第九章 未明の相談
……。
……。
……。
……ミル……?
おねーさま……。
ミル……だめよ、こっちに来ては。風邪がうつっちゃうわ。サクラに叱られるわよ……。
でも、でも……。
……、……、……。
……、……、……。
……、……、……、……ちょっとだけなら、大丈夫かしら……。
……っ! うん、ちょっとだけ! ……おねーさま、大丈夫?
いつものことだもの……少し、きもちわるいだけ。明日にはきっと遊べるわ。
でも、前もおねーさまそう言って……結局、春まで……。
ミル、今回は大丈夫だから。きっとすぐに良くなる。本当に、ただの風邪だもの。お医者さまも、そう言ってたでしょ?
……うん。おねーさま、これ。
……これ、は……?
あのね、四葉のクローバー、見つからなかったの。だから、代わりに、これ、作ったの。クローバーの花冠。
……綺麗ね。
……うん! おねーさま!
ん?
早く、良くなってね! おかーさまもおとーさまも、サクラもダンセルもシバも、心配してる。
……うん。早く良くなるわ。だから、……もうお休み、ミル。
……夢、か……?
月明かりだけを頼りに、我輩はベッドから身を起こした。
……。
昼日中とは、つまり太陽の支配する時間だ。七月ともなればそれが全盛を誇る季節でもあり、その熱は日が落ちた後にも尾を引いて己の主張に余念がない。
だが、この時間――草木も眠るとさえ比喩される夜中であれば、それも落ち着きを取り戻す。肌に粘るように貼り付く特徴ある冷気が、今の時間が深夜だという事を雄弁に物語っていた。
……ここは……ミルネシアの部屋か。
我輩の部屋、と言っても問題はないだろうが、まぁミルネシアの部屋だ。広さは六畳ほど。窓は西と南に一つずつ。濃い色の木材で出来たベッドが西の壁際に置いてあり、その隣――南の窓下には、ぬいぐるみや植木鉢、本などが置かれた横に長い物置棚が一つ。東にある扉横にはコートやハットを掛けておけるラックが一つ置いてあり、今は学園制服であるブレザー・スカート・魔術師ローブが無造作に掛けてある。
殺風景、とも言えるだろうが、物の少ない部屋だ。何故かとサクラに問うと、
「ええ、まぁ、ミルお嬢様はあまりここではお休みになりたがりませんでしたから。大概、レティお嬢様のお部屋で、ご一緒に。……レティお嬢様のお加減がよろしくない時くらいでしたね、こちらをお使いになっていたのは」
との事だった。
…………何か、夢を見ていた気がするが……。
よく思い出せない。
猫であったときは見る夢もシンプルだった故、起きても忘れる事など無かった。つまりは食べているか、寝ているかだ。二度寝している夢を見ていた時などは、起きた後に『もう一度二度寝が出来る』となったりしてお得感があったもので、結論だけ述べると猫って結構愚かな生き物なのではと最近思い始めた。
……まぁ、忘れるという事はさほど意味のあるものではなかったのだろう。
そう思うことにして、我輩はベッドから足を落とし、そこに置いてある靴を引っ掛けて立ち上がった。
我輩は今、ショートパンツにティーシャツというパジャマ代わりの寝巻き姿だ。あまりお嬢様らしくないとも思ったものだが、サクラ曰くミルネシアが好んで着ていたものらしい。
ともあれ、着替える必要がある。別にこのまま出かけても猫的に羞恥心など感じないのだが、そこはミルネシアやハート家への義理立てというものだ。いざとなれば無視もしようが別に今はその時ではない。
と、
……サクラか。
ベッド横の物置棚の上に、就寝前には無かったブラウスが畳まれて置いてある。恐らく朝の着替え用に彼女が置いてくれたものなのだろうが、助かった。
我輩は、着ていたショートパンツを床にすとんと落とし、ティーシャツも脱ぎ捨てるとそのブラウスに袖を通した。続いてラックに掛けてあったスカートとブレザー。夏ではあるが、これから向かう場所の事を考えてローブも上から羽織っておく。
……よし。
準備は出来た。故に、
……行くとするか。
レティシアを探しに、だ。
我輩の目的は、元の体に戻ること。そしてその為の手がかりは、彼女が握っている可能性が高い。
もはや、我輩はこの体がレティシアによって作り上げられたものであることを疑っていなかった。それでも説明の出来ないことは残るが、そうでなくては説明の出来ないことが多くあるからだ。
だが、実の所我輩は昨日まで、彼女が生きている可能性は低いと考えていた。何故なら、シバが言っていたように、そうでなくてはハート家に戻ってこない理由が考えられないからだ。
だが、一方でこうも考えられる。それはローランも触れていた事だが、
……レティシアには、ミルネシアを再生する以外に、何か目的がある。
もっと言ってしまえば、ミルネシアを蘇らせることは、その目的を果たすための過程に過ぎない。その先に何か成すべきことがあり、そのためにレティシアは動いている、ということだ。
そしてそれを前提とした場合。やはり結界魔術師の行方不明、並びにここ数日で起きている魔獣騒ぎが、彼女に無関係であるとするのはいささか無理があると思うのだ。
そしてその手がかりがあるのはやはり、
……大森林、か。
竜脈の祭壇を抱き、魔獣の発生源でもあり、レティシアが最後に手がかりを残した場所。『塔』の魔術師もここ数日結界魔術師の捜索を行っていたというが、やはりここに手がかりを求める事がもっとも合理的だ。
だが夜明けと共に始まる掃討作戦を看過すれば、それは成されない。どんな事情があれ、第二級相等の警戒が敷かれるとあっては、魔獣にしろ結界魔術師にしろレティシアであるにしろ『発見即対処』、となってもおかしくはないのだ。何せ魔獣も出没するような魔の森。無関係な一般人が気軽に散策出来る場所でもない。
つまり、掃討が始まれば街には安寧が戻るだろうが、我輩が求める手がかりは永遠に失われる。それを避けるため、
……っ、と。
我輩は、南側の窓から身を躍らせた。
元々猫であるが故、音を立てずに廊下を歩く術くらいは身に付いているが念のためだ。我輩は音も衝撃も完璧に殺した上でハート邸の玄関脇に着地し、そのまま門扉をくぐる。
そこで我輩は、頭の中にセントリーエルの地図を思い描いた。
石畳で舗装された道を左側へ進み、そのまま道なりに歩けばドーミス通りだ。まずは南東、学園を目指し、そこから外壁沿いに南に歩いていけばヴィーオン通りに出る。後は街の南門までは一直線の道のりだ。
複雑な道程ではない。余り目立ちたくはないが、何なら屋根上を走ればより解りやすいのでそれも有りだろう。
……よし。
行くか、と呟き、ハート邸の門前から歩を進めようとしたその時、
「……行くんですか? レティシア君を探しに」
声が、我輩を引きとめた。
聞き覚えのある声だ。男の声。軽薄そうだが隙を見せない不思議な声。音の上では笑っているが、心の底の表情を決して悟らせない。そんな響き。
……誰にも気取られぬため、わざわざこんな時間を選んだのだがな。
周りはこちらを信じると言ってくれているが、客観的に見た己の不審さは自覚している。
万が一監視や警戒が敷かれているとしたなら、それが薄れるのはこの時間だと考えた。だが、
……。
振り返るとそこには、昼間会った時と同じ、シャツに白衣姿という装いをした長身の男が立っていた。
アーカム・アライヴ。魔術学園の『主席』の一人。
彼は、
「や」
と、軽く手を振って見せた。
……監視していたのか?
我輩はその有無を確かめるため、深夜の行動を欲した。気配からそれは無いものと判断したのだが、
……!
我輩の足元に、唐突に存在感が浮き上がった。
その発生源はどうやら、月明かりに照らされて出来た我輩の影だ。そこから、右目を虚に沈ませた黒い毛の犬が、前足を器用に使って這い出して来ていた。
それは、妙に細長い尾の先までを一度外気に晒すと、
「――」
まるで水面にでも飛び込むかのような動きで、我輩とアーカムの間にある路面に身を沈めた。
一瞬の後、それが再び姿を現したのはアーカムの足元の影。その『後ろ足のない犬』と言っていい特徴的な姿は、
……『影縫いの獣』か。
生き物の影を渡り、相手に己を気取らせず狩りを行う魔性生物の一種だ。
魔獣とは違い、魔力を正等な生物進化に組み込んで発展したのが魔性生物だ。空気中の魔力を食らって生きられるために生存率、寿命と言った点で優秀である反面生殖率が低く、絶対数が少ない事でも知られている。
「気を悪くしないで下さいね。サクラさんが信じる君を、僕個人としては信じたいんですけれど……立場、というものもありますので」
と、アーカムは困ったように眉尻を下げた笑みを作る。だが、それをここで我輩に曝した、という事は、
……疑いは晴れたのか?
男は、ふ、と息をつきながら面を下げる。前髪を揺らし、
「少なくとも、結界や魔獣に関しては。昼間のあれは、僕の傍らにいながら精製・遠隔操作出来る類のものじゃありませんでしたから」
言いつつ、彼は足元の犬の頭を撫でながら何かの動物の骨を与えている。『影縫い』は嬉しそうにそれをしゃぶり始めたが、これ新手の共食いではないだろうか。
……こんな所で何をしている? 掃討部隊の方はいいのか?
「僕は外されました」
……何?
「魔獣の製造に使われたのが再生魔術である可能性がある、と言うことで――まぁそれは僕が証明したんだけど――、僕もまた容疑者の一人って訳です。上の人達に脅されましたよ。篭ってろ、と。さもなくば『塔』内の自販機、僕以外への販売実績のない『青菜オレ』を廃止にするぞ、と」
……それ脅しか?
「僕にとってはね」
意味が解らん。何だ青菜て。オレ化するのであれば出汁が出なければ意味が無いだろう。
それはともあれ、
……本気で疑われているわけでもなかろう? それに、昨日みたいなヤツがもし出てきたら『主席』なしで対処できるのか?
「そのための精鋭ですよ。それに、対外的な理由もあるんだと思いますよ?『塔』の戦力は『主席』だけじゃないんだぞ、と」
言いながら、白衣の男はやれやれ、とでも言うように両手を掲げて見せる。
……世間話をしに来たのか?
「まさか。確認をしに来たんです」
……確認?
それは、
「……君は、レティシア君を見つけたらどうするつもりですか?」
我輩は、その台詞を聞いた上で、アーカムの表情を観察する。
眉を浅く下げた、自然な笑みだ。困り顔のようにも見えるのは彼の性分を知るゆえだろうか。
どうにも、読めない。内面を悟らせない。魔術師としての実力というものか、それとも天然なのかは解らないが、
……どう、か。
無論、訊きたいことを訊くのみだ。だがそれを説明するには、明かせない事情が多分に含まれている。故に、
……どこまで解ってて言っている?
そう訊いた。
アーカムは、しかし表情を崩さず、
「……君は、『協会』が頒布する、世界の歴史を綴った伽物語を知っていますか?」
何を唐突に、とも思ったが、
……。
理解した。
つまりは、ローランが単なる猫であった我輩を拾い育てた『理由』に直結する事だ。
その役に対し、我輩は抵抗を覚えたからこそ逃げた。『怨絶竜』の元を去り、普通の猫としての暮らしを欲したのだ。
それはつまり、
……『竜』の歴史か。
それは、語り継がれる神話だ。現行世界の黎明、そしてその成り立ちを伝える、いつの事だったのかすら忘れられてしまった、遥か古代のお伽話。
「かつて、『竜』は『世界』と同義だったそうです。竜があったからこそ世界はあり、世界があるからこそ竜がいる。現代の歴史では、大地も、法則も、生命も……そして魔術も。全ては『竜』と言う存在から派生して発生した枝葉の一つに過ぎない、と。そう考えている訳ですね」
神、というものが存在するのかどうか、我輩にはわからない。もしも『竜』を作り出した『もの』があるならばそれこそが該当するのだろうが、ローランからは特に何も聞いていない。
現状、この世界において、『神』は概ね『竜』と同一視して語られていた。神話の中におけるフィクションじみた『絶対存在』ではなく、実際問題として『世界』を作った『竜』こそを『神』と崇めているのだ。
「『竜』によってひとたび作り出された『生命』は際限なくその進化を早めていきました。やがて人間が成立し、知性をも獲得すると……『竜』を神と崇め、共に生きる事を望んだ。そして『竜』もまたそれに応え、魔術の歴史が始まります」
そこから先は、数万年に渡る繁栄の時代が続くことになる。正真正銘、人類の歴史における最盛期だ。
しかし、
「『竜』の力は大きすぎたようです。人間が力を増し、『竜の魔術』をも己が意のままに操れるようになるにつれ……彼らは、都市をも一瞬で飲み込むその力を恐れるようになっていきました」
その時には既に、人間の勢力は世界を覆う程になっていた。知性も魔術も、そして驕りまでもが全盛に至っていた彼らは、遂に『竜』をこの世から排斥しようと目論み始めたのだ。
「無論、全ての人間がそうであった訳ではなかったでしょう。例えば『協会』の前身であった勢力はその流れに抗い、竜を守ろうとしたそうです。だが、人類全てを飲み込む『風潮』――『流れ』を変える事は、ついぞ叶えられなかった。結果として『竜』は殺され――それ以降、歴史から姿を消しました」
そうして世界から竜の魔術は失われ、栄華を極めた古代都市も竜脈と共に封印されることになる。
現代魔術時代の始まりだ。
「ま、これ全て『協会』が広めたものですから、そこに恣意が混じっていないとも限りません。否定も鵜呑みもしないくらいが丁度いいと、個人的にはそう思ってますけれど」
アーカムはそう言うが、今聞いたそれはローランが自ら語っていたものと大きな差異は見られない。強いて違いを挙げるならば、彼らは死んだ訳ではなく、未だ歴史の裏にその身を置いている、と言う事くらいだろうか。
「でもまあ、結果として竜脈は全部でないにしろ発掘され、現代魔術と生活の助けになっているんですけどね」
竜脈の力を完全に封じれば、世界から肥沃と光は失われ、緩慢な滅びの道を歩むことになる。故にそれは竜にも出来なかった訳だ。
「だが『竜脈』とは即ち、竜が生きた時代のオーパーツです。人に扱い切れる代物じゃありません。そこから漏れる僅かな残滓を拾い上げ利用するくらいなら問題はないですが……それ以上を求める人間がいずれ現れると、そう『竜』は看破していたんでしょう。故に」
……『血族』。
「いかにも」
竜は、己の代わりに世界を守る存在を世界に放った。
血だ。人間の歴史の中に自分達の『血』を混ぜ、その力を継承する余地を残したのだ。
護りの力。使命を継ぐ者。それこそが、
「――『竜魂の柱』。四百年前にも歴史に姿を現した、竜の力を受け継ぐ者の名です」
……それが我輩だとでも?
祭壇にて唐突に現れ、記憶無く、特殊な体を持った少女。これを神話の登場人物だと断じるのはいささか飛躍が過ぎるが、まあ半分は合っている。
――猫であった我輩は、間違うことなく、その『代わり』として育てられたのだからな。
今代において覚醒するはずの『柱』に問題が生じた、との事だった。ローランによって拾われた我輩は、まだ一歳に満たない仔猫だった。脳が小さく魔核も無かったために自我が薄く、ほとんど二つ返事で彼の提案を受け、二年間の修行生活に身をおくことになった。
もっともそれは半ばで頓挫してしまった訳だが。他ならぬ我輩の逃亡によって。
だがアーカムはこちらの言葉に、いや、と否定を示し、
「まさか。だけどいくつかの符号は一致する、と思いまして。魔術師は意外と迷信に造詣があるもので、そう言う荒唐無稽な御伽噺には惹かれてしまうものなのですよ」
言い、やはり本気でそうは思っていないという事だろう、崩したような笑みを浮かべた。
……記憶が無いからには否定も肯定も出来ないがな。レティシアには、訊きたいことがある。だから追う。それだけだ。
何故ミルネシアの身体を再生したのか。そして今の我輩の魂がそれに入っているのは何故か。元に戻ることは出来るのか。
レティシアを見つけたなら、単に何故を問うだけでもいくつもの事が解るだろう。
しかし、それ以上に何かをするつもりは無い。
――今の所は。
「……それを聞いて安心しました」
アーカムは、表情を変えずにそう嘆息しながら言った。
……それが聞きたかった事、か?
「先生の家族がまた失われるのは、僕の望む所ではありませんから」
彼の笑顔は変わらない。本気で言っているのかすら怪しく感じるが、本心である事は信じてもいいと思えた。
だから、我輩も一つ確認をしたくなった。
……もしも。
「……」
アーカムは何も言わず、ただ言葉の先を促す。
……もしも我輩が、レティシアの命を危ぶむ者だとするのなら……貴様はどうする?
場合にもよる、と。そう思ったので、そう訊いた。するとアーカムはやはり笑顔を崩すことなく、しかし、
「止めます」
瞬間、莫大という言葉が湧き上がった。
……!
それは気配だった。アーカムの背後に突如として顕現し、
「――……!」
こちらを飲み込む圧として空間を打撃する。
彼の傍らにいた『影縫い』が怯えたように背を丸め、足元の影へと沈んで消えた。
残るのは、目に見えぬ、しかし濃密に漂う巨大な『何者か』の存在感だけだ。
目を凝らせば、長身の男の背後にそれが立っているのが解った。月明かりに照らし出され、しかし未だ現実への干渉を明確にされず、蜃気楼のように姿を揺らめかせるのは、
……騎士……!
身長五メートル弱。そしてそれと同規模の大剣を正面の大地に突き立て、その柄に両手を乗せてこちらを赤い眼光で威嚇する、鉄身の巨人だ。
……そ、れは……何だ……!
人ではない。魔獣でもない。昼間に見た巨人でもない。ならばこの、気配だけでこちらを射殺さんとする重厚な存在は何だと言うのか。
「詳細は僕にも解りません、研究中でして。ただ確かに一つ言えることは、これが僕自身の骨を媒介に生み出される従属体だ、ということです」
……何……?
――己の骨を媒介に、だと?
そんな魔術は聞いたことがない。確かに、再生魔術は骨から記憶を引き出し、その生前を肉として再現する術式だ。骨格をフレームとして使わず別の場所に『肉』を再現することも、我輩が使う術式と同じ理論として可能だろう。
だがそれが出来たとして、そうして再生されるのは『己』自身の劣悪なコピーではないのか。
……何故、あのようなものが……?
「再生魔術は、骨の持つ記憶を再現する、というところにヒントがありそうだと思うんですが……解らないんです、『これ』が何なのか。……まことこの世界にも魔術にも、謎と神秘は尽きることがありません。面白いと、そうは思いませんか? これだから研究者は辞められないんです」
そう、興奮するように口から笑みを漏らし、しかし彼は不意に表情を落ち着かせた。
「……僕は先生の家族ではないですが。先生は僕の家族のような人だと、そう思っているんです、勝手にね。だから、あの人が守ろうとしていた物は……僕が守りますよ。何に代えても」
アーカムの背後に立つ騎士が、俄かに身を動かした。現段階ではただの幻にすら劣るはずのそれが、鉄の擦れと筋肉の軋みを音として伝え、弾ける寸前の発条のような緊張感を与えてくる。
……過保護なことだな。
「そうですかね? 僕には家族が居ませんでしたから。ちょっとその辺り、加減が解らないんです」
と、言った途端だ。
――。
アーカムの背後にあった気配が、風と共に四散した。
否、あれは未だ再生魔術として成立していなかった。つまり現実への干渉力を持っていなかった。
故に、風のように感じられた物は我輩の錯覚だったのだろう。
全て脅しのつもりだったと、そういう事だ。しかし、
……そんなに心配ならば、貴様が探しに行けばいいだろう。
彼の技術と竜脈のマナがあれば、骨一つから多数の従属体を作り出す多重生成の魔術刻印も作成可能だろう。それこそ、群を用いた広範囲の捜索が可能なはずだ。だが、
「それは出来ません」
……立場、というものか?
「それもありますが」
アーカムは言葉を探すように数瞬を黙り、
「……僕には、レティシアを罰するようなことは出来ませんから。だから意味がありません」
仕方ない、というような眉を下げた笑みで、彼はそう言った。
……。
それはつまり、もしもレティシアが本当に『何か』をしているとしたら、というイフの話だ。
結界消失。蘇生魔術。魔獣生成。
もしも全てが彼女の仕業であったとするなら。
例えそうであっても、自分には手を下すことが出来ない。アーカムはそう言っているのだ。
……それで街が滅びるとしてもか。
魔獣の目的は塔、ひいてはその地下に眠る竜脈だ。それが奪われるか壊されるかすれば、セントリーエルは現状を保ってはいられない。
そうでなくとも、準竜種相等の魔獣が再び街を襲えば、どのような被害を被ってもおかしくはない。昼間の被害が皆無だったのは単に運が良かっただけなのだ。
それを、少女一人の身柄と天秤に掛けるなどどうかしている。だがアーカムは、
「……それでも、です。先生が守ろうとしたものを、僕にはどうこうする事が出来ません。何があっても」
と、それだけを言い残し、踵を返した。
……おい。
帰ろうとする。
「言いたい事も、確認したい事も、言いましたし確認もしました。後は君がどうしたいかに任せるとします」
言いながら、白衣の後姿が遠ざかる。月明かりの頼りない投光は、その背をほんの数歩で闇へと沈めていく。
消える。
だがその前に、
……我輩がレティシアを殺さないと、そう信じられるのか?
呼びかけた。
先ほどは『話を聞くだけ』などと言ったが、実際はどうだか解らない。彼女がこの件に関わっているのかどうかも不確実なのだ。だから我輩からの台詞は、きっと試すようなものになっただろう。
だがアーカムからの返事は、ただ闇の中からの投げかけに過ぎず、
「さっきは止める、なんて言いましらけれど。本当は僕も解っているんです、何が正しいのか、なんて事は。だから」
言う。それを最後に、彼の気配は完全に闇へと同じた。
「君が決めて下さい。君が――ミルネシアと同じ顔をした君が出した結論ならば、きっと、誰もが納得する結果を得られるでしょうから」
……それは、他人任せということではないのか。
言うが、既に闇の中に男の気配は無い。返事など無いと解りながらの問いかけに、
「その通りです。あの男は、昔からああなのです」
しかし、応じるものがあった。
……!
あまりにも唐突だった。我輩とアーカムの二人だけしか居ないと思っていた門前に、白のエプロンスカート姿が揺れた。
サクラだ。我輩の横で、アーカムを見送るようにして立っている。
……何故。
「主語がありませんが、ええ、色々飛ばしてご説明申し上げますと――メイドには気配などないのです」
初耳だが、実際にそうなのだから仕方が無い。
否、問題はそこでは無かった。
この少女は、我輩とアーカムとの話を聞いていたのだろうか。そうだとしたら、何処からだろう。
その意味を込めた無言を数瞬。するとそれを察したのか、サクラが体ごとこちらを向いた。
「……ご安心下さい。私は、今出てきたばかりです。精々アーカムさんの最後の言葉くらいしか聞いていませんよ」
……その台詞が出る時点で、色々と勘ぐってしまうものなのだが。
「ふふ、そうですね。失礼しました」
言うと、サクラは目を伏せた。
……。
何を言われるのか、と、我輩は身構える。
「……レティシアを探しに行くのですね?」
……二度ネタだが大丈夫か。
「気にしないで下さい。誤差の範囲です」
ともあれ、
「……あれだけの騒ぎがあったんです。もう既に、大森林には結界が張りなおされているでしょうね。魔術師でない私たちでは、もはや入ることすら出来ない」
……そう聞いているな。
アーカムは、消えた魔術師の代わりを手配したと言っていた。掃討作戦の前ということもある。一般人が立ち入らないよう、既に厳重な結界が再設置されているはずだ。
「お嬢様」
サクラは、言った。
「……帰ってきて下さいますか?」
こちらの目的は、元の姿に戻ることだ。
それが果たされた場合、『ミルネシア』はこの家に帰ってこない。
だから、我輩は踵を返す。彼女へと背を向けるようにして、だが、
――。
この少女は以前言ってくれた。我輩が何者であっても構わない、と。だから、
……どのような姿であっても構わない、と言うのであれば。
背越しに言う。
つまりそれは、猫の姿であっても、という事だ。
それを皆まで言うつもりは無いが、代わりに我輩は、決意を込めるような溜めを持って一言を追加する。
……必ず。
約束だ、と。
その答えに対し、サクラには躊躇いも戸惑いも無かった。ただ、こちらの言葉に一切の疑問や否を差し挟むことなく、
「……はいっ」
と、笑顔でそう返じてくれた。
行く。
――。
私は、その一部始終を見ていた。
全てを聞いていた訳ではないが、全てを見ていた。
現象魔術は、金等含め、現行魔術の中でも最も万能に近しい魔術の一種だ。自立性能が極めて乏しいという欠点があるが、風と電気を使った簡単な物見の魔術などは苦もなく行える。
今回使ったのは、その中でも最も簡易な方式の物だ。対象物周辺の空気の流れを監視し、動きがあれば察知出来るようにする。感知できる情報は「動いたか動いてないか」程度のものだが、その分感づかれにくいし、効果範囲と持続時間は格段に向上する。
心配だったのだ。様子がおかしかったから。否、心配などしておりませんの。彼女を倒すのは私です。そういうのは別にいいか。
そして、深夜の時間帯に動きがあったので飛んできたのだ、文字通り。
「――」
監視対象は、アライヴ氏、そしてメイドの少女という順番でいくつかの言葉をかわすと、通りの方へと駆けていった。もはや、迷いなどない、とでも言うように。
「――」
付いていく。