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我輩、猫の身空で世界を救う  作者: U輔
セントリーエルの怨絶竜
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第五章 炎の拳


 魔術師にとっての勝負とは、つまりどちらがより魔術を深く理解しているか、という、格付けの証明に他ならない。

 一昔前までは決闘じみた方式が主流だったそうだが、今は時代が違う。普段の行いと研究による、人徳・地位・名誉といった要素が言わずもがな格を決定付けている場合もあるし、実際に『勝負』を行う場合でも戦闘という行為はまず取られない。

「温いと、そうはお思いになりませんの? ミルネシアさん」

 我輩の正面、約二十メートルの距離を取って立つ彼女、モルガナ・ジャスティは言う。それでは魔術師の本質は図れない、と。

 ……。

 我輩が今居るのは、学生が授業や魔術実習、運動などに利用する第一体育館、その三棟あるうち一番西側の一棟だ。

 先ほどまで居た商業区画を東に抜け、グラウンドを右に見ながら道沿いに進めば辿りつく場所。巨大な学園塔が北東側に、グラウンドが南側に見えることを考えると、学園敷地内でも南端に近い場所なのだと予測が立った。

 平日午後の体育館、という事もあり、趣味の運動、あるいは場所を必要とする魔術の実験など、それなりに利用者は居た。だがモルガナが体育館の扉を開けると、

『逃げろ!「火災旋風」がまた被害者を連れてきた! 巻き込まれるぞ!』

 という叫びと共に散っていった。

 彼らは今は四方八方の入り口や通路から、恐る恐るといった感じで成り行きを見守るギャラリーになっている。しかしこの女、いつもこんなことをやっているのだろうか。やっているんだろうな。

 しかし、

 ……温い、か。

 近年の魔術師に対する、モルガナの意見だ。古竜の知り合いがいる身としては同意したいところだが、

 ……時代、という事だろう? 昔と違い、魔術に求められているのは社会への貢献だ。そしてそれは、必ずしも戦闘に有利なものではない。

 思っていることを述べた。

 時が違えば人も違う。人が違えば求められていることも違うし、究極を言えばいずれ魔術が必要でなくなる世だって来るかも知れない。だが、

「私は、そうは思いませんの」

 モルガナは言う。

「黒等魔術も、白等魔術も、銀等魔術も金等魔術も。四つの区切りに分けられ、更にそこから適正系統に細分化された現代の魔術は、確かに必ずしも戦うことに有利な技術ではありません。ですが、だからと言って……単純に双方を比べ、こちらが優れている、と出来るものでもありませんよね?」

 しかし、

「ある一定以上の領域に達した術師にとっては、その限りではありません。……こんな話をご存知ですの? 全ての魔術は、かつて――竜のみが魔術を扱えた黎明の時代において――ただ一つの万能魔術であった、と。そしてそれは人が魔術を扱うようになると同時にデチューンされ、今の形になったと」

 全ての魔術がかつてあった姿。そして、全ての魔術が到達すべき境地。

 竜の魔術。即ち、

「精霊魔術。魔術師が、例外なく目指してやまない極致ですわ。全ての色等魔術は、元はたった一つの魔術だったんですの。故に」

 ……方式も属性も得意なことも、何もかもが異なる互いの魔術を比べ、正しい優劣をつけるには――正面からぶつけあう。それしかない、という事か。

「理解が早くて助かりますわ。ジャスティ家の教えですの。いまいち賛同を得難いんですが」

 ……先祖が脳筋だったのだろうなぁ。

「……否定は致しませんの」

 と、何故かこちらから目を背けながらモルガナが答えた。

 ……血筋、という事か? 貴様もまた、随分と物騒な渾名を付けられていたな。

 先ほど、彼女を見て散っていった者たちが叫んでいた言葉の事だ。確か『火災旋風』だったか。こう言った渾名付けは魔術師達の間でのみ通用する文化みたいなものだ。畏怖や尊敬、時に皮肉や嫌悪を込めて呼ばれるが、今回のこれは、

 ……戦闘スタイルか? 風と炎。

 あるいは、魔核自体が持っている固有技能の特徴か何かを指しているのかと思えた。しかし、

「いえ、何というか以前、新作だという魔力式の家庭用コンロに、頼まれてありったけ炎の魔力をぶち込んだら、ええ、結果だけ言うとこの体育館元は五棟あったものでありまして」

 そのまんまかよ。

「いやまぁ何というか……お恥ずかしい」

 モルガナは頬を両手で覆い、淡く染まった朱色を誤魔化した。だがすぐに居住まいを正し、

「まぁそれが得意というのは間違っておりませんが……私のスタイルは、これですわ」

 言うと、小柄な少女の周りに歪みが生じた。

 体を覆うのは銀色の魔力光。それは、己の体から発せられた魔力が正しく魔素に変換されて生じた現実への干渉力だ。

 まるで扉をこじ開けるように、あるいは現実という空間に張られていた壁紙をひっぺがすように。魔力という概念は、既成の常識をぶち壊す。

 結果として生じたものは、

 ……風?

 少女の体から、大気の流れが生じている。それは体育館の壁と天井を巡って叩き、軋みという悲鳴を漏れさせてはモルガナの元へと帰っていく。

 だが、現象の発露はそれだけに留まらなかった。

 彼女の周囲に火の粉が散った。

 彼女の足元に氷の鏡が張った。

 彼女の髪の周りに電光が奔る。

 かつて人は、自然界における現象の悉くを神の怒りと呼んだ。ある意味で間違いではなかった訳だが、それらはそのまま、竜の起こす奇跡として、魔術の一つとして、人間の手に届く『技術』となって下賜された。

 故の魔術。魔性の術。だが、

 ……一人でこれほどまでの事象を操るとは……。

 粒子を操る銀等魔術師にのみ許された『現象魔術』は、優秀だが得意不得意が顕著に出る魔術としても知られる。事象を操るにはそれに対する深い理解と掌握が不可欠なので、好みや体質、苦手意識や育ってきた環境が魔術に与える影響が大きいのだ。

 大概は一種類か二種類を集中的に鍛えるのが一般的だ。それを四つ全て、こうも滑らかに操るのであれば、それ自体が驚嘆に値する。

 ……流石は名門といったところか。

 長く家督を継いできた故の、秘伝でもあるのだろうか。あるいは単に努力か。

 モルガナが一度、準備運動は済んだとでも言うように全ての魔力を霧散させると、後には床面に張った氷と淡い冷気だけが残る。

「どうですの? 銀等を誇る我がジャスティ家の現象魔術。多数の属性を繰ることだけが優劣を決めはしませんが、並列処理と汎用性がジャスティの持ち味ですの」

 モルガナは、満足した、とでも言うように息を吐き、

「さあ。次は貴女の番ですの、ミルネシアさん」

 言い、我輩に上向きの掌を向けてきた。つまり、次は我輩の魔術を見せろ、と言っているのだ。

 それを受け、

 ……。

 我輩は、右の手首にはまった腕輪に目を向ける。



 腕輪だ。ローランが去った後の祭壇に置かれていた、不思議な質感の白を連ねた鎖様のリング。

 昨日から一日掛けて、『これ』の性能は確認した。何やら三つ四つ、とんでもない『もの』が含まれてはいるようだが、概ね今のこちらの助けとなるアイテムだと思われた。

 我輩にとって、今の人間の姿は晴天の霹靂といっていい現象だ。

 あるいは事件。あるいは偶然。

 だがこれは、どうやらローランにとっては違う意味をも孕んでいる、ということであるらしい。

 ……。

 この『我輩が人の体を得ている状況』は、あの男の本来の理想に近いものだ。望みであり、目的であり、それが故に彼は我輩を育て、魔術やその知識までをも与えた。

 この腕輪は、いずれ来る『その日』のために用意していたものなのだろう。

 ……。

 無論、だからと言ってローランがこちらを人間にしたとは思っていない。我輩は逃げたのだ。彼がこちらに掛ける重みに耐え切れずに。それを無視して実力行使に出る程、あの男は『人間らしく』出来ちゃいない。

 ――。

 彼の願いとは裏腹に、我輩は猫でありたい。だが『運命』はそれを許さぬ。そう言う事だろうか。

 ……信心深いつもりはないのだがな。

「何ですの?」

 ……なんでもない。こちらの話だ。

 まぁ、とは言え、だ。

 我輩がこの体に入った事自体は、偶然という言葉に他ならない。ならばそこに意味を考えるだけ野暮というものだろう。故に、

 ――。

 触れるのは、己の魂だ。

 イメージするのは、それに隣り合って存在する『何か』。人によっては、それを『本質』と呼ぶ。それを『根源』と呼ぶ。それを『己』と呼び、『血流』と呼び、『心』と呼び、『心臓』と呼ぶ。

 即ち、魔核だ。

 そしてそこから溢れた黒色の魔素は、他三色のそれがそうであるように、現実を塗り替える能を持つ。

 現象魔術においては、風や炎の構成粒子を塗り替えて他の現象へと変じる。

 そして再生魔術においては、

 ……。

 我輩は、右手につけた腕輪を前にかざす。

 軽い音を立てて、鎖状のそれが己を鳴らした。白いリングが幾重にも重なった構造の、一つの欠片が我輩から出でた魔素を吸い、

「――。」

 結果が、現実へと躍り出た。



 我輩の左脇に唐突に湧き上がって現れたそれは、黒い体毛を持つ、虎に似た生き物だった。

 再生魔術において再現した『不完全な生命』の例に漏れず、顔横や脇腹、右前足と左後ろ足、そして背の大部分が、まるでそこに虚でも空いているかのように立体感の無い黒を浸している。

 吸い込まれそうな闇、あるいは絵の具を雑に落としたような穴。それが体表を覆っているのだ。

 体高は一メートル強、体長は二メートル弱。全身の毛は艶の無い黒。胴や足の太さは敏捷よりも力強さを肯定する。

 特徴的なのは、その尾だ。通常の虎が長く、垂れ下がったように一本だけ伸ばすのに対し、この個体は毛量あるそれを三本、羽根を広げた孔雀の如く、それぞれの方向へ向けて張って見せていた。

「動物の『骨』に改変を掛けてその生前を再現・使役する、黒色の魔力光。即ち再生魔術。そしてそれは……『夜寄せの主』。夜行性の効率をより強く求めた結果、『夜』という時間と完全に融合してしまった魔性生物ですのね?」

 魔性生物。

 それは『魔力の獲得』を、生物としての進歩に的確に取り込んで進化した、魔獣とは一線を画す上位生命の呼び名だった。

 再生魔術においての魔術行使とは、生物の『かつて』を再現するものだ。以前生命であったもの。以前この世に存在したもの。その情報を骨格から取り出し、魔素で編んだ擬似肉体を纏わせて使役する。

「まさかその腕輪……、全て魔性生物の骨で出来ていますの?」

 ご明察。

 このリングは、ローランが用意した特殊な媒介だ。通常再生魔術においては、本体を構成する一体分まるごとの骨が必要だ。更には状況や動物、使役する目的やその能力、持続性などの必要な情報を、魔術刻印として刻まなくてはならない。

 それを、魔核の性能と魔力量を頼りに極限まで簡略化したのがこの腕輪だ。故に基本的には我輩専用。名は特に無いが、数多の魔性生物の骨を一まとめにして編み混んだ物なので、

 ……『我輩動物園』とでも名づけようか……。

「ダサい……!」

 なにやら不評だ。再考の必要があるだろうか。まぁいい。

 通常は骨をフレームとして、魔素を肉としてコーティングし完成する従属体。だが今使役するこの『夜寄せの主』は、内部に魔力で構成された半マテリアルフレームを有して存在を保っている。

 つまりは、内側まで完全な魔力製。元となった骨の役割は『骨格』ではなく、性能や形態、魂の情報を最低限引き出すための『記憶媒体』に過ぎない。

 故に、存在が不安定。物理的な攻撃に対してかなりの不利益を被るものであるが、

 ……我輩の魔力が尽きぬ限り、幾度でも再出力が可能なものである。

 故に、

 ――。

 行く。



 私は、ミルネシアが己の傍らに呼び寄せた『それ』に目を配る。

 夜寄せの主。『夜』という概念と一体であるため、夜間においては全ての空間に偏在する事の出来る強力な魔性生物だ。

 だが、今は昼間。きっと存在を保つだけで精一杯だ。とはいえ、

「!」

 虎に似た姿が、一瞬で私の視界から消えた。動作も、膂力も、虎のそれと相違ない。次の瞬間には、

「――」

 大口を開け、こちらの右腕を食らいに来た。

 ――いきなりですのね……!

 開始の合図も何もない。否、そういう勝負を仕掛けてくるなら、こちらとしても望む所だ。

 そしてその狙いにも一切の容赦はなかった。前足で体を組み伏せ、根元からを持っていく。そういう魂胆が見える動き。

 ――ここは魔術学園ですものね!

 腕や足の一本二本は、取り返しがつく。そういう場所だ。

 だから、私はそうなる前に行動を起こす。

 風だ。

 方向は、前から後ろへ。器用に蛇行し、私だけを正確にかっさらう突風が体育館内に吹き荒れる。

 こちらの体が後ろへ吹き飛び、

「……!」

 回避が成された。

 半ば打撃を受けたように体が軋み、だが私はそのまま宙に身を縫い付けた。そして、

「風よ……!」

 今起こした『風』とは別の『風』に、新たな命令を下した。

 凝縮せよ、と。

「――」

 命に従い背後から生じた風は、こちらの右横の空間に直径一メートルサイズの拳として固定され、成立した。更にそこに新規で練り込めた魔素を『炎』として含めれば、

「焦がしなさい……!」

 それは、高熱という付加要素を持った、直径一メートルの範囲を消し焦がす大気の拳と成った。

 突き出すようにして殴る。

「!」

 目標は、先ほど私を食らいにきて全身を空振りさせた黒の獣だ。

 彼の毛皮に覆われた体躯が、赤熱の打撃を正面から受けた。

 防御は成されず、ただ食らう。

 魔力で出来た体は、通常のそれよりも耐久に劣る。フレームとしての骨格を内臓しない、不完全な現実干渉力しか持たない従属体ならば尚更だ。

『夜寄せ』の体が炎拳を受け切れず、中央を食らわれるようにして霧散した。

 炎は、しかし勢いを持ったまま止まらない。ただの熱ではなく炎風なのだ。だから私は、黒の影として飛び散った獣のその後には目もくれず、拳をそのまま相手――ミルネシアへと突き込んでいく。

「行きなさい……!」

 感覚としては、巨大な右拳で遠くにいる相手を殴りにいくものと等しい。死にはしないだろうが、死にたくなる程度のダメージを負わせれば私の勝ちと言ってもいいだろう。

 だが、その前に相手が動いた。体の表面を走る黒の放射光は、

 ――新たな魔術行使……!

 その光が見えた次の瞬間、ミルネシア、その向かって右後ろから、新たな虎が射出の勢いで飛び出した。

 こちらの拳と衝突し、

 ……!

 赤と黒が同時に散り、周囲を熱と『夜』に染めた。

 相殺する。

 先ほど黒の獣を粉微塵にした威力の拳も、相手が勢いを持っていれば多少なりともその威力を減衰される。結果として、砲弾として当たりに来た虎は、私の炎の八割方をその衝撃で吹き飛ばしていた。

 後に吹き荒れる熱風は肌を焦がす熱こそ持っているだろうが、致命的なダメージにはなりえない。

 そして、

「!」

 間髪要れず、三匹目の虎がミルネシアの左後ろから躍り出て来た。

 牙と爪が迫る。



 私は、新たな風に炎を纏わせ、左後ろから射出した。

 即座の第二打だ。感覚としては、左の拳を突きこむのに等しいもの。

 狙いは、新たにこちらへ駆け寄る三匹目の『夜寄せの主』だ。だがこのままの打ち合いは先ほどの再現でしかない。故に、

「連続で行きますのよ……!」

 右の背後にも、同じ拳を三たび用意した。即ち、先ほど砕かれた右の拳の再掲だ。

 成立次第、打ち放つ。

 拳がそのままの勢いで獣を迎撃する。『夜』を破片として散らし貫通したそれは、次の瞬間、がら空きになった相手の体へと突き込まれていった。

 無論、ミルネシアもまた対応を放つ。即ち、四匹目だ。

 今度は貫かない。相打つ。

 だが、その瞬間には既に再度左の炎拳が成立し、連動するようにしてミルネシアを襲っていく。

 その次は右、そして左。

 右と左が高速で連続し、風を孕み、体育館を内圧で荒らしながらラッシュを放つ。

 対するミルネシアもまた物怖じしない。己の魔力を糧とした流星の郡が、黒のベールを散らしながら殴打を連発する。

 突き、散らし、再度の望みが砕けてお互いの間に衝撃を生む。

 鳴る。

 幾度目かの衝突を経て、私は理解した。ミルネシアの再生魔術は強力だ。何せ骨を媒介としない。否、媒介としての骨は存在するのだが、その一部分から不完全ながら全体を再現し、故に砕いても新たな従属体を瞬時に構成するのだ。

 群れを相手取るに等しい感覚。だが、

 ――一度に生み出せるのは、一体だけですのね……!



 これまでミルネシアは、一度として『従属体』を砕かれる前に同じ『従属体』を生み出すことをしていない。否、出来ていないのだ。

 再生魔術は、骨を通してその生前の姿を再現する。一部分だけしか無いのも関わらず全体を構成出来るのは、その潤沢な魔力容量故だろうか、それとも腕輪の魔術刻印だろうか。

 だが、それ以上の追加要素、即ち『多重生成』を望むには、そのいずれかが不足するのだ。

 未熟、だとは思わない。現状のこれも、大変な実力に伴うものだ。

 しかし、これが隙だ。こちらの勝機だ。故に、

 ――更に拳を追加します……!



 今、相手へと放ち、高速で射出されては砕けていく炎拳の傍らに、新たな風と炎が現れた。直径は五十センチ強。最初に生んだものよりも随分と小さいが、その分、片手間による生成でも不足なく成立した。

 無論、同時並列での術式制御には倍の気を遣うものだが、別に無理ではない。そもそも、防御に手一杯なミルネシアに対し追撃を仕掛けるならば、一発ずつの打撃が入れば充分。その程度の並列操作は現象魔術使いとしての基本技能だ。

 準備が整い、故に、

「――行きなさい!」

 放つ。

 ミルネシアから見れば、左右のラッシュの外側から突如襲い掛かる認識外の牙だ。避けきれるものではない。

 だが、

「!」

 砕き続けていた黒の従属体の内、今新たに現れた右側の個体を砕いた瞬間、それまでと違う反応が来た。

「――」

 爆発だった。



 それまで黒の破片を散らし、空気に還元されるばかりだった破壊の証が、まるで内側に小麦粉でも仕込んでいたかのように派手に弾け、辺りに黒の煙幕を散らしたのだ。

「……!」

 否、あれは粉などではない。

 夜だ。

『夜』そのものであった『夜寄せの主』が、己に内包された概念としての『夜』を砕かれる前に解き放ち、辺りを浸したのだ。

 だが、それは一時的なものの筈だ。やがてそれは、周囲に満ちた『昼』の概念に食われ、霧散する。

 時間稼ぎ以上の意味は無い。故に、

 ――目くらましですの……?

 小癪。だから、

 ――行きなさい!

 左右、新たに生み出した炎拳一対を、斜め方向から交錯する軌道で、漂う『夜』に打ち込んだ。



 打ち込んだ私の炎が『夜』を照らし出し、昼に食われるまでもなくその存在を否定する。

 暗闇は、煙や粉塵のように物理的に視界を遮断するものではない。光を当てればその効力は弾圧され、やがては溶けて消えていく。

 だからそうした。だが、

「……!」

 そこには、何も居なかった。

 否、目くらましを使ったのだ。その程度の事は解っている。故にその姿を捜し求める。

 だが、

 ――居ませんの!

 何処へ行ったのか。一番ありそうなのは打ち込んだ炎拳の向こう側、巻く陽炎で死角になる位置だ。そこに潜み、一瞬の隙を見つけて獣の一撃を見舞ってくることは大いに有り得る。

 故に、私は死角を作っている拳を己の傍らに引き寄せた。視界を確保し、なおかつ即座の対応を可能とするためだ。

 だが、そうして開けた体育館の全景にも、彼女の姿はなかった。

 消えてしまったのだ。

 ――新たな従属体を出して自分を運ばせた……、いえ、そんな様子はありませんでした。

 いかなる高速移動であれ、人一人を運ばせるサイズの生き物が動けば気付かぬはずがない。唯一の可能性としては、ミルネシアの背後側――そこにある南の大扉から逃げ出した、と言うのが考えられる。それならば私が視線で追えなかったのもやむなし。だが、

 ――それもノー。

 件の扉からこちらを見るギャラリーは、相変わらずこちらを見据えたままだ。そこから彼女が逃げたならば、相応の反応や多少の戸惑いが見てとれるはず。

 ならば、と一瞬考え、可能性として濃厚なのは、と思いを巡らせ、

 ――上……!

 逃走先の候補として結論に達し、天井を仰いだその時。

 目の前に、股が来ていた。



 ……おや。

『夜寄せ』の連打を、しかし的確な打撃で砕かれ続けていた時、我輩は一つの判断を下す準備をしていた。

 こちらの手数には限度がある。だがあちらの手数に、果たして限度はあるだろうか。

 結果として、無かった。否、あるのかも知れないが、二つが限度ではなかった。炎拳の軌道と巻く炎に上手く隠してはいたが、新たな風の凝縮が成されていくのが魔力をこめた眼に映ったのだ。

 ならば、選ぶのは相殺ではない。それでは殺しきれない。逆にこちらが刈り取られる。

 回避だ。

 まずは、それを悟らせないための目くらまし。『夜寄せ』が内包する概念を、一時的に開放して周囲に散り巡らせる。

 その指示を生成と同時に飛ばしたとき、獣が『マジか』みたいな目を向けて来たが気にしない。確かに彼らにとって、『夜』とは己そのものだ。夜間ならまだしも昼間にそれを行うのは灼熱の溶岩に己を浸す行為に等しく、まぁ心苦しくはあるが、というか相殺はいいのか貴様。

 躊躇せずやった。

 我輩が望んだ結果として『夜』が周囲を満たし、相手の視界からこちらを隠すことに成功する。そして、同時に足に魔力を通わせ、能力に底上げを掛けて跳躍を望んでいく。

 即ち、強化魔術。否、これを魔術と呼ぶのかは解らない。何せ魔力を魔素に変じていないからだ。

 これは猫としての基本技能。木々を渡り、壁上を闊歩する身軽さは、今、人の身をしても失われていなかった。

 求めたのは空だ。風によって身を浮かせるモルガナが、一瞬であろうとこちらを見失うのが好ましい。

 だからほぼ全力で行った。

 と、その次の一瞬で、

 ――。

 我輩が今の今まで居た場所が、不意の赤熱にさらわれた。

 交差する炎拳が突貫し、その場の『夜』と大気が、風切りと熱の焼き音でなぎ払われたのだ。

 間一髪のタイミングだったが、回避は成した。

 だが行き過ぎた。

 上空へ逃れ、それでも彼女がこちらを捕捉出来たのならば空中のこちらは格好の的になる。故に、描く放物線はギリギリまで浅く。半ばモルガナへ突進するような軌道をとったのだが、

 ――。

 少々、勢いを付けすぎた。

 モルガナの上半身へと激突する。



 我輩は、足の間にモルガナの顔面を巻き込んでそのまま空を滑った。

 宙に浮いていたモルガナの体が、こちらの体に押し倒されて空中で仰向けになる。あとは我輩から生じたエネルギーのまま、背後方向へと落下を伴いながら吹き飛んでいく。

 モルガナの背と後頭部が、強かに体育館床面へと叩きつけられた。

「っ」

 ふ、とも、ぐ、ともつかない音の息がモルガナの口から漏れる。それを受けるのは当然、我輩の股、そしてむき出しの太ももだ。

 そのまま、消えきらなかった運動エネルギーはモルガナの背を雑巾にして、床を数メートル滑走した。

「――……」

 止まる。

 位置は、体育館の北際。視線を前に向ければ、丁度両開きの扉脇からこちらを見ていたギャラリーの少年と目が合った。無論、我輩の脚はモルガナの顔面を挟んだまま。そしてその彼が、

「……っ」

 気まずそうな苦笑を付けて、こちらから目を逸らした。

 ……うむ。

 気持ちは解るぞ。猫だがな。



 私は、何が起きたのか解っていなかった。

 解るのは、いくつかの事実。一つ、背中と後頭部が滅茶苦茶痛い。二つ、目の前が真っ暗。三つ、良く解らないが、何やらすごく言い訳をしたい気分ですの。

 ――柔らかい……。

 自覚する意思も、あるいは感覚すら希薄な中、そんな感想が何故が心に生まれた。暖かい、とも思い、良い匂い、とも思ったが、三つ目に何か咎を感じて奥の方に引っ込めた。

「……」

 魔術師たるもの、私は敗北を恐れてはいなかった。『客観的な感想』として自分は強い。だが、今まで負けを知らなかったのは運が良かったからだと思っているし、戦闘という分野に限らなければ、己が負かした相手の中にもこちらより優れた人間はいくらでもいるのだ。自分は強いが。

 故に、負けたのはいい。いずれ来る日が、今来たのだと、そういう事なのだから。

 だが、これはちょっと違う。思っていたのと大分違う。

 油断があったのは確かだ。だが紙一重の油断で得るものとは、誇りある敗北だ。ギリギリでの優劣だ。それらを得られなかった事実が油断によるものであると言えなくもないが、この場合は、ちょっと、何と言うか、まあ、そういうことではない。

 というか、

「いつまで乗ってますの……!」



 我輩はモルガナの言葉を受け、その顔面に乗せていた腰を浮かせ身を起こした。

 かなりの勢いで彼女に衝突したため、股下を覆う布地に不確かな感覚がある。合わせが悪い、とも、座りが良くない、とも感想出来るそれを、

 ――。

 スカートの上から、更にその下の布地をつまみ、直していく。

 少し慎重さが必要な作業であったため、感覚を鋭敏にするために目を閉じる。戦闘の熱を逃がす吐息が半開きの唇から一緒に漏れ、

 ……ん……。

 何か妙な声が出たが、まぁ我輩一人なので気にしない。

 否、全然一人じゃなかった。股の間にそういえば一人いた。

 ふと下に目を向ければ脚の間には、仰向けに倒れて顔を赤くし、口をぱくぱく開閉させている少女が居た。

 言わずもがな、モルガナだ。彼女は自身の足の間に右手を添えてスカートを押さえながらも、何やら眉を浅く立てた抗議の視線を送ってくる。その顔面が朱の色を乗せているのは羞恥によるものか圧迫によるものか解らないが、

 ……元気出せ。な?

「考えうる限り最悪の台詞が来ましたわ……!」

 そうだろうか。感情の機微とは難しいものだな。

「というか……」

 と、モルガナがこちらの身を押しのけながら身を起こし、頭を押さえる。冷却のための氷の結晶が風に乗り、足元を浸してこちらの身を震わせてきた。

 彼女が叫ぶ。

「な、なんですのさっきの……! 何か、とんでもない跳躍をしていたようですけども」

 ……跳躍?

 先ほどの我輩の回避運動のことか。加減が解らずモルガナにラッキーをかましてしまったが、

 ……貴様もふわふわ浮いていただろうが。アレに比べれば常識的な挙動だったと思うが。

「少し納得しかけてしまいましたが、アレは風に乗っていただけですの。……貴女、黒等……それも再生魔術師でしょう? あのような数メートル規模の跳躍、熟練の生命魔術師の代謝増強でも説明が付きませんのよ?」

 ……貴様は出来ないのか?

「えっ」

 ……ああ。

 そうか。

 出来ない、という事か。



 合点がいった。

 昔から疑問に思っていた事に、不意に答えが寄越された。

 そうか。人間は猫や犬に比べどうにも鈍重で、強化魔術の運用が下手だとは思っていたが――それ自体、使わないのか。

 自然界においては、竜を含めてどの動物も当然としてやっていた事だ。

 鳥が何故あの小さな体で飛べるのか。回遊魚や渡り鳥が何故、ろくな休息もなく長時間移動できるのか。象などの巨大な生物が何故、あの巨体を支えていられるのか。

 全ては、必要な技術をピンポイントで強化する術を、生まれながらに持っていたからだ。

 極寒の地においてはそれに耐えるため。天敵がいるのなら、その存在を察知するため。

 野生の生物は皆、基本的に『魔核』が存在しないため魔術を扱えない。それは竜が人にのみ与えた天啓だからだ。だが、魔力の精製元である『魂』は皆平等に持って生まれるため、それを魔核を通さずに利用する技術、『身体強化』に関しては、逆に動物にこそ一日の長がある。そう言う事だろうか。

 故にこの少女の中には、人の身でそれを行う常識が存在しなかった。そして我輩の突然の跳躍を察知できず、

 ……だからあのような恥ずかしい敗北を喫したわけか。

「ま、負けてませんわ! ちょっと中断だというだけです!」

 まぁ、我輩もあれで勝ったとは思っていないが。

 モルガナは立ち上がりながら、それにしても、と言葉を作り、

「……貴女、もしかして『技能』の使い手でしたの?」

 ……『技能』?

 耳慣れない言葉に、我輩はただただ鸚鵡返しに言葉を紡ぐ。

 それに対し、モルガナは指を一つ立て、

「……魔核の性能に乏しく魔術を使えない人間が、しかし常に魂から供給される魔力リソースを体の『内側』へ割り当てることで、肉体への現実干渉を行う能力ですの。『外側』への干渉を行うのが魔術ですので、区別する意味でそう呼ばれています」

 それはつまり、我輩が強化魔術と呼んで行使している力のことだろう。

 魔術に特化した人間の魔核でも、動物と同じように『魔術が使えない』ならば、魔力の方向性が『内側』に特化する……という理論だろうか。

 今の我輩がそれを使える、という事は、恐らくミルネシアが……『この体』自体がそういった才を持っていたのだろう。

「有名どころだと、例えば『騎士団』の面々はその使い手の集まりですの。魔術を扱える人間は、大抵『塔』か『協会』へ流れますからね」

 しかし、とモルガナは言葉を区切る。

「……魔術と、それを使えない者が扱うはずの『技能』を両立出来る、なんて話……聞いたことがありませんのよ?」

 それもそうだろう。つまりは、魂から供給される魔力が、外と内、どちらへ向かう構造になっているか、という話だからな。どちらかが開いていれば、もう片方は閉ざされる。そういう事だ。

 ……む?

 ならば、何故我輩はそれを両方使えるのだ? ああ、というか、モルガナは今正にその話をしているのか。

 だが、それを問われたとて我輩に解る訳がない。魔術も『技能』も、どちらも限定的とはいえ猫である時から当然に使えていたものだ。双方とも存分に使えるようになったのは人の身を得てからの話ではあるが、そのために何か特別なことをした訳でもない。

 もっとも、今の我輩の状況自体が特別と言えば特別だ。何せ元が猫だからな。ならばそれが原因だろうか。動物としての得意と、人としての得意。双方が同時に発現した原因として思い当たるのは、今の所それしかない。

 だが、よく考えてみれば、

 ――ミルネシアもまた、『技能』と『魔術』を同時に扱えていた……のではなかったか?

 サクラ曰く、彼女もまた高い身体能力を有していたらしい。それが『技能』と呼ばれるものかは現段階でははっきりしないが、黒等魔術の適正があったのは間違いないだろう。

 ならば、この身体そのものが特別、という事だろうか。それはそれで『何故』がもう一つ生まれることになるが、

 ……。

 それらを今ここで正直に話すわけにも行くまい。まさか『我輩、本当は猫なんですにゃあ』とでも言えというのか。キャラ付けは別にいいか。

 故に、我輩が何と答えていいか解らず、黙っていると、 

「きゃぁっ!」

 悲鳴。

 我輩とモルガナの戦闘を遠巻きに見ていたギャラリーからのものだった。



 ……あれは。

 人ではないものが、そこにいた。

 我輩の背後側、北側にある大扉の先だ。その両脇からもまた、顔を覗かせるようにする観客たちが居たのだが――『それ』は、開け放たれた扉、その丁度中央付近に浮いていた。

 体長は約三十センチ。ぶん、という継続音を、翅の残像と共にかき鳴らしている。

 色は黒。甲殻は光を鈍く映し、棘や突起をあらゆる場所に生やす鎧のような構造は、何処か甲冑の篭手を思わせる。

 まるで槍にも似た口吻を口元から生やすそれは、

 ――魔獣!

 昨日、森で我輩とサクラが襲われたのと同種のものだ。

 大きい。

 食事が良かったのだろうか。そして適度な運動。人でも猫でも、よく食べ、よく動くことは体の成長を促す。いやそうではなく、

「……魔獣!」

 我輩の意識と同じ台詞をモルガナが鋭く発し、そして、

「、――、…………――!」

 金属同士を摺り鳴らすような、不快極まる音声が喝采した。



 我輩は聞き、そして見る。

 き、もしくは、か、という音を連続したような音と共に、その魔獣は空中を疾駆した。

 わずかな前傾と共に頭を前に下げ、替わりにかち上げるのは、槍が如き先鋭を見せる口吻だ。

 蚊で言うところの、血を吸い上げる口径摂取機関。だがこの魔獣においてその役割は、獲物を狩る武器としての性能を兼任していた。

 背の翅の駆動は、ぶん、という音と共に前進のエネルギーに変わる。爆発するような勢いを以て発射された魔獣の行き先は、

 ……モルガナ!



 ――舐めてもらっては困りますの……!

 私は、こちらに向かって高速で飛んでくる黒色の虫型魔獣の姿を見据えた。

 魔獣は、普通の動物が――この場合は恐らく小さな虫か何かが――何かしらの原因で多量の魔力を取り込んでしまうことで変異進化した姿だ。

 進化とは言っても生物としての進歩は無い。存在するのは、成長のための食欲だけ。種の保存も、休息すらも何処かに置き忘れた、生物としての終着点だ。

『外』で発生した個体が街中に出没することは割とよくある。特にセントリーエルのような竜脈都市には、魔獣を擁する巨大な森林・山岳・渓谷が付き物だし、地上に漏れ出た「観測できない魔力溜まり」のようなものは偶発的に生ずる事もあるからだ。

 だが、

 ――こんな中央部にまで進入してくる、なんて話は……聞いたことがありませんわ!

『竜脈の祭壇』を奉る森には、結界の維持、そして森自体の監視を役割とするベテランの専任魔術師がいる。南門の側にも、魔獣に限らず野生生物や侵入者を警戒する外縁専衛騎士団が詰めている。

 それ故、この街が百年前の『災害』から復帰してからの九十年、魔獣の進入や被害は全て外縁部のみでの出来事であったのだ。

 見たところ飛行型。故に、上空を飛んできたのなら見逃す事も是非なしとしたい所だが、

 ――それでも、前代未聞の出来事である事は確か!

 この個体が偶発的に発生したもの、そして今回限りの襲撃であるならば問題はない。だが再現性があるとなれば話は別だ。

 とにかく、

 ――こいつは、ここで仕留めますの……!



 先の戦いで魔力をかなり使ったが、問題はない。相手が生身の生物であれば。魔素を電気に変えて放つ紫電の一撃で充分だ。

 その一撃は筋肉を痺れさせ、意思や戦意のあるなしに関わらず身体機能に不全を生じさせる。

 故に放つ。

 音すらを置き去りにする高速の一矢。空気が焼けて弾ける音と共に、その閃光は、魔獣の体を問答無用に貫いた。

 だが、

 ――止まらない!



 私の魔素は、確かに電気の形で獲物を薙いだ。生物であれば、死なないまでも怯むなり動きが滞るなりするはず。我慢でどうにかなる類の問題でもない。

 それなのに止まらない。それは、

 ……耐魔力装甲!

 成長と進化のための魔力、それを必要量より遥かに上回る量で受けた魔獣が稀に有する機能だ。大きすぎる力が自らの魔核崩壊を引き起こす事を防ぐため、外側から受ける魔力に対して耐性が出来る。

 ――しま……っ!

 必殺の一撃を流され、心と魔力に隙が生じる。とっさに風を生んで魔獣の軌道を変えることを考えたが、それももしかしたら弾かれるのでは、という思いが、判断と体の硬直を長くした。

 迫る刺突の高速は、こちらの体――腹の中央を破る一撃。

 ならば回避だ。

 ――ま……、

 間に合え、という思いはしかし、横合いから伸びてきた一本の腕によって中断された。それは、

 ――。

 ミルネシアだ。



 ミルネシアは、高速で私の腹に迫った虫型魔獣を、まるで投げ渡された果実でも受け取るかのような気軽さで鷲づかみにした。

 ――ひ……!

 屈強な体をしていても、甲殻の鎧を纏った姿でも、見た目は虫だ。しかも特大サイズ。ゆえに私の認識が、助けられた、という事実に追いつく前に戦慄する。というかドン引きする。

 見れば虫は、食事を邪魔された事に対してであろう抗議の声を上げている。胴体部をガシリと行かれたために身動きが上手くとれていないが、六本ある足をわらわらと動かし、蛇腹状の鎧に進化した腹や尻をうねうねと蠕動させる。

 だが、その声は当然ミルネシアには届かない。

 魔獣の体は、棘や突起のある、蟹や海老にも似た甲殻様だ。故にそれを力任せに握り伏せるミルネシアの掌からは、棘で傷ついた傷により血の滴りが落ちる。

 だが、彼女はそれを全く意に介さない。それどころか、彼女はあろうことかもう一本の手をも虫型魔獣の体に添えると、両方の手に力を込め、そして一気に、

「やめ……!」

 私の抗議の声もまた、届かなかった。

 ミルネシアは、巨大な虫の鎧を、その中身ごと雑巾絞りにした。



 ……こんなものか。

 魔獣か来た。それは先ほどから芳醇な魔力を風や炎として放出していたモルガナを狙い、しかしモルガナはそれを討ち損ねたので我輩が捕まえた。

 それだけだ。別に特別なことはしていない。

 ……。

 魔獣は生命力が強い。何せ食事も何もなしに、自然界の魔力だけを糧にして生きる。故に、既存の生物の常識やルールは当て嵌らない。

 砕いても切り離しても、魔力さえあればある程度は活動する、それが魔獣だ。故に、

 ……。

 雑巾絞りにされて螺旋の形になり緑の体液を滴らせる虫の腹を、無造作に左右に分けて引きちぎる。すると内側から何か繊維状の、管の様な糸のようなものがずるりと出てきたので、それも引きちぎる。

「ちょ、あ、やめ、あ――――!」

 モルガナが良くわからない抗議の声を上げるが、なんだろうか。病気だろうか。

 気にせず行こう。

 ここまで解体してみても、動くときは動く。それが魔獣だ。晩飯にしても良いが、それをするのは人の常識に外れていることくらいは解っている。故にやらない。人前では。

 だから、我輩はそれを更なるパーツに分解する。六本ある足は全てまとめてねじり切り、後は頭に残った凶器じみた形の口吻だけだ。

 この口、他のパーツと違い、解体するのに少しコツがいる。まず太い。そして外骨格が頭の内側にまで差し込まれるようにして構成されているので、単に引っ張るだけでは抜けないのだ。

 故に我輩はコツを行使する。このパーツには、上下への稼動域を確保するため、根元に鎧に覆われていない部分が存在する。そこに指を突っ込み、接続を担保していた繊維というか肉に、ある程度の穴を開ける。そうしてから、口吻の内側に指を引っ掛けて力を入れやすくし、一気に引っ張るのだ。

 何がが外れる音は、飛沫に似たものの伴いだ。

 果たして、虫型魔獣の最大の武器たる口吻は外れてただの部品になった。

 ここまで分解してしまえば、たとえ動いたとしても害にはならない。我輩は手に付いた緑の体液を腕の振りで吹き飛ばし、

 ……む。

 モルガナがうずくまって泣いている。何か辛いことでもあったのだろうか。



 その後、我輩達は体育館の外に出た。

 そこでしばらく「私、しばらく蟹が食べられそうにありませんわ……」と泣いているモルガナを嗜めていると、周囲のギャラリーが報告をしたのか、研究区の魔術師達が機材と人員を引き連れつつやってきた。襲撃した魔獣の遺骸の回収、そしてその精査が目的だと思われる。

 が、その中に、

「あら? ミルお嬢様」

 何故かメイド服の少女の姿があった。サクラだ。

「こんな所で何をしてらっしゃ……」

 と、笑顔でこちらへ駆け寄ってきたその顔が、表情を変えぬまま青ざめた。そして、

「な、ななななな何ですかそのお姿は! お召し物が焼け焦げていらっしゃいます! お体は! お体は大丈夫ですか!」

 そう言われ、そこでようやく我輩は自らの服装に気がついた。

 白のワンピースはあちこちが黒の煤に塗れており、スカートの裾部分に至っては焼け焦げてすらいる。

 この調子では顔や髪にも同様の煤けや焦げ跡が付いてるだろう。考えてみれば、風に乗った炎拳を至近距離でいくつも相殺していたのだから当然だ。

 無論、致命に至る傷を得ているものではない。だから、

 ……ああ、まぁ。問題ない。ちょっとしたトラブルだ。

 そう言って我輩は誤魔化した。まぁ現状だけを見れば、サクラが心配するのも無理はないとは思うが。

「問題ないはずがありますか! どうしたんですか一体! もしかしてその美しいお顔や髪に嫉妬した性格の悪い学生魔術師に『ちょっと顔貸せ』と因縁付けられて口では言えないような酷い事を……!」

 概ね合っていると思うがどうしたものか。

 と、

「あら、この声はまさか……サクラさんですの?」

 蹲って泣いていたモルガナが、不意に顔を上げた。嬉しそうな笑みにしなる表情は、その言葉通り、サクラへ向けられたものだ。

「……え。あら? モル? モルガナですか? わぁ、お久しぶりですね」

 と、サクラもまたモルガナの姿を認めると、笑みを浮かべ、手を合わせて喜びを表現する。

 ……知り合いか? 貴様ら。

 と、我輩が疑問を投じると、サクラの方がモルガナの肩を後ろから抱き、こちらに見せ付けるように突き出してきた。

「ミルネシアお嬢様、この子――モルには私、何年か前に料理や家事を教えていたことがありまして」

 ……何故ハート家のメイドである貴様が?

「この子のお父様からのご依頼で。他にもマナーや嗜みなど色々。私、こう見えても業界じゃ結構名の知れたメイドなんですよ?」

 業界って何だろうか。

 モルガナが、サクラに肩を抱かれたまま顔を振り向かせた。そして頭一個半高い位置にある彼女の顔を見上げ、嬉しそうに声を張る。

「お久しぶりですわ、サクラさん。奇遇ですね」

「本当に奇遇ですね。それにしても、どうしたんですか一体、こんな……所……で……」

 サクラの語気が、次第次第に覇気をなくしていく。それは体育館の中に刻まれた焦げ跡や熱気、そして我輩の服についた煤や焦げ痕を順に見る度、より深みへ嵌るようにして沈んでいき、

「……………………モルガナ?」

 モルガナの顔色が、さっと青くなった。サクラの手から逃れ、両手をぱたぱたと振りながら、

「ち、違うんですのサクラさん! これは、その、この方と熱い友情を深めていたところですの! そうですわよねミルネシアさん! 熱かったですわね!」

 まぁ熱かったという部分は否定しない。

「貴女、まさかまだあんな事を……? 言いましたよね、強そうな魔術師を見るたび喧嘩売る遊びは止めなさいって……!」

「あ、遊びじゃありませんのよ! あ、そうではなく、その、それは……ミルネシアさん! 話の続きはまた今度! 私用事を思い出しました! アーマン通りの高級焼肉店『カーニバル』でお父様と食事の約束をしておりましたの! 失礼致しますわ!」

「あ、待ちなさいモル! 貴女あの店出禁になったでしょう!」

 何をしたんだ一体。

「ちょっと!」

 言うがいなや、モルガナは竜巻のような風を纏い、南の方向へ飛んでいってしまった。少なくともアーマン通りに向かう方向ではない。

 その風を見送ると、サクラはやれやれ、というように腰に手を当てて嘆息した。

「全く、あの子は……え、まさかお嬢様、その有様は、モルが?」

 ……いや。

 なんとなくだが、先ほどまでの顛末は伏せておこうと思う。サクラに心配をかけることにもなるし、モルガナに対する貸しにでもなれば僥倖だ。

 ……関係ない。これは、その……そこで少し転んでな。

 言い訳下手か。

「どういう転び方ですか……まぁ、お嬢様がそう仰るなら深くは聞きません。本当にお怪我も無いようですし」

 我輩は、魔獣を掴んで傷ついた掌をサクラから隠すよう後ろ手にした。魔力を循環系に流せば止血くらいは数分で出来るし、数時間あれば傷も塞がるだろう。

 サクラは目を伏せた呆れ顔をしつつも、こちらの顔についた煤をハンカチで拭ってくれる。

 我輩は片目を閉じてされるがままになりながら、

 ……それよりもサクラ、貴様、何故ここに? アーカム・アライヴという男を捜しに行っていたのでは?

 モルガナと遊んでいたために忘れかけていたが、我輩が学園に来た最初の目的はアーカムと会うことだ。そしてサクラは彼を探しに行っていたはずで、ここに顔を出すのは少しおかしい。

 するとサクラは思い出した、という風に両手を打ち、

「ああ、そうですそうです。アライヴ先生なんですが、事務局に伺いましたらどうやら今日は『塔』に朝から篭っていたそうで。部外者は『塔』に入れませんので途方に暮れていた所だったんです」

 ……待ち合わせをしていたのではなかったのか?

「事務にもそう申し上げたのですが……『魔術師とはそういうものですので』、と」

 ……職務放棄?

「私もそう思いましたが、その職員の方もちょっと本気泣きで本気土下座と本気謝りをしてきたので強くも言えず……あ、お詫びにお煎餅頂きましたので帰ったらお茶にしますね?」

 言いながら、サクラは手に持った小さな紙袋を掲げて見せた。

 ……話を進めてくれ。

「失礼。まあそれで途方に暮れていたらですね、丁度、こちらの方で騒ぎがあったとかで、アライヴ先生が調査と検分のために駆り出されるというではありませんか。これは好機と、こうして付いてきたわけです」

 ……と、いう事は……。

 先ほどから、気になっていることがあった。

 体育館の中、魔獣の死骸が散らばっているあたりだ。そこでは数名の魔術師が回収と検分を行っており、

「ああ、これはこれは……本当に魔獣ですね……面倒だなぁ。え、耐魔力持ち? 嘘、ここ数年で一番の当たりじゃないですか! ああ、事務のグレイ君から『人手が無いので行ってください。さもなくば来年度の予算が四分の一になります』なんて言われた時は健康診断の結果が露骨に高血糖になる呪いでもかけてやろうかと思いましたけど、中々どうして有意義な仕事も振れるんじゃないですかあの穀潰し共は! お礼に健康診断の結果が露骨に異常なしになる呪いをかけてやりましょうか! 見た目だけですけど!」

 我輩は、何やら魔獣の死骸の周りをくるくる回りながら一喜一憂していた、長身の男の姿を目に入れた。

 身長は百八十後半といったところ。ブルーのストライプのシャツに、サスペンダーで吊り下げた黒のスラックス。その上から何やら黒ずんだ汚れの付いた白衣を着ており、いかにも研究者然とした風貌だ。

 ネイビーブルーの髪は天然パーマなのか単に手入れをしていないのか、癖やハネが至るところに付いており、端的に言ってだらしが無い。

 彼は、眼鏡の奥の垂れ目に鋭く光る眼光を、虫型魔獣の死骸に熱心にぶつけながらずっとぶつぶつと独り言を呟いていた。

 ……あの、全周に向けて正直過ぎる男が……。

「はい」

 サクラが答えた。

「アーカム。アライヴ。セントリーエル魔術学園、黒等魔術科『主席』研究員。先代の後釜として現在の『塔』を仕切る――当代随一の、再生魔術師です」

 ……概ねイメージ通りであるなぁ。


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