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ある男の洗顔

作者: 井ノ下功

 

 夢を見ていました。とても不思議な。

「へぇ。どんな」

 洗面台の前に立って、鏡を覗きこんでいるのです。鏡には自分の顔が映っています。相応に老けた、特別端整とは言えない顔です。その目尻に皺がありました。いつの間に刻まれたか分からない、濃い皺が。それがどうしても気に入らない。これさえなければ、もう少し凛々しい顔付きになるのではないかと、そう思いました。それで、引っ掻いたら取れるんじゃないかと、そんな風に思ったのです。この辺り、いかにも夢らしいですよね。

 私は爪を立てて、皺を引っ掻きました。すると、目尻が裂けて、血が溢れてきたのです。真っ赤な血は涙みたいに、どろどろと頬を伝っていきました。私は慌てました。こんな顔では人前に出られない。

 私は洗顔クリームを手にとって、顔に塗りたくりました。とにかく、この血を洗い流さなくては、と思ったのです。出来合いの泡で顔を覆って、念入りに擦りました。不思議なもので、その時の傷の痛みは、よく覚えているんですよね。泡が染みて、まるで誰かの断末魔を聞いているかのような、そういう痛みでした。けれど、そんな痛み、少しすれば慣れてしまって、感じなくなるのですよね。

 それから、手探りで蛇口を捻って、水で泡を流しました。ああこれでスッキリした、と思って、顔を上げたのですが、鏡の中の私の顔、その額の際に、流し損ねた泡が残っているのです。

 これでは駄目だ。もう一度流さなくては。私は頭を下げて、改めて顔を洗いました。これならどうだ、と顔を上げると、今度は顎の先に、泡が残っているのです。仕方がないのでもう一度やりました。けれどまだ、今度は鼻の頭に、泡が乗っかっているのです。何度水に流しても、いつまでもどこかに泡が残っていました。

 私は嫌になって、めちゃくちゃに顔を擦りました。今度こそ、絶対に、泡を落としてやる、と。洗面台に顔を突っ込んで、頭から水を被りました。ここまでやって、落ちないはずがない。確信をもって顔を上げました。

 鏡の中の私は、目尻から血を流していました。

 泡がなくなれば血が流れる。血を洗えば泡が残る。どちらにせよ人前に出られる顔ではありません。最初に傷を付けたのが悪かったのだ、と思いました。けれど、今さらな話です。タイムマシンがあれば話は別でしょうけれど、そんなものはありません。

 ではどうしようか。私は考えました。考えてもいい案は浮かばなくて、血はだらだらと流れていきます。

 すっかり困り果ててしまった私は、何気なく鼻を擦りました。こう、手の甲で、いつもやるみたいに。これが癖なのです。

 すると、鼻がポロリと取れました。

 冷静に考えると怖い話なのですが、その時の私は、まぁ夢の中のことですので、むしろしめた、と思ったのです。この調子で、顔のパーツから傷跡まで、一旦全部外してしまって、それからパーツだけ戻せば、綺麗になるのではないか。

 それで、口を擦って、耳を擦って、目を擦りました。私は綺麗なのっぺらぼうになりました。傷は勿論、何もない、つるっとした肌。目も取れたはずなのに、何故か鏡の中が見えたのです。

 それから私は、慎重にパーツを戻していきました。まずは鼻。顔の真ん中に。次に口。鼻の真下。それから耳。顔の両側に、左右の高さが揃うように気を付けて。最後に目。まず、左目を付けました。そうしてから、右目を付けようとして、手に持ったのです。

 そこで私は、右目の目尻と引っ掻き傷が繋がっていることに気が付きました。これには参った。このままくっ付けたら、結局元の木阿弥。傷は消えない。

 私は引っ掻き傷を引っ張って、目尻から外そうとしました。初めは慎重に、けれど全然外れそうにないものですから、終いには両手で持って、力一杯引きました。

 次の瞬間、ぶつっ、と、嫌な音が手の中で鳴って。

 そこで私は目を覚ましたのです。

 夢は何かを暗示していると言いますが、これは一体、どんなことを示しているのでしょうか。

「暗示というほど複雑なものじゃないね。というか、ここまで分かりやすく言われているのに、気が付かないなんて、その方が凄いよ。分からないと本気で言うなら、教えてあげてもやぶさかではないけれどさ。要するにその夢は、どれだけ取り繕っても、どれほど水に流そうとしても、たとえ元号が変わって新しい時代になったとしても、傷は消えない、ということさ。それにしても、不思議だよね。どうして君らは、真正面から治療するという道を考えもしないのだろう」

 何を言っているのですか。意味が分かりません。

「だろうね。それが君だ。さぁそろそろおしまいの時間だよ」

   ※

 ノックの音に起こされた。

「――大臣、そろそろ、会見のお時間です」

「あぁ、わかった。すぐに行くよ」

 疲れが溜まっている所為だろうか、うたた寝をしていたようだった。私は立ち上がって、固まった背中を伸ばすと、洗面台に向かった。

 洗顔クリームを付けて顔を洗う。ネクタイを締め直し、口角をチェックする。端整とは言えない、年相応の顔が映っている。その目尻に深い皺が刻まれていた。いつの間にこんなに深く皺が付いたのだろうか。この一筋だけで、随分老けているように見える。

 私は爪を立てて引っ掻いた。

                  おしまい

 

 

 

誤魔化そうとすればするほど、傷は深く、広がっていく。


大学内のサークルにて「平成最後」というテーマで書いたものです。

ホラーのつもりではなかったんですけど、他のメンバーにホラーと認定されたので、ここでも一応ホラー扱いにしています。

お粗末様でした。



 


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