第十六章 心の家族
私は、空を舞っていた。
何故こうなったのかは、覚えていない。
目の前で発生した莫大な光が、莫大な魔力と同義であることを理解した瞬間までは記憶にある。だがその後の経緯が、まるで出来の悪い水晶玉を通しているかのように不鮮明だ。だが、
……私の、負け。
その事だけは、はっきりと自覚出来ていた。
視界にあるものは、青と白。青が空の色で、白が学園塔の外壁部だとするなら、
……死ぬのね、私。
すぐ頭上を突っ走った竜の砲。その余波に晒されたのなら、その時点で体が消滅していてもおかしくない。
だが、こうして意地汚くも己を省みる暇が与えられている、ということは、きっとこの体は生きる事を諦めなかったのだ。
光が空を一閃する直前、背後の大穴へと身を躍らせた。
……どちらにしろ終わりなのに、ね?
切り札である『超竜種級』は二匹共倒された。その他の魔虫も、精霊魔術の前に成す術なく終わりを強制された。
そうでないものが残っていたとしても、指示系統の統括である『超竜種級』亡き今、彼らにこちらの意思を届ける方法は無い。
……。
死にたくないなと、そう思った。
幼い頃から自分は人と違っていた。
生まれつき体が弱く、日によっては一日中床に伏せてすらいた。魔術師の家系にはよくある事で、体と魔核の成長と共に改善されていく、とは主治医の言。けれどその予兆は何もなく、故に自身の余命が人より短いであろう、と言う事は、物心ついた時には理解出来ていた。
王宮と繋がりのある家柄、という事で、色々な人が自分を見舞い、励まし、時に同情してくれさえした。が、その優しさを素直に受け取れない程度に私が荒んでしまうのにも、そう時間は掛からなかった。
大丈夫です。なんともありません。お気遣いありがとうございます。
良家の娘としての礼は欠かさなかった。故に、私は家に篭りがちだったけれど、多くの人に囲まれた生活を送れてもいた。
だけど同時にこうも思った。
この人たちに、自分の気持ちは解らない。
彼らの中に、どれだけ私の境遇を理解出来る人がいるだろうか。どれだけ私のことを、本当に思ってくれている人がいるだろうか。
思いは、呪いにも等しく私の体を蝕んだ。
それは目に見えぬ病だ。故に質が悪く、私は私の病を自覚すらしていなかった。
ミルネシアの存在も、それに拍車をかけた。
彼女は、身内贔屓を差し引いても良い子だった。
私の双子の妹で、母の印象を強く受け継いだ女の子。私程器用ではなく魔術の才にも然程恵まれなかったけれど、父譲りの人柄で周りの人間を惹きつけた。また、特筆すべきはその運動能力だった。父さま曰く、一般的な魔術師と違い、彼女は魔力を体の内側へと送る性質に長けていたようだ。『技能』は魔術の劣化技術だと思い込んでいたけれど、ミルネシアを見ているとそうとも思えなくなった。
きっと私が死んだ後は、この子がハート家を継いでいくんだわ。そう思うと嬉しくもあり、悲しくもあり、そして少しだけ、嫉妬した。
ほんの少しだけ。
だけど死んだ。
事故だった。魔導馬車の車輪に巻き込まれたらしい。らしい、というのは、両親が事故の詳細な説明を噤んだからだ。葬儀の時に見たミルネシアの綺麗な顔からは想像も出来ない程の凄惨な事故だったのであろう事は、言われずとも察しがついた。
ミルネシアみたいな良い子が、何故死ななければならないのか。疑問と呪いと困惑が頭の中をぐるぐると回り、その結論はついぞ出なかった。
しかしその時私は、その代わりとでも言うように、唐突に理解したのだ。
人は、いつ死ぬか解らない、と。
どこかで、自分はこのまま幸せに生きていくんじゃないかと。人より少しばかり不自由するだけで、普通の生き方をして、普通に勉強をして、普通に結婚をして子供を産んで、普通に死んでいくんじゃないかと、楽観していた。
だけど違う。
人は死ぬのだ。
たとえ、ミルネシアのような健康な人間であろうとも。
ミルネシアの事が落ち着くのを待って、私は両親に問いただした。私はいつまで生きられるのか、と。
両親は驚いたが、意外な程あっさりと教えてくれた。どちらにしろ、私が十三になったら話すつもりでいたらしい。
永くはない。
だが、そうではないかも知れない。
そういう、曖昧な答えだった。
いっその事、明確な答えが返ってきたのならどれほど楽だったろうか。その答えはただ、私の身に希望と絶望を等量ずつ植えつけるだけのものだった。
私は、父が研究をしており、自身にも適正のある魔術――再生魔術に、のめり込んでいった。
目的があった訳ではなかった。
再生魔術の究極的な目標にある「死者の蘇生」というところに思うことが無い訳ではなかったけれど――当時の私はきっと、気を紛らわせる目的でそれを始めたのだと思う。
あるいは、何か結果を残して、自分が生きていた事の証明とするつもりだったのかも知れない。今となっては思い出せないけれど。
幸いにも、私には才能があった。
元々ハートの家の血には、再生魔術に関する適正があったと後になって聞いた。先代までこそ剣の道を生きていたが、その何代も前では歴史に名を残すような優秀な魔術師も輩出していたらしい。そのあたり、父は詳しく教えてはくれなかった。渋るというより、「もう必要ないから」。そういうニュアンスだった。
父の専門は、魂に関するものだった。対し私は、再生魔術で構成する肉体の分野に傾倒していった。魔力を魔素に変換し、それを動物の骨に纏わせて使役する。やりよう次第で医療にも軍事にも応用出来る、裾野の広い研究だ。
私の研究の最終的な目標は、完全な「人間」の生成にあった。
人の骨には魂は宿らない。故に、実用的にも倫理的にも疑問があり、だからこそ開拓の余地がある分野だと言えた。
決して、自身の境遇に理由があるわけではない。そう自分に言い聞かせながらも、私は魔術学園にて、再生魔術を学んでいった。
そして十四になって暫く経ったある日、定期健診の後、両親と共に診察室へと呼びだされた。
二十歳までは生きられない。そう宣告された。
何も感じなかった。
人はいつ死ぬか解らない。そんな事をミルネシアの一件で理解しながらも、私はやはり楽観していたのかも知れない。
そして、生きられないと、そう言われながらも、しかし特に問題もないまま私は十五を迎え――私は「塔」へ入り、本格的に自分の研究を始めようと思っていたのだ。
そんな春の事だった。
両親が死んだ。
そして、私は――。
人は、いずれ死ぬ。それが例え、何者であろうとも。
我輩は、彼女を殺すつもりだった。
それが合理的だったから。彼女は、やってはいけない事をしたから。
だが、我輩の感情は、あるいは体は――それと矛盾する反応を示して、瞬発した。
……捕まえた……!
砲の熱気も未だ冷めぬ空。我輩は、虚空へと消えたレティシアへと追いすがった。そして空中でその右手を掴み、それとは反対の手を塔の外壁へと縫い付ける。
……っ。
指先に魔力を込め、強化石材を五指で貫いて落下のエネルギーを殺しきる。
良い付与魔術師が造ったのだろう、貫きが甘く、二人分の体重を支えるのにはやや不足を感じるが、仕方が無い。
地上までは、およそ二百メートル。このまま彼女を抱えて着地出来なくもないだろうが、無事でも済まない高さだ。
故に、聞ける事は聞いておくし、言えることも言っておく。
……『砲』の角度も出力も、貴様を食うものではなかった。焦って飛び出すとは、魔術師に必要な観察眼が足りない証拠だな。
「……助けて、なんて言ってないわ。思ってなかった訳じゃないけれど。……貴女、私を殺す気だったんでしょう?」
と、
「まぁ、……その手間も省けるようだけれど」
我輩の握ったレティシアの手が、闇色の光を帯びた。
……!
否、帯びるのではない。レティシアの手そのものが、黒い光の粒子として空間に溶け出していく。これは、
……魔素が魔力に還元していく反応と同じ? これは……。
再生魔術による、従属体? 否、レティシアは生粋の人間である筈だ。ならばこれは、
「貴女の……ミルネシアの体。人間一人、何の代償もなく作り出せると思う? 竜脈魔術を以てしても、『生贄』を払ったのだとしても足りなかった。これはその対価。その代償」
つまり、
「生贄二人使って出来たのは、ミルネシアの肉体『らしきもの』をどうにか精製するまで。『らしきもの』を『本物』にするには、『魂』でも、『肉体』でも、『骨』でもない……人を人として繋ぎ止める、いわば『楔』とでも呼ぶべきものの抽出が必要なの。人一人を構成する『第四要素』。人を再生魔術で作り出せない、これが最大の理由。……ふふ、多分、私が第一発見者かしらね」
……見つけて、いたのか。
彼女の研究内容。人がこれまでの歴史で成し得なかったものに、レティシアはたどり着いた。
驚くべきことだ。
「簡単な話。既に人として成立している肉体から『楔』を抜き取り、ミルネシアの肉体に与えた。そうすることでミルネシアの体は限りなく人に近づき、そして『楔』を抜かれた――つまり私の体は、『生命』として存在を確定されていないただのゴーレムになり下がる。……そうまでして結局、ミルネシアの魔核は私と合致しなかった訳なんだけど」
しくったなぁ、と一人ごちてから、
「だから、私を助けても無駄。手を離すべきよ。安心して、きっと骨も残らないから」
言う彼女の手が、光を強くしながら、しかし存在を希薄にしていく。もはや我輩が何を掴んでいるのかも曖昧だ。だが、
……否。まだ死なせん。我輩が貴様を助けたのは……まだ、聞きたいことがあったからだ。
「聞きたいこと?」
頭の中で言葉を作り、一拍置き、
……貴様は不幸だったろう。そして死を恐れるのは当然の感情で、それに抗うのも当然の権利だ。
「……今さら、慰めのつもりかしら? 私は、許されないことをしたのに」
……そうだ。貴様は許されないことをした。だが、我輩個人はこうも思うのだ。
それは、
……仕方が無いじゃないか、と。
「……!」
風に混じり、彼女の息を飲む音が聞こえた。
我輩は彼女を責めない。彼女のやったことを責めはしても、その選択自体を責めはしない。
もし我輩が明日死ぬと宣告され、手元に彼女と同じ選択肢があったのなら、同じようにしないとは言えないからだ。
……全ての生き物は、幸せになるため生きている。それを盲目的に捉えたならば、貴様のような選択肢も当然あって良い。……責任は、持たねばならぬだろうがな。
「……だったら」
レティシアが言う。
その希薄な存在感に、目一杯の感情を載せながら、
「だったら、私だって、幸せになっていいじゃない。どうして私だけが、何も持っていなかったの……? 何も持たずに、産まれてきたの……?」
ああ、
「私は、幸せになってはいけなかったの……?」
この娘は――。
……本当に。
「え?」
……本当にそうか。
「何……を……」
……本当に、貴様は、何も持っていなかったのかと、そう訊いている。
……我輩は、ミルネシアではない。レティシアでもなければ、サクラでも、ダンセルでも、シバでもない。
かつてがあった。
……だが、理解出来る。あの家の者と接したのは、まだ数日程度だが……レティシアも、ミルネシアも、愛され、大事にされて育ったのだと理解出来る。
忘れてはいけない、かつてがあった。
……なるほど、貴様は不幸な生い立ちだ。
妹が居なくなり、
……なるほど、貴様は家族を失った。
両親が居なくなり、
……それで貴様は悲観した。貴様を貴様たらしめていた最後の糸が、切れてしまった。
人は死ぬのだと。唐突に理解して。
……何故自分から奪うのかと。神を呪いもしただろう。神を恨みもしただろう。
だけど、そうでない人も居る。不公平な世の中がある。
……それで、決定的に周りが見えなくなったのも、理解しよう。
なんて理不尽。なんて不条理。
……だが、我輩は許せない。
ならば、私は人並みになりに行こう。そのために誰かが不幸になるのなら――それは、仕方の無いことなのよね?
……貴様が、忘れてしまった事が許せない。
だけど。
……我輩が。人が。他人が。得たくても得られない幸福を。
だけど。
……貴様は、立派に持っていたというのに。
何かを。
……それを、忘れてしまった事が許せない。
何かを忘れている。
……貴様が持っているべきものは。
それを思い出すのは――。何故だか――。
……命を永らえさせる幸福ではなく。
何故だかとても――。
……どこにでもある、……三葉のクローバーでは、……足りえなかったのだろうか?
「……!」
ダンセル! ダンセル!
どうしました、レティシア。それは……。
四葉のクローバー!
ええ、立派な……うん。立派な……ええ……。
レティお嬢様、ダンセルが困っています。三葉のクローバーを四葉と言い張る遊びは止めましょう。不毛なので。
ええ――! だって、ミルばっかりずるい! 先週なんて二つも見つけて、お父さまとお母さまにプレゼントしてたのよ!
ふふふ。おねーさまは探し方が甘いのよ。一個一個、根気良く探していけば、いつかは見つかるものよ。四時間程で。二つで八時間ね。シビアだわ?
ミルお嬢様も、あまり健康的ではない努力は程々に。
……おうい、ダンセル。そろそろ夕食の仕込みの時間ですぞ。屋敷に戻りなさい。
シバさん。はい、かしこまりました。
シバ! 見て! 四葉!
おお、これは立派な……ええ、立派ですとも! レティシア様は立派ですなぁ! ほっほっほ!
きゃあ――――!
あ、シバ、おねーさまだけずるい! 私も高速メリーゴーランド! 分速二百回転のヤツ!
見なさいダンセル。アレがプロよ。真似してはいけません。
精進致します……。
ああ、ミル。
なぁに? おねーさま。
ダンセルの料理はなんでこんなにもおいしいのかしら?
あら、レティシア。それ、かーさんも同じこと思ってたわ。どうしてかしらね?
あっ、ミルも! ミルもそれ思ってたわ! おかーさまと同じね!
ミル、駄目だわ。早い者勝ちよ。早い者勝ちなのよ……。
むぅ――っ!
はっはっは、レティシア。ダンセルの料理が美味しいのはね、彼が父さんが見込んだ男だからさ。ミルネシアも同じことを思っていたよね?
いや、下ごしらえが丁寧だからじゃないかしら。昨晩も遅くまで起きてハムの仕込みをしていたわ。
ミルネシアは父さんのことが嫌いなのかな――?
そんなことないわ、おとーさま! 何故なら……ええと……そんなことないわ、おとーさま!
何故だか余計傷ついたぞ――?
……。
……レティお嬢様。
……。
……レティお嬢様。
……。
サクラです。シバも、ダンセルも……扉の前に居ます。
……レティお嬢様。聞いて下さい。
……。
私達がおります。ずっと、お嬢様のお側に居ます。
……。
居なくなりません。決して、お嬢様のお側を離れません。
……。
そんなことは無理だとお思いになるでしょう。そんな事は、保証出来ない話だと……そうも、お思いになるでしょう。
……。
無理からぬ事です。だけど、これは私達の本心です。レティお嬢様。
……。
一人ではない。決して、一人ではないと。その事だけは、忘れないで下さい。どうか……。
……。
……。
……。
……。
……水。
……! レ……。
水が欲しいわ。しばらく何も……飲んでいなかったから……。
……ええ。……ええ、お嬢様! ダンセ……早いわね。流石よ。……レティお嬢様!
……それから。
……?
……お父さまの書斎の鍵。……貰っても、いいかしら。
ああ。
駄目。駄目よ。そんな事。
解っていた。解っていたの。
私がどうしようもなく悪いことをしようとしてるって事も。
私が『与えられなかった幸福を求めた』、っていうのも……自分を正当化するための不幸自慢でかないんだ、って事も。
でも、でも、でも。
生きていたい思った。
人はいつ死ぬか解らないから。
だって、そうしなきゃ、何者にもなれないし、私は幸せなんだ、って。誰かに言う事も出来ない。
だから求めた。命を。そうしなきゃ、何も始まらないと……思い込んでいたから。
でも。
……ああ。
最初から気づいていたんだわ。
いいえ。気づいていない振りをしていたの。
そうでなければ、私は、手段を失うから。「私は可哀想でしょう?」と、大手を振って、己を正当化する事が出来なかったから。
私は……。
きっと、最初から……。
幸せだったんだ、って。
「……、わ、わた……私、は……」
……己を正当化するために。――外道になりきり、しかしその理由があったのだと、そう自分に言い聞かせるために事実を忘れようとした。その事を、我輩は否定しない。
きっと、この少女はそうでなければ己を見失っていただろうから。
レティシア・ハートは充分に幸福であり、だからこそ命を諦めろ、と。そう神に言われているも同然だと、そう考えてしまう程度に、純粋であったから。だが、
……だが。
「……あ……」
……貴様を幸せにしたいと、そう願った人達の事まで……忘れないでくれ……。
そして、レティシアの体は、闇色の光となってセントリーエルの空に消えた。