは、さっき通った場所なんじゃ…」

 指示に耳をすます。

「今日は、8月32日」

 え?

 今なんと言った?

「待ってください。外にでるにはどうしたら!」

 マイクに向かって叫ぶ。

「苦しみを選ぶ」

「何を言ってるんですか! おれはあなただけが頼りなんですよ!」

「そうだ。あの日の夕方、きらきら光る物体がジグザクに飛んでいるのを見たんだ…」

「やめてください。しっかりしてください!」

「頭が割れそうに痛い。頭が割れた。脳が出るのがつらいです」

 ものすごく不吉なことを言い出した!

「ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ…」

 その時、おれの足が消え始めた。

「ぎゃぁぁぁっ!」

 脚が消え、下半身が全て消え、上半身が消え、両手が消え、持っていた松明も消え、肩が消え、頸が消え、ついに顔から上だけになった!

「た、たすけて…」

 ついにすべてが消えた。


 まぶたを開いた。

 天井が見える。

 なんて悪い夢だ。上半身すべてに気味の悪い汗がべったりくっついている。

 体を起こしてみた。

 正面の壁に不自然なほどに大きな鏡が掛けられている。

 洗面所ならともかく、寝室に鏡など掛けるものだろうか?

 鏡の中のおれは、ぼさぼさ頭にパジャマがわりのジャージを着ている。

 …え?

 だれなんだ、この男は。

 どう考えてもあれが鏡に映った自分であることは間違いない。

 だけど、見慣れた自分の顔のはずなのに、それらしい懐かしさが微塵も感じられない。

 鏡に映ったおれは、二十代のはじめから真ん中くらいだろうか。

 髪を短く切りそろえていて、眉が太く、二重瞼の目は大きく、鼻が高い。日本人にしては濃い顔のようだ。

 日本人? おれはいつ「日本人」という概念や言葉を知ったんだ?

 どちらにしろおれはこんな人間を知らない。

 まわりを見回してみた。

 フローリングの上にベッドが置かれ、小さめのソファーもある。その向こうには二脚の椅子とテーブルが置かれている。

 寝室とリビングを兼ねているようだ。

 食事しながら見られる角度に、ちょっと大きめの液晶テレビが置かれ、テーブルの向こうには対面式のキッチンがあった。

 おれはこんな部屋を知らない。おれはこんな世界を知らない。ここはおれがいた世界じゃない。

 だけど、おれは自分の世界さえも知らない。

 おれの「思い出」は「目を覚まして鏡を見て部屋を見回した」、ただこれだけだ。

 その前は、なんだか悪い夢を見たようだったが、それさえもぼんやりとしていて、なんだか同じ所を堂々巡りして怖い思いをしたということ以外何も覚えていない。

 ものすごい不安が一気に襲ってきた。

 たまらないくらいの焦燥。

 じっとしていられない。

 ベッドから出てフローリングの上をぐるぐる歩き回った。

 それで何かがわかるわけじゃない。だけどそうせずにいられない。

 きちんと片付いたキッチンが見える。壁にかかったタペストリーが見える。

 埃ひとつないぴかぴかの床が見える。

 だけど何か足りないような気がする。こういう場所にはあるはずの何かが…。

 その時、がちゃりという音がして部屋のドアが開いた。

「起きたんだ…」

 入ってきたのは、若い女だった。

 まず印象的だったのは、彼女の透けるように白い肌だった。

 まっすぐな黒髪を背後に垂らしている。

 ぱっちりした眼に隆い鼻。

 相当な美人だ。

 彼女は簡素な白のTシャツに、デニムのショートパンツを身に着け、素足にスリッパを履いている。健康的で白い脚がまぶしい。なるべくそちらを見ないように、顔だけを見ながら話しかけた。

「あの…、ここは…」

 美人は、眉をひそめて憂いの表情を見せた。

「やっぱりダメか…」

 なんだかいたたまれなくなった。するとそれを察したのか、彼女はこんなことを言った。

「ごめんね。あなたの方が大変なのに。ここは、あなたの家」

「では、あなたは…」

「あなたの嫁」

 こんな美人が?

「もうっ! 毎日毎日傷つくなあ! わたしはあなたの嫁で、ここはあなたの家! このリビングはあなたの希望でつくったし、対面式のキッチンはわたしがあなたに頼んで取り入れてもらったんだよ!」 

 そう言われても、思い出せない。

「これを見て」

 彼女が取りだしたのは新聞だった。

 インクのにおいがする。触ると手につきそうだ。間違いなく今日の朝刊だろう。

 記事は…、一面は政治記事のようだが、自分が知らない政治家が首相らしいということしかわからない。

 仕方がないので日付を見た。

 令和元年6月8日。

 8月32日ではない。何だろう。なぜこんなあり得ない日付を思いついたのか。

 とりあえず今日が何日かはわかった。だけどそれだけだ。壁にかけられた時計を見た。八時十分をさしている。

 新聞を返すと彼女が言った。

「もうひとつ、見てほしいものがあるんだけど」

 そう言って一葉の写真を取りだした。

 若い女が映っている。二十代だろうか。ここにいる彼女が細面のキツネ系の美人だとすれば、写真の女性は丸顔に鼻が低い、タヌキ系のかわいい顔の娘だった。

「何か思い出せる?」

 そう言われても、初めて見る顔だ。

「ねえ、彼女がだれだかわかる!?」

 彼女が必死な声を出した。

「すみません…。わかりません」

 申し訳なくなってきた。

「そう。ごめんなさい。大きな声を出して」

 彼女が今度は落ち着いた声を出した。

「あなたには、まだ見てもらいたいものがあるの」

 また、いたたまれない気持ちにさせられるのだろうか。その気持ちが表情に出ていたのか、彼女はあわてたように言った。

「いや、何か思い出してほしいとかそういうんじゃないの」

「何でしょうか」

「ビデオレター」

 誰からだろうか。今のおれには、知っている人間と言ったら、この彼女だけなんだが。

「絶対に、あなたの敵にはなりえない人。生涯あなたの味方であり続ける人」

 見当がつかない。

 彼女はそれ以上何も言わずに、テレビを点け、リモコンでビデオを再生させた。

 テレビに映ったのは…、新聞の欄外つまり、日付だった。

 令和元年6月7日

 昨日の新聞だ。

 新聞が画面から見切れると、一人の男がテーブルについて座っているのが見える。

 この部屋だ。

 そしてその男は、髪を短く切りそろえていて、眉が太く、二重瞼の目は大きく、鼻が高い。

 要するに、鏡に映ったおれの顔だ。

 …昨日のおれからのビデオレターか。

 おれが液晶画面を通して話しかけてきた。

「明日のおれへ。…おまえにとっては今日のおまえなんだろうが。おまえはいま、途方に暮れていると思う。だけど落ち着いて聞いてほしい。おまえは、脳の病気、いや怪我と言ったほうがいいかもしれないが、その影響で『エピソード記憶』が一日しか持たないようになってしまっている。おまえがこの映像を見ているのは令和元年の6月8日だろうが、おまえには『令和』とは何のことだかわかるはずだ。しかし、自分がいつどこでそれを知ったのかは覚えていないと思う。つまり、『出来事』を一日ぶんしか記憶することができず、毎朝目覚めるたびに昨日以前の出来事を忘れている。おまえはずっとそれを繰り返している」

 そんな! だったらこれからも…。

「そしてこれからも、毎朝知らない世界で目覚めることになる。だけど悲観しなくていい!」

 これで悲観するなっていうのは無理な話だ!

「なぜなら…、おまえにはユリエがいる!」

 画面に、いまここにいる彼女の姿が映った。彼女の名は、ユリエというのか。ユリエは昨日のおれの肩にやさしく手を置いた。

「ユリエは絶対に信頼できる。献身的なまでにおまえに尽くしてくれる! これまでも、これからも! 今のおまえは不安と焦燥でたまらない気分になっているはずだ! だけどおまえにはユリエがいる! 絶対に記憶をもどすことができるはずだ! …それからもうひとつ、まだおまえはユリエに敬語を使っているのか? それだけは早めに直せ」

 おれはこっちを見ながらにやっと笑った。

「確実に機嫌が悪くなるから、な」

 ビデオレターは唐突に終わった。

 おれは部屋にいる彼女を見た。

「ユリエ?」

 彼女はにっこりと笑って言った。

「なあに、タケシ」

 おれはタケシというのか。

「その…、迷惑をかけてすまない」

「いいよ。それより朝ご飯にするから、顔をあらってきてね」

 リビングを出るとすぐに洗面所があった。何度見ても見覚えのない顔だ。そんな顔がさっき自分に向かって話しかけてきた。自分が自分に話しかけてくるなんて、本来なら滑稽さや気味悪さを感じるものなんだろうが、他人に話しかけられたようにしか思えない。

 だけど、あれが自分だということだけは間違いがない。ユリエの言う通り、おれの敵にはなり得ないことだけは確かだろう。だから…、ユリエを信頼できるということも間違いない。

 朝食はレタスの入った野菜サラダとブラックコーヒー、カリカリにまで焼いたトーストにベーコンエッグだった。

 どれもとても旨かった。ユリエはおれの好みを把握しているようだ。

「食べ終わったら、これを飲んでね」

 ユリエが錠剤を出した。PTP包装シートの透明なプラスチック部分を通してピンクの玉が見える。裏返すと、シートのアルミ部分に「セルリアンA錠」と書かれていた。

 この名前は知らない。

「それは抗不安剤なの。あなたは今は心療内科に通っているんだけれど、それを飲んだらきっと不安がやわらぐから」

 脳に「怪我」をしてから、この薬を処方されるようになったから、おれはこの名前を知らないのだろう。

 ユリエに用意してもらったコップの水で、その錠剤を飲んだ。

「それで、今日はどうしようか。外に出たい?」

「いや、そんな気分じゃないよ」

 ユリエはほっとしたようだった。確かにこんな状態の男を連れて街に出るなんて大変なことだろう。

 その後は、ユリエと話をして過ごした。

 二人の出会い、告白、交際時代のエピソード、プロポーズでのこと、結婚式でのこと、結婚してからのことを話した。

 何も覚えていない。だけど話をしているユリエが本当に幸せそうだったので、聞いているだけでうれしくなった。

「それで、あなたに一つだけお願いがあるの」

 何だろうか。

「明日のあなたのためにビデオレターを撮らせてほしい」

 毎日撮っているらしい。

「内容はいつも同じだけれど、状況が変わって『今はユリエを信じられない』なんてことにならないとは限らない。今のあなたがあたしを信じていることを、明日のあなたに伝えてほしいの」

 むろん了解した。カメラに向かってさっき伝えられたようなことを話した。

 あっという間の一日が過ぎていく。夕食にユリエが作ったカレーライスを食べ、薬を飲み、入浴を済ませると眠くなってきた。

 ユリエはまだ話したかったようだが、とりあえずベッドに入った。

 今日のことを明日になったら忘れてしまうなんて信じられない。昨日までのことはともかく、今日以後のことはずっと記憶していくんじゃないかという気がする。あのビデオレターは無駄になるかもしれないな…。

 その時、なんとなくひっかかった。

 ユリエは、おれと結婚していると言った。ちゃんと結婚式も挙げているという。

 だったら、その時の写真を見せればすぐに「ユリエと結婚している」とおれに理解させることができたんじゃないのか?

 馬鹿な。そんなものを見なくても、あのビデオレターでおれはユリエを信じた!

 いや、ビデオレターの中の昨日のおれも、一昨日のビデオレターを見て信じただけかもしれない。今のおれと同じように!

 今日のおれも、昨日のビデオレターを見ただけでユリエを信じて、明日のおれにビデオレターを送ったじゃないか。そしてユリエが寝室に鏡を掛けているのは、朝起きて何も覚えていないおれにまず自分の顔を見せて、ビデオレターの中のおれをスムーズに認識させるためなんじゃ…。

 …おれは何を考えてるんだ! ユリエがおれのため以外にそんなことをする理由がない!

 いや、写真で見せられたあの若い女。もしあの女性がおれの本当の妻だったら。だからユリエは自分との「結婚写真」をおれに見せられないんじゃないのか。ユリエがあの女性の写真を見せたのは、おれがあの女を忘れているか確認したんじゃないか? そういえば、おれが「わからない」と言ったら、ユリエはほっとしていたような気がする。

 くだらない! ただの妄想だ!

 そのとき、朝にこの部屋には何かが足りないと思った、そのものについて思い当たった。

 電話だ。この部屋には電話がない。

 家族がいちばん長い時間を過ごす居間に電話を置くのは自然なことだ。ましてここは寝室を兼ねている。そして、この部屋以外にこの家に電話が置かれている様子もない。

 むろん、いまどき固定電話を置かない家は珍しくない。当然ユリエはスマホを持っているだろう。

 しかし、こんな状態のおれにスマホなど持たせるわけがない。

 そうするとこの家には外と連絡する手段を持っているのはユリエだけということになる。

 おれが「今日は外に出ない」と言ってユリエが安心したようなのは、なるべくおれを外の世界に触れさせたくないからなのでは?

 何のために?

 自分が、あの写真の女性に取って代わったことを、おれに気づかせないために!

 妄想だ! それをするためには、おれが「エピソード記憶」を失っていることが前提だ。だけど、ユリエにそんなことができるはずがない。おれは脳に怪我したことによって…。

 いや、おれはビデオレターでそう聞いただけだ。あの中のおれはもちろんユリエから聞いただけだろう。あの「セルリアンA錠」。おれは、あれを飲むことによって毎日記憶をリセットされているのではないのか?

 駄目だ。薬のせいなのかひどく眠たい。ものを考えられない。せめて起きて、ユリエにこのことをかくにん…。


おれは右手で松明を持ち、左手で洞窟の壁を触りながら歩いている。灯りがあるとはいえ視界は2メートルもない。

「よし、五歩ほど歩いたら丁字路になっている。そこを左だ」

洞窟の中ではイヤホン越しの指示だけが頼りだ。

100メートルも歩いただろうか。おれは妙なことに気がついた。

「ここは、さっき通った場所なんじゃ…」

 同じところで何度も同じことを繰り返す。何かを思い出せそうで思い出せない。

「今日は、8月32日」

 9月という新しい段階に入ることができずに時間だけが過ぎていく…。なんだこの感想は。どうどう巡りしている今の自分のことか? だめだ。何か大切なことを忘れている!

「外にでるにはどうしたらいいんですか! 教えてください!」

 マイクに向かって叫ぶ。このままでは外との連絡が全く絶たれる! 外部とのつながりはこの無線「電話」だけなんだ。

「頭が割れそうに痛い。頭が割れた。脳が出るのがつらいです」

 脳がケガでもしているようなことを言いだした! 脳が怪我? なんでこんな言葉を思いついたんだ? おれの発想ではないような…。

「ユルサナイ…」

 許さない? 誰がだれを許さないんだ?

「ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ!」

 ぎゃぁぁぁっ!


目を開けた。

 天井が見える。

 体を起こしてみた。

 正面の壁に不自然なほどに大きな鏡が掛けられている。

 鏡の中のおれは、ぼさぼさ頭にパジャマがわりのジャージを着ている。

 …え?

 だれなんだ、この男は!

 了


 


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