第二章 森中の目覚め
見て、四葉のクローバー!
あらあら、ふふふ。見つけるの大変だったでしょう?
大変だった! おねーさまなんてまだ探してるもの!
あ――――! 絶対見つけてやるんだから!
はっはっは。二人共、ところで父さんの分は無いのかい?
無いわ! 今から取ってくるね! じゅんばん!
はっはっは、父さん何故だか少ーし傷ついたぞ――?
……。
我輩は猫である。名前は特に無く、これから先もその予定であった。
四歳の黒猫で、一年前に『あの男』の元を逃げ出してからは野良。短い尾と金色の瞳が特徴で、同年代と比べれば体躯は小柄だが、艶のある体毛を自慢としている。
大きな街で暮らしているので魔獣に狩られて死ぬなんてリスクは無いが、まあ現実は結構厳しい。何せ二年もの間『あの男』の庇護下でぬくぬくと過ごしていたのだ。それが唐突に野良の世界に放り出されたのだから――自ら望んでのことではあったが――その苦労の程も窺い知れようと言うもの。
昨日今日隣で寝ていた知り合いが翌日死骸で発見される、なんて事も、当然日常茶飯事だ。日々を生きる事にすら精一杯。糧を得るのも命がけ。それさえ得られず死んでいった同族は星の数。
人に飼われ何不自由ない暮らしを得ている者もあると言うのに、これはなんと理不尽な事だろう。
だがその一方で、納得は出来ずとも――上手い立ち回りさえ覚えれば、そこそこの長生きは出来るもの。
そう。故に我輩は今日もこうして、明日もそうして。好きな事をしながら、生きながらえていくつもりだったのだ。
――だが。
しかしである。
我輩今、どういう訳か。
人の身で、森の只中に立っている。
端的に言ってそれは、人間、しかも少女の体だった。
身長は恐らく、百五十センチ程。白に水色のレースが入った清楚なノースリーブワンピースが、吹けば飛んでしまいそうな我輩の細身を、張り付くようなサイズ感で上品に覆っていた。
何度見てもこれは、人の身だ。それも子供。女。二つ併せれば少女と呼ぶべき存在になる。
確かめるように、両の五指を胸板から腰に向けて這わせれば、
……ん。
なにか無形のものが背筋を撫でた感覚がした。体毛が無いためか、いささか肌が敏感だ。
……良い。
いやなんだその感想。我輩猫だぞ。今違うが。
そのまま手を降ろしながら骨盤から尾骨までの確かさを感触したなら、それは我輩の体の後ろ側にて、ふっくらとした真綿に似た柔らかさで我輩の両手を出迎える。
尻であった。
……ほう。
意味の解らぬ感嘆も出ようというもの。
顔横から腰までの長さまでを清水のように流れるのは、銀の色を持った頭髪だ。触れれば絹のような、梳けば流水のような滑らかさを返して我輩の指を愛撫するのは、そのきめ細かさ故だろうか。
腕、そしてワンピースの裾から見える大腿部が示す陶器のような白は、触れることすらためらわれる清廉さを持つ肌の色だった。それは一方で我輩の指を押し返す健康的な瑞々しさをも同時に備えており、これが自らの体から生えている部品でなければきっと芸術品か何かと勘違いしていただろう。言いすぎか。
……美少女と言うやつだな。
己の身ゆえ、顔に関しては確認する術が無いが、根拠もなくそう確信できるほどのものであった事は確かだ。
森の中、不自然に切り開かれたドーム状の大空間。それが、我輩が立つ場所だった。
鬱蒼と茂り、暴力的なまでに己を主張してくる濃緑。数百メートルはあろうかと言う囲いとして我輩を包むそれは、四方八方、そして頭上と足元をも覆い尽くし、その存在感の主張に余念が無い。
直上から落ち、まるで光の鳥かごのような幻想を生む木漏れ日は、湿度の高い森中においても肌にじわりと汗を生んだ。影と光に明確なコントラストを作り出すそれは、初夏の日差しだとして違和が無い。
最後に残る我輩の記憶と照合してみても、その季節感覚は恐らく正しいのだろうと思えた。
……。
空間の形は、直径三百メートル程のドーム状と表現するのが正しいだろう。我輩が立つのは、その丁度中央付近だ。
周りに巨木がある訳でもないのに枝葉の天蓋が頭上を遮るのは、自然に作られた光景としては有り得ないもの。だが、魔術的な細工がされていると考えるなら不思議もない。
……ここは。
我輩は、その神秘と自然の力強さを等量ずつ込めた光景に覚えを抱きながら、後ろへと振り返る。
そこにあったものは、森林の只中にあるには不自然極まる、巨大な人工物だった。
石段だ。
一段二十センチほどの、白い石材で出来た昇り階段。それが手すりも無く遥か先、地上数十メートルの位置まで延びている。目測で五十メートル程上りきった先である石段の頂上には、何やら柱のようなものの頭端が見えていた。
柱の数は、一本や二本ではない。無数、と言っていい数の白の色を持った巨大な柱が、森の只中において空を目指すかのように聳え立っているのだ。
我輩の認識が正しく、そして知識が欠けていないのであれば、そこには二十一本の柱が土台に円形を以て並ぶ、荘厳な神殿のような光景が存在しているはずだ。
即ちここは、
……竜脈の祭壇、か。
ここは、我輩にとって既知の場所だった。
一歳から三歳までの二年間、我輩は主にここで修行の時を過ごしたのだ。師である『あの男』は、街で日々の糧にすら困窮しながら過ごしていた仔猫を拾い、保護し、物好きなことにその身へと魔の真髄を叩き込もうとした。
だがその真意が知れた時、我輩はそれを拒んだ。そうして彼の元を離れ、街で再びの暮らしを得てから、更に一年。
即ち、今だ。
……戻ってくるつもりは、無かったのだがな。
こうして、己が意思に反してでもない限りは。
……我輩は、何故ここに……?
竜脈の祭壇。歴史はそう深くないが、人が竜を敬い、そして魔力と言うものの真髄に触れるために造られた施設だ。慣れ親しんだ場所ではあるが、無意識に足を運ぶような思い出は特に無いつもりでいるのだが。
己が人と成った経緯は勿論だが、ここに立っている事そのものもまた、記憶から抜け落ちたかのように不明瞭。当たり前だ、我輩はここには二度と近づかないつもりだったのだから。
最後に残っている記憶、光景は、確か街の路地裏で――。
と、
「あれ、何してるんだい、君」
森の木々へと吸い込まれるような伸びを持った、教会の鐘にも似た声が、石段の上から響いて来た。
我輩は心臓を掴まれたかのような寒気と引き攣るような緊張を覚える。
それは男の声だった。飄々としているが軽薄ではない。澄んでいるが純粋ではない。そんな印象を受ける、何処か侵し難い、神性を孕んだような伸びやかな音色。
石段の上から突如振って沸いたようなそれは、木漏れ日が作る逆光の中からカーテンをめくるようにして現れ、
「やぁ、久しぶり。元気してるかい。僕だよ」
金の長髪を流した長身。同じ色の刺繍が施された白地のローブ。なるほど、こういう声を持つならこういう男だろうと、そう思える優男が、薄い笑いを湛えながら、いつの間にかこちらを見下ろして立っていた。
見る度に黒にも金にも染まる不思議な色の瞳は、彼が我輩の知る人物である、その解りやすい証明でもある。
『怨絶竜』、ローランフリート。
魔術の祖たる十二竜が一体。
そして我輩の『師匠』にして、単なる猫を魔術の世界へと誘った変わり者だ。我輩も彼も、今は人間の姿のようだが、
……ローラン。珍しいな、貴様が一人でこの祭壇に居るとは。
「そうだね。君が居なくなってからは、とんと無かった事だ」
……。
十二体の『絶竜』達は、己の担当する竜脈を護るため、基本的にはその傍を離れない。竜によっては街に溶け込んでいたり普通に住んでいたりもするが、多くは『ストレスが溜まる』『無理』『キャラじゃない』などと言って、人里離れた場所を好む。
彼、ローランフリートもまたその例に漏れるものではなかった。しかし彼の場合は祭壇そのものではなく、程近い場所に建てられた山小屋に居を構えており、他の竜よりは幾分か人間寄りの生活をしていたと記憶している。
「何、ちょっと気配がしたものでね。ここに近づけるのは結界を張った術師自身か僕か――あるいは僕の愛弟子であった君だけなのだから、これはちょっとおかしいぞ、と。こうして見に来た訳なんだが……まあ、君だったよね。ウケる」
何がウケたのかは全く解らないが、ここで我輩は一つ疑問を得た。
……何故、我輩が我輩だと解った? 我輩こう言っては何だが、我輩今ちょっと美少女だぞ。
「一人称が多いね」
何、とローランは瞳を閉じて頭をガリガリと掻き、
「不思議パワーさ」
口元に薄い笑みを浮かべながら、まるで誇るようにそう言い放った。
……。
「いや、そんな眼で見るなよ。マジで美少女だから心に来るだろ。まあマジ言うと、魔術師にとって重要なのは肉体じゃない、魂の形だ、って事さ」
……それを知覚出来るのはどう言う事だ?
「不思議パワーさ」
いかん。これを認めない事には話が進まんぞこれは。
……まあ、それはいいとして。
「折衷案で来たね」
うるさい。ともあれ、
……これは、どう言う事だ?
「これ、とは?」
ローランはわざとらしい仕草で首を傾げてみせる。
……解りきった事を訊くな。この、我輩の体の事だ。
白い肌を持った、銀髪の少女。年の頃十三、四歳であろうか。それが今の我輩の現状だ。
眼を覚ました時既に『こう』だったので、何時から『こう』だったのかは定かではない。だが季節が移ろいでいない事が確かなら、そう経ってはいないだろう。
一晩か二晩。長くともそのくらい。
猫の体が人間に進化してしまうには、少々短すぎる時間。だが、そんな奇跡を限定的にだが可能にしてしまう技術が、この世界には一つある。
魔術。そしてそれを世界に浸透させた『原初』の魔術師、それが目の前に立つ男の正体だ。
十二竜が一体。蔓延る怨嗟を絶つ力。
怨絶竜、ローランフリート。『原初』の魔術を知る男。
……我輩は何をされた? ……貴様なら、何か知っているのではないのか?
だが彼は、
「解らない」
間髪入れず、そう答えた。
……何?
「聞こえなかったかい? 解らない、と言ったんだ。君はちょっと勘違いしてるのかも知れないけれど、いくら僕の魔術が万能だとて、物理法則を無制限に踏み倒せるようなものじゃあ決してない。ぶっちゃけ現役時代なら出来たかも知れないけれど、まあ、今は隠居の身だからね」
彼の言葉は、皮肉を含んでいるせいで少し軽薄に聞こえるが、決して嘘を吐いているような響きを含むものではなかった。。
無論、億を越える年月を経て生きる『絶竜』の事。感情を悟らせぬ心得くらいは備えていて当然だろうが、少なくとも彼が我輩の前で『そう言う態度』を取ってみせた事は、師事を受けた二年間には一度もなかった。
故に彼の言葉は真実。だが、そう言う前提で考えるならば、
……では、これは……我輩が陥っているこの現状は、一体なんだ?
「……ふむ」
我輩が困惑に沈黙を落とすと、不意にローランが訳知り風に吐息を漏らした。思わずその顔を確認すると、彼は無表情でこちらを見下ろしながら、腕を組んで何かを考えている様な素振りを見せている。
「……実は、ね。ここに来たのは、何も侵入者の気配を感じたからだけじゃないんだ。それだけだったら、まあ『人間が勝手にどうにかするだろう』とか言って放置カマしてただろうよ、僕は」
……。
「そんな目で見るなよ。僕の役割は竜脈の守りであって、管理ではないんだから」
……そうだな。貴様はそう言うやつだったな。
他の『竜』と違いこの男が竜脈の守護において、少々真面目からぬパーソナリティを備えているのは今に始まった事ではない。
今重要なのは、そんな彼がしかし今回に限っては状況を傍観せず、わざわざこの『祭壇』まで足を運んできた、その事実だ。
ローランが、数百メートル上、森の天蓋を背を反らせながら見上げた。何かを確認するようにそれを数秒、やがて彼は呟くように告げる。
「……実を言うとね? この祭壇を覆っていた結界が、消えているんだ。竜脈を侵されぬよう、人が手間と時間を掛けて張った、何重もの認識阻害結界が」
……何?
結界が? 消えている? それは、
……い、いつから?
「うーん、よく解らない。通常であればそんなイレギュラー、すぐに僕か、そうでなくとも『塔』の魔術師が気付くはずなんだけど……最後に君がここの結界を確認したのは?」
……一年前。
「じゃあ、そこから今日までのどこかから、って事かな」
……おい。
この男は、我輩が消えた一年前から今日まで、己が守るべき祭壇を気にも留めていなかったと言う事か。
「いや、無論、遠間から確認してはいたよ? 人間の結界魔術師がちゃんと結界張ってるか、とかね。でも……」
と、
「これ」
言いながら、ローランはローブの下にあった右腕をこちらに振ってみせた。
……!
その勢いと共に飛んできたのは、銀の色だった。木漏れ日の隙間を切り裂くように、陽光を反射しながら小さな金属音が森底に溜まった湿度の中に響く。
思わず広げた両手の中に、放物線を描きながら銀光が収まって来る。それは、
……剣?
と言ってもそれは、まるでおもちゃのような様相を持った小さなものだった。丁度今の我輩の手首に収まるような短い鎖を提げた、十字型の装飾品にも見える一品。サイズに比してずしりと重いが刃は潰されており、柄と鍔には簡素な金色の細工が施されている。
「それが、祭壇の頂上に突き立っていた。おもちゃのようだが、立派に術式が篭っていてね。中身のない形だけの結界を周囲に巡らせる、まあ子供だましにしても粗悪な品だよ」
……術式武装か。
細工や素材を使って特定の魔術を保存する、簡素な魔術行使補助装置。掘り込んだ魔術刻印の複雑さが重要な要素となるためサイズと性能は概ね比例するが、中身の無い結界を立てるにはこれで充分だったのだろう。
「不覚も不覚。今日になって、侵入者の――君の存在を知覚して、初めてこの違和感に気が付いたんだ」
……粗悪とは言え、貴様をも騙すような術式が、この中に?
「いや、それは、その、僕の怠慢と言うか、……ね?」
何が『ね』、なのかは解らんが、まあ反省しているのなら……いるのなら……うむ、まあしてないかも知れんが、とりあえず今は詰問せずにおく。
大事なのは、この剣と結界の消失が何を示すのか、と言う事だ。
否、そんなものは決まっている。それは、
……つまり、貴様はこう言うのか。何者かが、人間の張った結界に手を出してまで……竜脈を用い、我輩に『人化』の大魔術を行使した、と?
ちょっと考えづらい話だ。何せ術者にメリットがない。だがローランは事もなげに、
「少なくとも、結界を消してそれを誤魔化した『誰か』は居た、と、そう言う事は言えるだろうよ」
それは、良く考えずとも尋常ならざる事態。通常であれば考慮にも値せぬ仮説、だ。何せ、神にも等しき力を備えるローランをして『出来ぬ』と言わしめた現象を、その人物は人の身を以て叶えてしまったのだと言うのだ。
竜脈と言う最大級の補助があったにしろ、そこに至る労力は並々ならぬものと考えて遜色ない。
……一体……。
その者は、どういった目的があり、どのようにして結界を消してしまうという大事業を成し遂げたのか。そして、何故我輩に人の姿を与え、この場に放置して行ったのか。
「……ま、その辺り、ちょっと考えてみる必要がありそうだね。何せ、事は竜脈に関する事だ。次第によっては、まあ、何だ。えっと、一言で言うなら――」
一息。
「……世界が滅ぶね?」
王都から街道沿いを進み港を目指すなら、必ずと言って良いほど通る必要のある街がある。
それが、我輩が拠点として暮らしていた交易都市、セントリーエルだ。
何やら元は、魔術師の興した街であった、との事だ。もっとも今は交易拠点、補給地点としての側面も強く、旅人や行商人にとっては宿場街や観光地という印象の方が先立つのではないだろうか。
だがそれでも、今もなおこの街には『魔術師』の影響が色濃く残っている。その最たるものこそが、街の中央に聳え、雲すら抜いて突き立つ超常の建造、『塔』。そしてその周囲に建てられた『セントリーエル研究学術都市』だ。
聞くところによるとその昔、『協会』から離反してきた魔術師がこの地の『竜脈』を発掘した事が起源であるらしい。彼らは自らの知識欲を満たすべくここに己の研究拠点を設け、それを聞きつけた反『協会』派の魔術師が多く集い始めた。そして王都と港を繋ぐ場所柄に目を付けた行商人によって金や物資もがこの地に集まってくるようになり、いつの間にやら『街』一つが興っていた、と言う寸法だ。
それが故、この街における魔術師――『塔』の発言権は非常に強い。それこそ都市一つを後ろ盾にして、この地以外の竜脈を管理する『教会』と肩を並べることが出来る程に、だ。
とは言え、それらは全て人間の都合。街に暮らす我輩達猫にとって重要なのは、この街が交易都市であるが故の飲食店の多さにあった。
森や原野に暮らしていた、そして人々が生活の共として持ち込んだ猫たちは、この街の発展と共に繁殖していった。竜脈による魔力供給が町全体に行き渡るため、衛生面においては聖性魔術の管理が行き届く。ならばその生活を脅かすものは何もなく、むしろ危険の少ない環境は、彼らにとって理想とも呼べるものとして確立していった。
そして我輩もまた、そんな猫達の子孫の一匹であったのだ。
自由きままな野良猫生活。苦労は多いが、悪いものではなかった。
生まれてから一年。そしてローランの元から半ば逃げ出すように戻ってきて一年。常に満たされていたわけでは決してないが、飢えるほど餌に困ることもなく、凍えるほど寒冷な気候でもない。周りの猫たちも他者と言うものに寛大で、どちらかといえば孤立しがちな我輩にとっても、この街はとても暮らしやすい場所だったのだ。
そして、故に。
今回の『それ』にも、大した理由もきっかけも、特に無かったのだろう。
強いていうなら餌の取り合い、と言うヤツだろうか。この街においては若干珍しいが、まあそれでも無い訳ではない闘争の理由だ。
舌の肥えた一部の猫たちが、我輩に与えられた観光客による施しを羨ましく思ったのだ。
その者たちは、さしたる力も持たない癖に数と言う優位性を振りかざし、少数を痛めつけ、我を通そうとする。まるで人間のようだ、と言う我輩の言葉も、また火に油を注ぐ結果になってしまったようだ。
通常であれば、何の事はない。降って沸いたような施しなど、くれてしまえば良かったのだ。
だが、我輩は彼らに対し、強い不快感を覚えた。
理不尽だと、そう思ってしまったのだ。
まるで人のようだと。先に述べた言葉は皮肉でもなんでもない、ただの感想だ。
こちらが何をしたと言うのだろう。我輩がどんな不義理を立てたと言うのだろう。そんなこちらの疑問には一切応じず、だがヤツらは餌だけを寄越せとのたまって憚りない。
理不尽。人の世に蔓延るもの。猫であっても襲いくるもの。そして、
――我輩がただの猫である限り、決して抗えないもの。
無論我輩も、命の危険を感じれば逃げはするし、自衛の手段を持っていないでは無い。だが如何せんブランクが長すぎたし、運も、タイミングも悪かったと言う他無い。
――八百屋の主人が、きまぐれに酒など振舞うのもいかん。猫に酒など、何を考えているのか。好きだがな。
結果として我輩は半死半生の目に会い、ふらふらと路地裏へ流れ着いた。
何か目的があった訳ではない。ただ逃げてきた。それだけだ。
連中も何も、己に従わぬ猫を一匹残らず迎合したい訳ではないし、そうでない猫を皆殺しにしたい訳でもない。
ある程度の灸を据えて、目的を遂げて、そうしたらそれでお終いだ。「もうするなよ」とか、「次は無いぞ」などの捨て台詞が――まあそんな解りやすいヤツがあったのかは定かではないが、似たようなものはあったのかも知れない。
故に、今回のこれもよくある餌の取り合いだと、そう言うものであったはずなのだ。
だが、全てが悪い方向に転がったのだ。
数匹の猫から受けた複数の傷は、それぞれにおいて致命にはなり得ない程度のものだった。だが、血を流しすぎていた。体がどんどんと冷えていくのが解ったし、初夏だというのに、寒気が全身を支配していくのが解った。
前日の雨で、まだ道がぬかるんでいたせいだろうか。路地裏の奥まった場所に辿り着いたせいで、日の光が届かぬせいもあっただろうか。
……。
記憶も、思考も、そして全身の感覚さえもがまどろみに沈んでいく。眠りに落ちる心地よさの中、体の痛みと寒気が、ある時を境にすうっと消えていくのを悟った。
我輩はその時に気が付いた。初めて知ったのだ。
死とは、生暖かい風の形をしているのだと。
……そこから先の記憶が、まるで無い。
我輩は、頭の中の不鮮明な記憶を日記に記すように順序付け、言葉として落とした。
如何せん死にかけだった故、主観的な情報すら曖昧模糊。しかし概ね間違ってはいないはずだと、そう己に言い聞かせる。
……今日は?
「七月一日。今年の夏は雨が少ないね。農作に支障が……ふふっ、無ければいいんだけど」
森の中、一般に『竜脈の祭壇』と呼ばれる場所の厳かな空気を浴びながら、我輩は石段の中ほどに腰をかける。少し上った位置に立つ男――ローランフリートに背を向けたまま、
……やはり、そう経ってはいないか。
彼からの情報もまた助けとしながら、現状の把握に努める。
何が何やら解らないが、それでも今、我輩が人の身を得ていることは確かなのだ。何をするにも、その仔細を求めないことには始まらない。
「君がそのボス猫から半殺しの目に、……っ、くくっ、……ふ、いや、失礼。半殺しの目にあったのは、いつごろの事だったんだい?」
笑いすぎだが、我輩にも油断はあったのだから何も言えない。ただ睨むに留める。
……多分、月末。六月三十日の夕刻だろう。問屋が騒がしくしていた故。
「ならば、半日程か」
それだけの時間を以てして、我輩は人の身を得るに至った。現実を捻じ曲げる『魔術』という技術を考えても不可解な事態であることは言うに及ばず。人の魔術が使われたとして、一体どれだけの魔力リソースがあればそのような事が叶うというのだろうか。
ふむ、とローランは頷き、
「もし猫の肉体を人へと変じたのなら錬金魔術か生体魔術、肉体に魂だけを移植したのなら再生魔術の芸当かな。どれにしろ、人間の能力領分を大きく上回る術式が行使された事になるけど……」
しかし、と竜は言葉を区切る。
「これに犯人が居るとして、その術者にどんなメリットがあると思う?」
……猫を人へ変えるメリット?
正直よく解らんが、無理にでも仮定するならば、
……中身が獣だと興奮するとか……。
「一説目がホッパーすぎない?」
違うか。いや違うとも限らんが、個人的には違う事を願う。
……普通に考えれば、そうメリットなど無いだろう。
猫を人に変える。現象としては珍しいし魔学的に考察の価値はあろうが、個人単位の魔術師にそれをする得があるとは到底思えない。
あるとすれば何かの魔術実験の結果か、その副産物か。あるいは、
……貴様では、ないのだよな?
「僕?」
怨絶竜、ローランフリート。彼が一介の猫であった我輩に魔術を教えたのには、明確な目的があった。
そしてそれを考えるならば、我輩の人間化は彼の画策であると、そう捉える事は余程自然だ。
「ま、確かにそれっぽい状況ではあるけどね。それを言うなら」
と、彼は右手を胸の高さにまで掲げ、
「……」
……何だ?
「いや。まあ、僕じゃないよ。さっきも言ったけれど」
言って、目を伏せて手をローブの中にしまった。
……変な奴だな。
相変わらず、と言う言葉を飲み込み、我輩は改めてローランの顔を見上げる。
彼は伏せた目を薄く開けてこちらを見やると、
「で、どうするんだい? 君は」
……どう、とは?
本気で解らず、聞き返す。するとローランは口元に湛えた微笑もそのままに、
「決まってるじゃないか。これからの事だよ」
それはつまり、
「事情は良く解らないにしろ、君は今人間だ。ならば取れるべき選択肢は猫であった時と比べ、遥かに多くある」
例えば、と竜は言葉を区切り、
「君には、僕が教えた魔術の知識と技術がある。もしも街へ出ると言うのなら……人の世で、それなりの財を築くのは比較的容易だろうね」
……だがそれは。
思考を停止し、現状を享受しろ、と言う事か。
しかし我輩が何かを言う前に、
「無論、強制はしないさ。そうまで気になるなら『追え』ばいい。気にならないなら、受け入れればいい。それもまた、選択肢、だ」
そうさ、と言ったローランが、天を仰ぐように両手を広げて身を回す。
「街へ出るも出ないも、この『術者』を追うも追わないも、全部自由。あるいは全部忘れて、ここではない何処かへ旅にでも出てみるかい? 旅はいいよ。僕もこの一年は温泉巡りなどしていてね。『次』を育てる前の息抜きのつもりだったんだけど、いやはや人間の作った文化と言うのも中々に侮れない」
……何が言いたい?
「おっと、話がずれたね。まあ、とにかく」
指を一つ立て、こちらに向けて、
「そのための力は、もはや君に備わっている。そう言う事だよ」
……力。
即ち、『魔術』だ。
半ば反則とも言える技を使って無理に魔術を行使していた猫の体に比べ、この人間の体はきっとそれを使うのに不足ない。『魔核』の性能がいかほどなのか、と言う懸念はあるが、我輩の『魂』が定着している以上、そう乏しいものでもないはずだ。
つまり、我輩が扱う『魔術』はきっと、猫であった時とは比較にならない程の性能を発揮出来るだろう。それはまさしくローランの言うように、無数の選択肢を自ら選び取るための『力』になるはずだ。
だが、
……どれも御免だな。
「ほう?」
我輩はきっぱりと、ローランが提示した選択肢を否定する。何故なら、
……我輩は猫だ。これまでも、これからも。
それはつまり、
「……え、何? 君猫に戻りたいの? せっかく人間になれたって言うのに?」
ローランが、そう言いながらこちらの表情を覗くようにして身を乗り出してくる。
……冗談ではないぞ、全く。
我輩はそれから逃れるように顔を逸らしながら、
……世界で一番上等な生物とは何だと思う?
「竜」
一瞬それもそうだ、と思いかけたが、
……違う。猫だ。そして人類とはそれに煮干や食べ物や煮干や寝床、そして煮干を分け与えるシステムに過ぎない。
「何かすごい意見が来たね……」
ローランが我輩に半目を向けてくるが、構わない。
確かに人間は、魔術的にも食物連鎖的にも上位の生き物だ。寿命も長いし、能力やコミュニティの大きさを考えれば、その生存率は野生の猫と比べても格段に高い。
それに、人間ならば猫では出来なかった事の多くが出来るようになるだろう。それは例えば、我輩が嫌い、今までただ眺めているしか出来なかった――。
否。
そうであったとしても、我輩は猫である己を捨てる気にはなれないのだ、どうしても。
気ままに振舞い、たまに餌を求めて彷徨ってはただ通り過ぎていく。
我輩の中にあり、優先すべき事柄はそれだけだ。やるべき事も、やり逃す事もない。ただ流れ、いずれ消えていく。
そう言う生活が好きで、故に我輩は、それ以上を望まないし求めない。
だから、
……我輩は猫である。死ぬまでな。
「……そーかい」
こちらの物言いに何を思ったか、ローランが口端を上げたまま目を伏せ、そう言った。
彼の気持ちも解らないではない。この男が二年もの時間を掛けて我輩を育てた目的は、今の意見とは決して相容れないものだ。
こちらのスタンスを知っていたのなら、彼は我輩を育てただろうか。しかしそうでなかったのなら、我輩は街の何処かでのたれ死んでいたのかも知れない。
故に感謝はある。報いたいと思わないでもない。しかしそれ以上に我輩は、猫である己を捨てられない。
だから我輩は、猫に戻る。他の何を、差し置いてでも。
そして、そう言ったスタンスを示した我輩に、しかしローランはそれきりさしたる反応を寄越さなかった。
もう少し抵抗、と言うか説得と言うか、何か引き止めるものがあると、そう思っていたのに、だ。
……何も言わないのか。
我輩は、表情を隠すように顔を上向けたローランにそう確認する。
すると彼は、意外、とでも言うように目を見開いて見せた。そして極めて穏やかな表情で、ふ、と笑い、
「別に。僕は僕の都合で君を育てた。そして君は君の都合で僕の元を離れた。これに何の齟齬がある? 竜も猫も、ついでに人も。何より自由が一番さ。それは君も同じだろう?」
と、抑揚の無い口調で答えた。
二年。
彼が、我輩を育てるのに要した年月だ。こちらにとっては人生の半分だが、彼にとってはきっと、時計の秒針が音を立てたものに過ぎないのかも知れない。
「で? 君はこれから、具体的にはどうするつもりだい?」
ローランが問うて来るが、そんなものは決まっている。それは、
……元に戻る手段を探す。そのために……『術者』を探し出す。
人である己の肉体を、元の黒猫のものに戻す。どういった術式が用意されたのかは依然知れないが、その『逆』の再現をゼロから編み出すよりは幾分以上に楽なはずだ。
だがそのためには、やはり使われた術式の詳細を知る事が重要になる。
念のため、本当に念のため、一縷の望みを細い糸に掛け、針の穴を通す気持ちで綱を渡るような視線をローランに向けるが、
「僕は手伝わないよ。表立って動けない身だからね」
この男はいつもこうこうなのだ。ファック。
「な、何か今失礼な事思わなかった?」
妙に鋭い、と関心するが、黎明より生きる竜なのだ。当然か。
……ローラン、ならば代わりに、一つ訊きたい。
「ん?」
我輩が得た問い。それは、
……この『術者』は……本当に我輩を人に変えるためだけに、竜脈を侵すなどと大それた事をしでかしたのだと思うか?
竜脈が放つ魔力は、都市のインフラを支えるのみならず、十二の数を以て星の豊穣をすら維持するものだ。その規模は、それこそ世界を支える柱とも呼べるもの。
その魔力が、祭壇を経由して不正に引き出された事は恐らく間違いない。そうであるしか、猫と人の体の間にある質量の壁を越える手段が無いからだ。
しかし、そんなものに手を出しておいて、実際に大魔術を一つ行使しておいて。
――これが、これだけが。本当に、『術者』の目的なのか?
その我輩の問いに、ローランは、
「……その可能性も無くは無いけど」
それを認めた上で、
「個人的には、こう思うね。……そんな訳ないじゃないか、と」
ローランは言う。
「竜脈。ただ十二だけ存在する、この世界を形作る『オールリソース』。過去この古代遺産に手を出してきた者は、例外なく自分勝手な目的を持っていたよ」
それは例えば、
「お金が欲しい。権力が欲しい。永遠の命が欲しい」
あるいは、
「あれを壊したい、これを潰したい、誰を消し去りたい。現在、この世界で竜脈を曲がりなりにも管理するただ二つの組織……『協会』と『塔』だって、その根幹にあったものは個人の『欲望』だった。それが偶然、多くの人の利益と豊穣に繋がったが故、彼らは今の安定を手にしてはいるけれど、ね」
欲望。それは人が人である証明であり、その行動の最奥に息づく、最も混沌としたモチベーションだ。
だがこの『術者』の行動には、今の所その『欲望』が垣間見えない。例え我輩を人に変える事それ自体が目的だったとしても、その魔術成果であるこの体を放置している、と言うのは道理が通らないのだ。
故に、ローランは言う。
「この『術者』の目的は、他にあるはずだ。何かきっと、表沙汰にする事の出来ない……真の目的が」
とにもかくにも、情報が足りない。一つ、犯人の目的と正体。二つ、この体の仔細。三つ、魔術の構造。どれを追うにも、他二つの情報が必要、と言う袋小路の有様だ。
「とにかく……まずは何か食べようか。山小屋に来ないかい? お腹すいてるんじゃ?」
……言われてみれば……。
何か、腹の下あたりに撫でられるような違和感がある。
猫であった時と少々毛色が違うが、恐らくは空腹感だ。魂から出でて巡る魔力は多少の疲労であれば身体強化で押し通すが、栄養が無ければ回る頭も回らない。
……何が出せるんだ?
「蜥蜴とか」
猫的には悪くないんだが、この体で食べても平気だろうか。
と、その時だった。
……!
気配がした。
祭壇から見て、階段を降りたその先、直線上だ。ドーム状として存在するこの場所の最北端。空間を囲む壁のように生い茂る鬱蒼とした木々と草花の間から、一つの影が飛び込んできた。
……人?
遠目であるため判然としないが、細いシルエットとスラリとした長身だ。
この森は、普段人の手が入るような場所ではない。脅威度が低いとは言え小型の魔獣が出没することもあるし、何より常時であれば結界が薄霧となって人の行く手を阻んでいる。
だが、
……今は都合よく、その結界が消えている。
それを見越してこの場所へやってきたのだとしたら、彼女こそが我輩に魔術を掛けた張本人――『術者』であろうか。犯人は現場に戻るともよく聞く。
だが、それは否だと、我輩は直感的にそう思った。
そういう風貌ではないな、と。何せ、
……メイド服?
白のブラウスに黒のタイ。
同じ色の組み合わせを持った、ロングのエプロンスカート。
それは、何処に出しても恥ずかしくない、生粋のメイドだった。
中身で言えば、それは人間の女性だった。
歳は恐らく十台後半といったところ。少女と言ってもいい。
髪は黒のセミロング。顔横でまとめられた一房だけが彼女の切れた息と共に揺れており、額の上にはフリルの付いたカチューシャを乗せている。
歳の割には長身に見える。今の我輩が百五十センチ程だとするなら、百七十に届くかといった所だろうか。
……おい、ローラン。
と、後ろに居たはずの男に声を掛けるが、
……あの男……。
既に彼は、気配すら残さず消え失せていた。
ただ、彼が先ほどまで立っていた階段に、新たな影が一つ置いてある。
……何だ?
それは鎖だった。白い、陶器のような光沢のある素材で出来た、ブレスレット様の連なり。一つ一つのパーツは一センチ程だろうか、それが幾十も重なって輪を作っている。
なんだろうか、と思い手に取ると、
……!
理解が来た。意外な程に軽く、どこかにぶつければ砕けてしまいそうな儚さすらあるそれは、
……餞別のつもりか?
人として生きろと、そういうメッセージにも、皮肉であるようにも思えた。
……。
我輩は少し迷い、だが結局それを右の腕に付ける。
と、そうしている内に、メイド服姿の少女がこちらに駆け寄ってきた。
反射的に石段から立ち上がった我輩は、身の振り方を考える。
……どうする?
普段立ち入りが制限されているこの祭壇へと、不躾に立ち入ってくるあちらは勿論不審者だ。
しかし現状、我輩もまた不審者だ。しかも身分が判然としない分、より質が悪いものであるとも言える。
この祭壇は、人間社会的には『塔』と『協会』が協同で管理を請け負う重要施設だ。その優先度は街にある竜脈の本体に匹敵する。極端な話、『騎士団』や『術師団』に連絡が行けば投獄や処罰の対象となることも有り得るのだ。
……逃げるか……?
否、駄目だ。不審者ランクが更に二つ程上がることになるし、そもそも今の我輩がどこまで『出来る』のかもまだ良く解らない。
体が違うせいで『魔核』の状態がいまいち掴みづらい。それに、この『腕輪』に関しても試験運転が必要だろう。
ならば後はこの体こそが頼りだが、
……いけるだろうか。
猫であった時に出来たことが、どれだけ出来る。否、今の我輩は人だ。あまり無茶は出来ないと、そう考えた方がいいだろう。
ならばせめて我輩が何者なのかの設定を考えておくべきか。この容姿だ。どこか亡国の皇女というのはどうだろう。不敬罪とか偽証罪とかが平積みに追加される危険もあるが。
と、考える内、メイド姿の少女が段々とこちらに近づいてきた。
姿が近づき、顔や細部の造形も鮮明になってくる。
瞳の色は黒。やや伏し目がちだが、意思の強さを感じる釣り目をしている。
すっと通った鼻筋と薄く塗ったチークが大人びた印象を強調しており、もしかしたら実年齢は先に目測したよりも少し下なのかも知れない。
森を抜けてきたからか、メイド服のブラウスとスカートは所々煤けたような汚れもあるし、端が千切れてしまってもいる。
彼女は、切れた息も、葉の堆積に足を取られて崩れた体勢も、直す時間すら惜しむようにしてこちらへと早足で駆けて来る。
と、
「……!」
彼女の顔が、不意に驚愕に染まった。
その驚きの意味は、恐らく、という推論に基づくものだが、
……我輩を、知っている?
そういう意味に思えた。
正確には、我輩の体であるこの少女のことを、だ。
……?
見ず知らずの我輩を不審に思い近づいてきたのなら、その不審を段々と濃くしていくはずだ。それが無く、唐突にその表情に驚きを貼り付けたなら――それは彼女と少女が既知であるということではないだろうか。
しかし、どうも様子がおかしい。
彼女、メイド服の少女は、顔を驚きに染めた後、駆け寄ってきていた足を緩めた。
今彼女は、手を胸に当て、不可解を整理するかのようにして深い息を繰り返している。
もはや彼我の距離は三十メートル程。声を掛ければ届くような距離で、しかし言葉を失ってしまったかの様にメイドの少女はこちらの顔を凝視して離さない。
……?
どういう反応なのかわからない。だが、だと言ってどうしていいかも解らない。
我輩、実は意識を失ってここに倒れておりましてにゃあ。元々はセントリーエルで野良猫をしていたんですがにゃあ、とでも正直にぶちまけてみるか。キャラ付けは別にいい。
「レ……」
メイドの少女が、意を決したように言葉を作る。鈴が鳴るような、というには少し低めだが、澄んだ女性らしい声だ。
「レティシア……いえ、違う。でも、そんな。有り得ない……でも、だったら……」
困惑はより深く。それは恐怖すら孕むようにして、しかし、
……涙。
両の目から、雫を零した。
その意味を、我輩は測れない。だがそこに滲むものは悲哀や恐怖ではないような気がして、
「……ミルネシアお嬢様……」
メイドの少女は、大切な何かを拾い上げるように、先ほどとは別の女性の名を呼んだ。そして、
「……っ」
彼女は、己の感情をこれ以上抱き込めない、とでも言うように、その場に膝を落とした。
地に膝を着き、決壊した感情を吐き出すようにして泣き続けるメイドの少女に対し、我輩は何も出来ずにいた。
……何だこの展開は。
顔を覆って泣く少女の表情は見えず、無論その感情も読み取れない。否、そうでなかったとしても、その真意を測ることが果たして我輩に出来ただろうか。
……この少女は……。
――我輩を――我輩が『成っている』この少女の事を、知っているのか?
それも、並大抵の間柄ではない。良い意味にしろ悪い意味にしろ、彼女はこちらを見て泣き崩れたのだ。ならば、
……家族。
あるいは、それ以上か。
彼女はこちらをミルネシアと呼んだ。喉奥から搾り出すようそれは、掠れの混じった声ではあったが間違いない。
ならばそれが今の我輩の名前、という事なのだろう。であれば、
――我輩は、『変えられた』のではなく……『換えられた』と言う事か。
肉体の変換ではなく、魂の置換。ならば、
――いくつか確認することはあるが……。
ひとまずは少女から話を聞くこと。それが最適解であるように思える。
我輩が『何』なのか、を伝えるかはひとまず保留だ。彼女が何者であるか、そしてこの体が何者であるか。それを探りながら決めていっても遅くはないだろう。
故に我輩は一歩、彼女へと歩を近づけた。
「!」
泣いていた少女が、こちらの動きを察知して身を固めた。
警戒。普通ならば当然だが、彼女は『ミルネシア』の知り合いだった筈ではないのだろうか。
……。
少し性急が過ぎただろうか。しかし動きが無いのでは何も話が進まない。
我輩は彼女に構わず、その距離をゆっくりと詰めていく。そして向こうの黒い瞳に己の姿を写し、
……本日はお日柄も良く。
まずい。挨拶を間違えた。きょとんとしている。だって猫の間の挨拶など「にゃあ」か「ふしゃぁ――」の二通りだったからな。ローランに挨拶は要らん。
否、そんなことは些細である。ひとまずとして確認するべきは、
……今、貴様は我輩を『ミルネシア』と、そう呼んだが。……それが我輩の名前なのか?
「……!」
メイドの少女は、またもや驚きを顔に映す。だが、先ほどまでの警戒は少し薄らいだように感じた。
「……、そう、です……貴女の名前は……ミルネシア。ミルネシア・ハート」
少女は応え、涙を拭い、
「私がメイドとして仕えるハート家の次女。そして……」
意を決したように、
「二年前、事故で亡くなったはずの……お方、です」
……故人、か。
予想しなかった訳ではないが、最も可能性の低かった説が、少女の口から提唱された。
有り得ない話だ。過去、誰もが夢想に描き、この世にもたらされた竜の魔術を以てして絶対に叶うことなかった理想の果て。
蘇生魔術。
故人、つまりは既に喪われた人物を、この世に蘇らせる禁断の蜜。
竜脈の祭壇にて、『何かしらの魔術』が行われた可能性が出た時点でそういう可能性もないではないな、と頭の片隅に浮かべた説を、よもや真面目に検証せねばなるまいとは。
「……お嬢様……?」
……すまない、少し考え事をしていた。
少女の呼びかけで思考の海より舞い戻った我輩は、しかし念のために確認する。
……本当に? 本当に我輩は、貴様の知るミルネシアという女性なのか?
我輩にとってそれは、彼女の勘違いであってくれた方が楽だ、と、軽い気持ちで問うた投げかけだった。
否、それはそれで全てが振り出しに戻ることになるので好ましくないのだが、『蘇生魔術』などと言う幻想を追いかける羽目になるよりはずっとマシだ。
と、
「――」
……!
泣いた。
また泣いた。
メイド服の少女が、こちらの質問を聞いた途端、先と同じように、否、先よりもむしろ憚ることなく涙を流し始める。
「どう、して……? どうしてそんな事を言うんです……? どうしてそんな他人みたいな……」
――めんどくさい系の反応を――!
少女は、宝石のような涙を数滴膝に落とすと、何かに気づいたように身を震わせた。
「ま、まさか記憶が……? そうです……そうですよね……あれから二年も経ってますものね……」
何か勝手に都合の良い解釈をしてくれているが、修正が必要だろうか。
展開としては好ましいが、やはり我輩がミルネシアである可能性は限りなく低い。数億にも上る過去の術師が思い描き、しかし幻想に消えた術。それが蘇生魔術だ。
仮に『それらしき』ものを作り出せたとしても、それは犠牲と生贄、破滅と凋落を対価として手に入る『それらしき』ものに過ぎない。
もし仮に、今代においてそれを成し遂げた術師がいたのだとしても、中にある魂は紛れもなく我輩。猫だ。ミルネシアではない。
それを説明して解ってもらうにはどうすればいいだろうか。
と、そんな事を考えていた時だ。
ガサリと、少女が現れたところに程近い茂みが音を立てた。
……?
少女の関係者だろうか、とも思うが、
「――」
彼女は、音に対してビクリと身を震わせると、茂みの方を凝視して動かない。
警戒の姿勢だ。それは猛獣も出没することのあるこの森林においては正しい挙動だが、決して知り合いに対するものではない。
――ならば……。
何が、と思い、しかしやがて、
「――」
それが現れた。
三十センチ程の体を、翅の振動で以て宙に浮かせる、奇妙な出で立ちをした生物。
虫型の魔獣だった。
体の色は光沢のある黒。鈍い輝きを放つ硬質の蛇腹装甲は、まるで甲冑の篭手に棘を生やした様な歪なシルエットだった。
だが、六本の足をぶら下げるように生え揃わせる腹部と、ぶん、という耳障りな羽音は、それぞれが昆虫という種を証明する材料として十全だ。
そして特徴的なのは、口と思しき位置から長く伸びた先鋭だった。
それは、この生き物の呼吸を示すようにして一定のリズムで上下に稼動し、ぎちぎち、という肉の筋をねじり切る様な音を共にしていた。
即ち、魔獣だ。魔術師や魔性生物とは別の角度から魔力を受け入れ、間違った生物進化に辿り着いた行き止まりの姿。食料としての魔力を欲する以外の機能を切り捨てた故に生存力が強いが、その先にあるものは自壊か、あるいは成長の末の自壊か、だ。
形からして、元となった生物は蚊か何かだろうか。
「ひ……」
少女の口から恐怖を示す引きつりが漏れる。顔からはさっと血の気が引き、身を引いた勢いで姿勢を崩して尻餅をついた。
「!」
そして、それを隙と見たのかどうか。
虫型魔獣が翅を一段と震わせ、こちらへと唐突に飛んできた。
……!
速い。茂みからこちらまで百メートルを越す距離があるはずだが、到達までは恐らく五秒も掛からない。
とはいえ、狙いは十中八九我輩だ。魔獣にはもはや食欲以外の本能は残っていない。故に、魔術師として上等な魂を持つこちらを狙って来るのは自明の理。
そしてこれは魔獣としては最小級のサイズだが、無防備に受ければ腹の一枚や二枚は余裕を持って食い破るという程度のものだ。
故に、
――。
我輩は両足を大地に突っ張り、重心を落として身構えた。迎撃の姿勢だ。
――この体が何処まで動くか解らないが……。
やりようはあるだろう、と、そう考えた、
……!
その時だった。
我輩と魔獣の間に、割って入ってきたものがある。
「……っ」
それはあろう事か、メイド服の少女だった。
この魔獣は、大きさ自体は三十センチ程と、さほど大きいものではない。
しかし、大幅に進化した口吻は人の腹くらいであれば容易に食い破るだろう。生存のために発達した甲殻も、それなりに重量がありそうだ。
人が受けて無事で澄む程度の物ではない。ならばこの少女にも何か対抗手段が、
……否だ……!
先ほど魔獣の姿を見て尻餅をついていた少女に、そのようなものがあるはずもない。
で、あるならば、
……我輩を守ろうと……!
ここまでの会話で、この少女と、彼女が知る『ミルネシア』がある程度親しそうだというのは解っていた。だが、そのために躊躇なく命を投げ出すなどどうかしている。
否。それ程までの間柄、だと理解すべきだろうか。
だが、
……貴様の命の使いどころは、ここではない……!
別に助ける義理もないが、もとより無傷で殺せる相手に対し、無駄な被害を出す必要もない。
故に我輩は、
――。
跳躍を試みた。
魔獣の到達までは、もう時間がない。瞬きの後にその口吻は少女の腹を貫くだろう。
それを回避するための手段は、即ち迅速な行動に他ならない。
つまり、
「――」
跳躍だ。
ここからでは、彼女の背が邪魔で魔獣の身に我輩の手が届かない。だが、回り込んでいるような時間も、腕輪の『力』を解き放つ様な時間も、どうやら無い。
故に我輩は跳躍をする。猫であったときを思い出しながら、体を動作させる。
……!
右足で踏み切りを得て、体を横に一回転させながら、少女の頭上をベリーロールで乗り越える軌道だ。
この華奢な少女の体でそれが出来るか少々不安であったが、少なくとも一歩目はうまくいった。
魔力の巡りは猫であったときよりむしろ万全。人の魔核が魔力の運用の齟齬を生むかとも思ったが、あまり影響は無いようだ。
そうして我輩は少女の頭上を飛び越え、その正面の空中に躍り出る。
スカートがめくれ、盛大に下着が森林の大気に晒されるが、羞恥とかそういうものは持ち合わせていない。故に、
――。
後は簡単だった。
今まさに少女の腹に口吻を突き刺さんとする魔獣の頭に、回転の勢いのままに左足を、
「!」
遠心力のオマケ付きで炸裂させる。
硬い甲殻相手では致命には成り得ないだろうが、踏み抜いてそのまま体重を掛けるくらいは問題ない。
そして、一瞬の後に魔獣は、我輩の足の下で六本の足を動かすだけの趣味の悪い玩具になり下がった。
こうなってしまえば、後は煮るのも焼くのも自由。元より虫型は素早い動きこそ持ち味だが、膂力に乏しいタイプが多い。
猫であったときなら晩飯にでもしていたところだが、人間の口で食っても大丈夫だろうか。ちょっと自信が無い以上にビジュアルが心配だ。
「ミル、お嬢、さま……?」
と、呆然と事の成り行きを見守っていた少女が再び地面に尻を落とし、どうにか、という様子で声を絞り出した。
……無事か?
と、声を返す間に、我輩は足の下の魔獣から翅と手足を毟り取った。
魔獣は、百パーセント魔力のみが原動力であるが故、頭を潰しても動いてくる時がある。故に、こうして物理的に動けない状態にして初めて安心となるのだ。
少女はこちらのその作業を、驚きと困惑が入り混じったような、目を見開いた表情で眺めながら、
「あ、ありがとうございます……相変わらず、見事な体捌きで。……流石ミルお嬢様です」
……うん?
もっと驚かれると思っていたのだが。どうやらミルネシアという少女にとって、今程度の動きは驚きには値しないらしい。
強化の魔術を使うには、通常よりも純粋で多量の魔力を練る必要がある。故に通常の魔術との併用が難しく、性能の良い『魔核』を持ち、『魔素』の運用を主とする人間にとってはあまり一般的でない、と聞いたことがある。
――個人差、という事だろうか?
普通は出来ない。ミルネシアは出来た。そしてそれが故、我輩にも出来た、と言う事か。だがそれを認めるのは、
――この体が死んだ『ミルネシア』のものだと認めるということになるな……。
それは有りえない事だ。
とはいえ、
――…………まぁ、そういう偶然もあるか。
と、納得しておく他ない。
我輩が魔獣の解体を終え、その残骸をその辺りに放り散らかしていると、
「……お嬢様……!」
少女が、突然何かに気付いたかのように声を荒げた。
彼女の視線は我輩の左足首に注がれている。何があるのか、とそこに視線を送れば、
……しくじったか。
左くるぶしの外側に、何かで引っかいたような傷が生じている。
恐らく、魔獣を蹴り潰した際に甲殻か何処かで引っ掛けたのだろう。傷自体は小さく致命にはなりえないだろうが、少々派手に血が出ている。
「お嬢様、じっとしていて下さい」
メイド服の少女は言いながら、自らのエプロンスカートの裾を千切り、それで流れ出ていた血を拭う。そして今度は長い紐状になるように千切った端切れを、包帯代わりと言うように我輩の足首に巻いた。
「応急処置も良いところですが、とりあえずの保護です。この森、毒草も少なからず生えていると聞きますので」
少女の言う事は正しい。更に、祭壇の周りにはそのマナを吸って変異した強力な毒草も多数植生しているので、この処置は必要なものだった。なので、
……感謝する。
そう素直に言っておく。
「当然の事です」
少女は言いながら、何故か眉尻を下げた、少し寂しげな微笑を返してみせる。
そして彼女は、さて、と、我輩の足元から立ち上がり、
「レティお嬢様の事は気がかりですが……貴女を置いて捜索を続けるわけにはいきませんね。さあ、ミルお嬢様。もう少しきちんとした治療をせねばなりません。帰りましょう、我が家に」
少女が右の手を差し伸べてきた。
……。
だが、この手を取っていいものか、我輩は少々判断に迷った。
少女は、我輩を記憶をなくした『ミルネシア』だと信じきっている。そして、我輩を家に迎えようとすらしているのだ。だが、
――我輩は『ミルネシア』ではない。間違いなく。
百歩譲ってこの体が彼女のものであったとしても、中身は間違いなく我輩であるのだ。
やはり、その事を告げてこの手は拒むべきだろう。これほどまでにミルネシアという少女のことを心配している少女だ。我輩がそうでないと知れれば、その落胆は想像に難くなく、故に、
「ダンセルが暖かい食事を用意して待っていますよ。お好きだったでしょう? 彼の作るスープ」
……。
食事。
だと。
我輩の腹が、途端、くるると鳴った。
スープ。スープか。魚介系ならばより良いが、少なくとも蜥蜴よりは大分マシだ。
不明はある。不可解もある。
少女の発言にも展開にも境遇にも、思う所は数多い。我輩は元の体に戻るため、全てを慎重に、かつ熟考を重ねた上で判断せねばなるまい。
だがしかし。
我輩。
くるる。
――猫であるが故。
「……行ったか」
森の中のドーム状の広場。僕が勝手に、祭壇広場、なんて呼んでる場所。
僕は、その天蓋に近い太枝に腰を掛け、少女二人の成り行きを俯瞰していた。
半ば引きずるようにして、銀髪の少女の手を引いていくメイド服の少女。それを見送ってから、僕は言葉を作る。
「……蘇生魔術、ね。どうにも厄介な代物が出てきたものだ」
蘇生。故人を蘇らせ、かつてを取り戻すための術式。人の間では黒等魔術による再生系と生命系、白等魔術でも錬金系の使い手が密かに研究を行っていただろうか。
多くの人が望み、しかし同じだけの数の人を不幸にもしてきた禁断の魔。
「ま、人の魔学は日進月歩。その努力を僕は否定しないよ。――絶対に不可能な領域があると、人間は知らないからね」
そう。
「――今はまだ早い」
ともあれ、
「ああ、人の心配してる場合じゃないな。今この祭壇は人の管理から離れてしまっている……それに人間が気付くまで、せめて探知の術式だけでも」
僕は、両手の間に魔力の光を灯して術式の構築を始める。白とも金とも付かぬ光の色は、太陽の輝きに似て周囲の枝葉に陰影を刻んだ。
「やっぱ苦手だなぁ、結界は。……侵絶竜のじーさんとか手伝ってくれないかなぁ……無理か……じーさんだし……」
一人ごちて、魔術を繰りながら、そして気づく。
……ああ。
「やっぱり……何かしら大規模な魔術が行使された形跡があるね」
それも複数回。確かな腕前を以て、だ。
やっぱり、と言ったのは、それが最初から感覚出来ていたからだ。それを『あの子』に言わなかったのは、
「……だって、間違ってたら怒るしぃ――……」
絶対怒る。間違いない。いや僕がそれを恐れる必要はないんだが、嫌なものは嫌だ。
無論、使われた魔術の形式も手段も目的も、今の僕の感覚ではいまいち判然としないものだが、
「……蘇生魔術、か。普通であれば有り得ない話だが……」
手がかりらしきものは、先ほどのメイドの少女から齎された。ならばそれを足がかりにすれば少しくらいは何かが解るだろうか。
「ま、育ての親的存在、兼、師匠的存在のよしみだ。出来る限りは調べておいてやるかな」
考えてみればそもそも、
「……元から、違和感はあったんだよねー……」
それは、この森の事だ。祭壇広場に僕が入るのはかなり久しぶりの事ではあるが、そんな自分をして拭い去れぬ違和感が、確かにある。
何が、とはっきり言うことは出来ない。ただ、『何か』が、あるいは『誰か』が居て、『何か』をしようとしている。そういう、言葉に出来ぬどうしようも無い『異物感』だ。
魔獣ではない。確かに平時より数が多いようだが、そういう物とは一線を画す違和感。
だからと言って魔術師でも、ましてや一般人でもない。
「と、なると……」
何が考えられるだろうか。
「――」
十秒考え、
「――」
二十秒考え、
「――」
たっぷり三十秒を思考に費やし、
「――ああ」
結論を出す。
「――考えても解んないな」