第十五章 継竜の紋章
突撃の風と、追加して生えてきた金属様の装甲。
それらの混合は我輩の小さな体を空中へ吹き飛ばすのに充分な衝撃を持っていた。
……!
確かな一撃を受けたはずだが、感覚が薄い。意識としては我輩の右わき腹を抉ったはずだが、ダメージの総量が知覚できない。
体の吹き飛び方からして、直撃を受けたわけではないはずだ。小さな突起であれ完成体の膂力で一撃を受けたのであれば、我輩の意識は今、死と言う闇に落ちているはずだろうから。
浅い。それはおそらく、ヤツの行った無茶な挙動が原因だ。
振り向き様の推進爆裂という負担の大きい行いに加え、体を振るために拳を用いたため、突撃と拳打のタイミングが合わなかった。結果として攻撃を見舞いはしたものの、威力自体は減衰させざるを得なかったという訳だ。
と、
……っ!
我輩の体が、硬い床面へと激突した。
感覚が希薄すぎて、まだ己が空中に居たのだということすら解っていなかった。故に衝撃はまるで背後からの不意打ちにも似て我輩を殴打し、受身すらまともに取る事が出来なかった。
喀血が漏れ、
――落下して受身をとれない、など、久しぶりの感覚だな……。
猫であったなら少しは違っただろうか。何せ人間とは柔軟さが違う。もっとも本当にこの身が猫であったなら、先の一撃で血煙になっていただろうが。
……っ。
我輩は横倒しになったまま体を感覚する。
予想通り、右のわき腹が大きく抉れ、無視出来ない量の出血があった。
冷たいようで生暖かい。熱いようで氷に似ている。どちらにせよ、死を予感させる感覚が腹を底冷えさせる。
……止血を……。
循環系に魔力を通せば、無茶はあれど血は止まる。
問題は我輩が人間の内臓器官に明るくないため、何か重要な臓器に損傷があるかなど解らない事だ。運が悪ければ勝敗の如何によらず、限界を迎えて伏せる羽目にもなるだろう。
だがどうであれ現状、休む事は出来ないのだ。そこは天運。己の普段の行いに賭けるしかない。
我が身に鞭打ち、
――。
床面に手を突き、起き上がった。
両の足を突っ張り、出血による疲労感に否を打ち、魔虫が炸裂して行った方向を見やる。すると、
……無傷とはいかなかったらしいな。
こちらに背を向けたまま、全身から魔力の余波を滲ませている大きな装甲の姿があった。
「……、――」
見れば、突起を生じさせた右腕、そして背の左側の甲殻に、大きく罅割れを生じさせている。
縦に多大な亀裂が走り、まるで谷を刻むようにして内部の繊維じみた肉を覗かせる。突き立つように聳える翼はその基部に欠損を生じさせ、右のもの比べ、左のものは今にも砕けて落ちてしまいそうに安定を欠いている。
リスクはあったと、そういうことだ。だが、
……?
不可解を感じた。
先の挙動、魔虫が己を犠牲にしてまで状況を動かしに来た事自体に違和感は無い。なにせほぼ膠着状態であった上、我輩は虎視眈々と反撃の機会を伺ってもいた。
何かされる前に何かする。敵に時間を与えない。そう考えるのは戦術としておかしくない。だが、
――あちらが何かせずとも……先に音をあげていたのは我輩であろう?
『完成体』の装甲は、今のところ完璧だ。我輩の攻撃は実際通じなかったし、それ以降に至っては機会に恵まれてすら居ない。
つまり、あちらが何かをせずとも、我輩に有効手段は無かった。にも関わらず魔虫はその状況を良しとせず、己を省みずに状況を変えに来たのだ。
考えられるパターンとしては、
――そう考える機能が無い……か?
こちらが有効手段を持っていない。と、言うことすら解らない。だがそうだとすれば、我輩に時間を与えてはいけない、という思考に至るのもどこか不可解だ。だとすれば、
……。
体が、思っていた以上にだるい。足運びを確かめてみても、どこか精彩を欠くと言わざるを得ない。
疲労の蓄積か、脇腹のダメージか。それとも出血が想定より多くなってしまったが故か。
どれにしろ、余り我輩には時間が無い。時間を稼いで勝機を待つ、というのはもはや現実的ではなくなってきた。
ならば、
……。
決めにいく。そう思うのは、
――貴様もまた、同じであろう?
『完成体』の不意の一撃を受け、吹き飛び、まともな受身すらとれずに床に体を打ちつけた銀髪の『彼女』を私は見る。
そのまま退場かと思いきや、少女はあろう事か立ち上がり、再び構えを取った。
……。
私の背後、学園の空中には、街の至るところで魔力を吸い、なおも満足せずにこの場所へと集った多くの小型魔虫が群れを成している。
数にして数百かそれ以上。ここからは見えないが、学園塔の外壁にも無数の小型がまとわりついているはずなので総数は千を下らないだろう。
だが、
――まだ足りないわ。
今迷宮区を開放したとしても、あふれ出した魔力を中和するには全く足りない。もっと受け皿になる虫を集める必要がある。
それには、時間が必要だ。だが悠長にしてもいられない。何故ならば、
――あの女、何かを待っている……?
装甲が硬くて抜けないのは解る。『完成体』が速すぎて反撃の機会が無いのも解る。
しかし、私の望みが時間稼ぎであることもまた、あの女には理解出来ているはずだ。にも関わらずいつまでも避けて逃げてを繰り返す姿は、どこか勝利に対する執着を欠いてすら見えた。
その結果として、策に嵌り、一撃を受けてさえいる。
あれでは勝機は永遠に訪れない。で、あるにも関わらず、彼女は諦めない。
根性論、でないならばそれは、
――そちらにとってもまた、時間稼ぎは望む所……と?
そういうことだ。それで何が好転するのかしないのか、それは想像しか出来ないが、
――やはり、決着は早めに……!
と、
「……?」
その時だ。
銀髪の少女が、ある構えを形作った。それは、
「……真正面から受け止めるつもり……?」
私は見る。
未だ背を向けて己の破損から立ち直っていない『完成体』に向け、両足を開き、床を踏みしめ、腕を前に構え――その場で踏みとどまる姿勢を、少女が見せたのだ。
――。
意味が解らないと、そう思った。
完成体の膂力も、速さも、これまで存分に見せ付けてきた。必要以上に単調な動きを許していたのも、パワーを大げさに演出して攻撃の意思を削ぎ取るためだ。にも関わらず正面突破など、
――いくら負傷を得ているからって、無謀が過ぎるわ……!
舐められている、と。そうとさえ思える。だが、
「そこまで甘い相手じゃないわよ……!」
私の父が残した、昆虫の魔獣化理論。多くは既存の研究の応用だったが、この個体だけは違っていた。
通常、魔獣の元となる生物に多量の魔力を注げば、多くの場合は耐え切れず自壊する。そこで父はハート家に伝わる再生魔術の一端を応用し、小さな虫を極大進化させる術式をオリジナルで構築していたのだ。
あくまで、平和利用のため。魔獣化のプロセスの解明、及びその防止のためではあったが、
「お父さまの研究が……その人生の一端が、貴女のような小娘一人に劣っていて良いはずがない……!」
私の思いに応えるように。
破砕から立ち直った魔虫が、銀髪の少女に眼光を向けた。
――やはり緊張するな、これは……!
我輩の正面には、嵐の元凶がある。
嵐の名前は魔虫『完成体』。
被災者は我輩一人。
結果として出力されるのは、ミルネシア、と言う名の少女一人分、血と肉の散華である。だが、
……。
それを避けるための覚悟と策は練り上げた。
あとはタイミングと運、そして、
……ド根性!
魔虫の構えは、負傷のためか、やはり少し精彩を欠いて見えた。
我輩を捕捉して既に一秒。無傷の状態であれば既に体を発射していておかしくないタイミングだが、装甲に包まれた身は未だ踏み込みを深くしていくのみだ。
こちらの覚悟を本能で読み取ったか、それとも単に怪我が効いているのか。
……。
解らない。解らないが、とにかく先程と比べても遜色ない特大の一撃が来ることは必至だと思えた。
それを捌き、勝利へと繋げるか、それともただの肉塊と果てるかは、我輩がどこまでやれるかに掛かっている。
覚悟も準備も、全て万端。ならば後は、
……来い!
一瞬、全ての時が止まったかのように静寂が訪れた。
崩された壁から入ってくる風も、魔虫の羽音も、周囲から聞こえてくる砂や瓦礫の崩れ音も、何もない。
やがて、『完成体』の深くしていく姿勢がある一点で止まった。
アスリートを思わせる、深く前傾した、勝負へと至る直前の体制だ。
発射前の砲弾のような、と言い換えてもいい。
そして、
「!」
弾丸は、初速からフルスピードだった。
我輩は敵を見る。
背に爆発を生み、推進と化し、己を発射したその姿を、だ。
銃身もライフリングも何もなく、その威力を決定付けるのは自己の身体一つ。即ち、
「――……!」
速さ。そして硬さだ。
負傷故、破砕した右腕と左の背から装甲の破片がこぼれた。やがて翼だったもの、その片方すら音と共に脱落し、ただの鉄塊と成り果てた。
だが、むしろ軽くなったとでも言うように、彼の勢いは止まらない。
我輩の身を砕く。その事だけを思い、砲弾は自らを鼓舞し、完全なる勝利を謳うため、進む。
来る。
魔虫の武器は、左右に振りかぶり、同時にインパクトを迎えるであろう両の拳だった。
単に硬く、単に速い。それはただただ威力を証明する計算式の根幹たる部分であり、出力される数値は我輩の身を砕くに十分である事だけが確かだ。
対する我輩の武器――十三歳女子の細腕は、余りにも貧弱。
白く、細い。だが、
……これだけは!
全ての動物が、己の領域を我が物顔で闊歩するために持って生まれるもの。
あるものは空を。
あるものは海を行くため。
己と、そして自然の中にある魔力を一定のルールの下に支配し、生きる力と変えるもの。
強化魔術。
人が『技能』と呼び、また昇華させてきたものだ。
……これ、だけは……!
動物が与えられた、生きるための『技能』。そして言わずもがな動物の頂点とは『竜』。それから師事を受けた我輩として、
……これだけは、負けられない……!
もはやタイミングは解っている。故に知覚の強化は必要ない。今欲するものは、ただただ純粋で、まっすぐに思いを通すための膂力。そして魔虫の装甲にすら抗じ得るための硬さだ。
踏ん張りのため足に――否、それすらも今となっては捨て去ろう。全ての力を、持てる魔力を、その届く限りの極致を以て。
拳に十割。もはやそれ以外には必要ない。
――お……!
声なき声も、残った魔力も。持てる全てを力へと変える。意思と矜持。叫びと願い。やがては、この命すら超えて押し届け。
届け。
届け。
果ての先まで、撃ち据えろ。
我輩は、こちらを肉に変えるべく迫ってきた殺意の鉄鎚に向け――。
自らの両拳を、『振り下ろした』。
「……な……!」
接敵は、一瞬で終わるはずだった。
私の魔虫が、正面から力で負けるはずがない。そう思ったが故の、何の小細工も無い一撃だった。
両方向から打ち込まれた力が生む衝撃は、即ちその合計に他ならない。そうなれば生き残るのは純粋に硬い方。あの少女は何かしらの身体強化手段を持っていたようではあったが――その結果が、『完成体』との正面衝突に耐えられるはずはない。そう考えた。
だが、
「……何を……!」
予想と違い、彼女は拳を突き込むことをしなかった。
渾身の力を込めたであろう拳を、迫ってきた『完成体』の両拳に、『上から』叩き付けたのだ。
無論、その衝撃に彼女の体が耐えられるはずもない。繊維を裂く音。果実を潰す音。そして小枝を手折ったような音が風と共に散り、
――!
だが、その渾身は、ある結果をはじき出した。
拳だ。
魔虫が打ち込んで行った砲弾のような拳打の方向を、わずかながら『下に』逸らしたのだ。そして、
――完成体の腕を、そのまま掴んでまとわりついて……。
威力で吹き飛ばされまいとする、悪あがきだろうか。
否、それでも、
「それでも――激突の勢いは止まらない! 衝撃に負けて、弾かれるか砕かれるかするのがオチよ!」
だが次の瞬間、勢いを下へと逸らされた魔虫の拳が、ある物を穿った。
床だ。
学園塔、地上四百メートルの第一展望層。『塔』を形作る円柱部分から円盤状に突き出したこの場所、その床。
打ち抜いた先は、
――しまった……!
空だ。
……成し遂げた!
砲弾のような拳が床を打ち抜いたことで、完成体の爆発的な推進力は大部分が殺された。
普通ならば弾かれて飛ばされてしまう我輩の体も、どうにかその腕にしがみついたままでいられる。
床を穿ったことで生ずる衝撃や破片も、腕にしがみついていれば半分をこの硬い装甲が受け止め、弾いてくれる。残り半分を背に食らうことになるが、そこはまぁ我慢だ我慢。
結果として我輩と『完成体』は、二人仲良く学園上空、四百メートルの空中へと投げ出された。
「……!」
魔虫が、明らかな戸惑いを見せている。我輩の打倒を優先とするならば、腕にしがみついたこちらを引き剥がすなり、押しつぶすなりしてしまえばいい。
だが彼はそれにすら気づかず、呆然を隠せず、ただただ戸惑いを濃く見せている。
まるで、連れてこられた猫のように大人しい。
……やはり……!
戦闘開始時、この魔虫は似たような反応を見せたことがあった。即ち、初撃を我輩が回避してみせた直後だ。
――その時、こいつはまるで状況を判断出来ていなかった……!
我輩はそれについて、誕生したて故のバグのようなものかと思っていた。
実際、その直後にはもう『完成体』はこちらを捕捉出来るようになっていたのだ。それ以降はもはやこちらを見失うこともなく、攻勢を渡す事もしなかった。
――ならば初撃のアレは、何だったのか?
バグを解消したか、、あるいは学習かと、そうとも思った。
だがそうであるならば、我輩を探すことにすら学習が必要な虫ケラが、後半、何故戦術を変えてまで決着を求めに来られたのか、という疑問が生まれた。
――考えてみれば、魔虫に自ら考え動く自我など生まれ得るのか、そこに疑問を持つべきだった!
多くの魔虫は、簡単な指示、あるいは本能によって機能する。
通常の個体においては食事を優先し、そうでない個体にしろ、『目標』を定めて食事をさせる。その程度が関の山だったはずだ。
この個体、元は『中型』としてレティシアの指示を受けていたこいつだけ、例外なのかと思い込んでいた。否、
――お父さまの残した研究の、最終段階。完全自立型――。
その言葉によって、そう思い込まされていたのだ。
――街で襲ってきた『中型』に関しても、その行動にはレティシアの意思が介在していると、我輩はそう予測していたではないか。
つまり『完成体』とは、ただ硬く、ただ魔力を多く蓄えている、というだけの――奇形魔虫に過ぎない、ということだ。
出来る事といえば、食事を求めることだけ。即座に我輩を捕捉することも、破損を厭わず戦術で以てこちらを殺しに来たことも、全て、
――レティシアが指示を送っていた、というだけの事……!
故に、
――術者から離せば、こいつはただ本能に従うだけの、木偶の坊に過ぎない!
落ちていく。
勝負は、落下と同時に結実した。
「七分、と言った所かしら。お早いお戻りね」
下に一度落ち、しかし『塔』を登り、新たに生じた床の穴から再び展望層へと戻ってきた我輩を、声が出迎えた。
女性にしては長身で、しかし少女相応の小さな背中。
第一展望層、南側に開いた大きな穴から空を見上げるレティシア・ハートだ。
……落下で装甲の大部分が砕けていたのでな。後は剥がして殴るだけの簡単な仕事だった。
『完成体』と呼ばれていた魔虫は、四百メートルの落下に耐えられる構造をしていたなかった。
あるいは魔力の爆裂を着地の瞬間に用いる事が出来れば違っていたかも知れないが、あれはそこまでを自分で判断できる能を与えられれていない。
故に、後は簡単だ。砕けた装甲の山の中、這い出て来るように蠢くその命に、引導を渡してやるだけだ。
ただ、魔獣とはいえ無抵抗の生き物を何の工夫もなく殴り殺す趣味は我輩にはない。なのでその後は丁度良いタイミングで追いついてきたモルガナに任せてきた。
『えっ』
という快諾を貰ったが故、こうしてすぐさま展望層まで戻って来られたと言う訳だ。
「ていうか、貴女、四百メートルの高さから落ちても平気なの?」
……実は少し自信が無かったのだが……まぁ、なんとかなった。
猫なので。いや実際猫だったらどうだっただろう。解らん。
「……ふざけた人」
我輩に背を向けたまま、レティシアがそう言う。
その向こう側の空に集いつつある魔虫郡は、もはやその総量を計り知れない程になりつつある。
外から見た限りでも、学園塔の外壁を埋め尽くす程の小型魔虫がうごめいていた。千などという単位はとうに超えているだろう。
……魔虫を引かせろ。『超竜種級』を作った貴様の指示があれば、街でたっぷり魔力を吸ったヤツらがこの塔に集まる理由は無くなる。時間はかかるかも知れないが、やがては全て森に帰るだろう。
既に相当な被害が出ている故、改めて討伐隊を送ることにはなるだろうが――魔獣も、魔虫も、一定数ならば食物連鎖に計算される『野生生物』だ。必要以上の数を殲滅するような事態にはならないだろう。
「……そうね。ここらで幕引きかしら」
言いながら、レティシアがその場にへたり込む。背中側から、しかも逆光の中での座り姿であるため、その表情は伺い知れない。
彼女は魔術師としての『切り札』を用い、それを打倒された。
多くの魔術師は、己の術式が最高のものだと信じている。
かつての大戦時、魔術師同士の一騎打ちに敗れることは、それまでの研究の否定と捉えられ、侮蔑の対象になった。故に今でもこの業界において、切り札を無くしてからの悪あがきは最も醜い行為だとする風潮がある。
だが少女は、、
「……と、でも。言うと思った?」
振り返った表情には、笑みがあった。
目を見開いた、生気ある、しかし正気を感じさせない笑みだった。
……やはり、諦めないのだな。
解っていた。ここまでの事をやらかしたこの少女が、この程度の事で己の考えを引き下げる訳が無い、と。それに、
……切り札は……犠牲になった魔術師は、一人ではなかったのだな。
気が付くべきだった。魔術師の基本はツーマンセル。戦闘系も研究系も、それは変わらない。いやアーカム違っていたが。
それに、感じていた。否、正確にそれを捉えることが出来るようになったのは、ほんの数分前からなのだが――。
「……どうして解ったのかしら」
言うや否や、塔から南に見えるセントリーエル大森林――『祭壇』や魔虫たちの故郷がある森――、その中央部が、突如として隆起した。
木々を押し上げ、莫大な量の土と草を瀑布のように押し流しながらその背を空へとかち上げたものは、
「……先のものは竜に似たフォルムだったけれど、これはまるで船ね。私の切り札、第二段」
遠すぎて縮尺がわからないが、先のものと比べても遜色ないサイズの魔獣が、そこに降臨した。
千メートルクラス。『超竜種級』。
ローランが倒した個体と似たような『砲』を放てるのであれば、数時間と掛からずこの街を平らに出来るくらいの性能はあるはずだ。
……第一弾を打倒した青の古竜は、我輩の再生魔術で召還したものだ。
故に、
……もう一度同じことを繰り返すのみだ。問題はない。
これははったりだ。あそこまでの物をもう一度出す魔力は残っていない。
だがレティシアは、
「もう一度同じものを出す魔力が残ってるの?」
『ていうか君まだ魔術使えないだろう』
図星を付くんじゃない。
「……ま、どちらでもいいわ。もう」
金の波髪を風に流しながら、少女が言う。
「貴女があれをもう一度呼べれば私の負け。そうでなければ私の勝ち。それだけの話よ。……どちらにしろこのままじゃ私、術師団に捕まって、悪ければ極刑。良くても数年後には『限界』が来るんだし」
彼女の命は、どうであれ数年以内に尽きる。故の達観。
……追い詰めすぎたか。
「そういうことね」
言いながら、レティシアが立ち上がる。昼へと変わりつつある日を受けつつ、我輩の方に体ごと向き直り、
「さあ。あの新しい『超竜種級』をどうするの? 私を殺せば制御を外れるかしら。でも、まだ食事を終えていないアレが私との魔力リンクを切られれば……どうなるかは想像に難くないわね?」
……はったりを。
「試してみれば?」
言う間にも、穴の向こうでは、森の上空へゆっくりと船型の『超竜種級』が飛び上がっていくのが見える。
やはり、大きい。先の竜種タイプに比べ手足や尾の稼動域が少ないが、その分高速型だと思われる。羽だけが相応に虫に近い造りをしているのでやはり魔虫の一種なのだとは解るが、船だと言われればそれもまた信じてしまいそうだ。
それを見た我輩は、瞳を軽く伏せ、
……やはり、覚悟を決めるしかないか。
「……覚悟?」
そう、レティシアが我輩に問うてくる。
……そうさ。我輩、このような体になっても……どこか、元に戻れるつもりで居た。元の自由きままな、ただ日々を安穏と消化する生活に戻れるのではないかと。……それを完全に捨て去る覚悟だ。
覚悟は決めたつもりでいた。だが、どこか楽観してもいた。
自分は、どうであれ、何か奇跡的な方法を使い、元の姿に戻れるのではないかと。
レティシアから術式の仔細を聞けば、その方法を得られるのではないかと。
事態は、そんな段階には無かったというのに。
……。
だが、それもここで終わりにする。
何故なら、先ほどローランの魔力を間近に感じたこと、そして度重なる魔力行使によって、この体はもはや――『我輩の魂を、完全に受け入れてしまった』のだから。
戻る場所は無い。否、強いて言うのであれば――。
――帰ってきて下さいますか?
帰ろうと、そう思った。
だから、
……ローラン! 今、我輩は『継承』するぞ! 全てを!
言うや否や、
……!
黒の光が迸った。
かつて、竜が支配する世界があった。
人と共にあり、暮らし、神として君臨する一方で、営みを支えていたのもまた竜。
竜と世界は、一つだったのだ。
だが、心無い人々によってそれは失われた。
竜の力は大きすぎたのだ。世界を保つ力は、しかしそれ故に世界を壊す、と。
結果として、竜達は人間により打倒され、姿を消した。
それは『表向き』だけの事ではあったが、少なくとも『竜の力』は人間の世から失われたのだ。
自分達は、もう人と関わるべきではない。それが『十二竜』の出した結論であった。
だが彼らは、それでも己の役目を忘れてはいなかった。
世界を護る。竜脈を護る。その先に座する――人類を守る。帯びた使命。それだけは、何としても果たさんとしたのだ。
そうして残されたのが、『血族』。竜の血を残すもの。
その片鱗を、振るうもの。
『骨』。『肉』。そして『魂』。その三つを竜に染め。
もっとも旧い時代の魔術を自在する。
名を、
――『竜魂の柱』。
竜と人とを、繋ぐ者。
『柱』とは通常、太古より『竜』の血を受け継いできた一族――即ち、『血族』の人間が成るものだ。
その体は元より竜。加え『魂』を竜化するための修行や瞑想を行い、必要であれば絶竜による調整を受けて覚醒する。
だが我輩は、元はただの猫だった。
今代の『血族』が喪われ、その代わりとして修行を受けたのだ。魔術の訓練。理論の勉強。動物には存在しない『魔核』の構築。それらは正しく『竜化』のプロセスとして機能し、次第次第に、我輩の『魂』を『竜』に染めていった。
生きるために必死だったのだ。故に我輩は己が『何』になろうとしているかを知らず、ローランの師事を受け続けた。
そして二年が過ぎようとした頃、我輩は自らの体すらもが『竜』になり始めていることを、ようやく自覚したのだ。
逃げた。
怖くなったのだ。我輩が、我輩でなくなることが。
愚かと思うものもいるだろうか。惜しいことをと嘆くものもいるだろうか。何せ竜だ。最強存在。うらやむものもいるだろう。
あくまで『存在』を竜と化す処置だと、ローランは言っていた。姿形までもが竜になってしまうことはない、と。
だが違う。我輩が我輩である事。それは、我輩にとって何よりも優先すべき事柄だったのだ。
故に、逃げた。成りも振りも、構わずに。
あの男は、別にその事実を隠していたつもりはなかっただろう。思いもしなかったのだ。生物として優れた形になれることを、まさか拒絶する存在があるなどとは。
……。
今にして思うのは、ローランが何故我輩を選んだのか、という事だ。
何せ猫。人ですらない。『血族』の代わりを探すと言っても、元が人間だったならいくらか楽だったはずだ。我輩と違い、それならば『魔核』は最初から備わっているのだから。
彼の元を去ってから一年、もはや幾度目になるか解らない自問自答。それに対する答えは、いつもこの仮説に帰結する。
……そうしなければ得られないものがあると、あの男は信じたのだ。
我輩でなければ出来ない事。単に『体』と『魂』を竜と化した『だけ』のものには決して辿り着けない場所があると、そう意図した故の結論だ。
その結実として、まあ色々と紆余曲折ありつつ、我輩は今、ここに居る。
……二度とその名を唱えることはないと、そう思っていたのだが。
竜魂の柱。原初の魔術を使うための器。必要なものは、『竜』と化した『体』と『魂』。
体を『竜』と化すその前に逃げた我輩に、そうなる機会はもはや訪れないと思っていた。
だが、今、ここに。
悠久の時を経て受け継がれてきた『血族』の体と。
絶竜の力を受けて変容した『魂』が。
一つ所に収まり、まるでその羽化を望むかのように存在している。
運命か、偶然か。そんな難しいことは我輩にはわからない。猫なので。
だが。
せっかくなので。
……この街くらいは、救ってみせようか。
変化は、すぐに現れた。
「な、に……?」
赤の縁取りを持つ、光で出来た黒の紋様が空中に現出したのだ。
蛇のようにうねり、左右を対象に描いたシンプルな図柄だ。それは風を抱き、音を立てながら、我輩の額から三センチ程浮いた位置に正しく確定する。そして、
……!
それは己を伸長しながら、次第次第に全身へと巡っていく。最初は頭上から。頬を通り、首を過ぎて服の中へ。蜜を垂らしたような速度でゆっくりと体を這っていき、やがて足先までを覆いつくした。
まるで蛇を模した紋様が、鎧として全身に合致したような感覚だ。
そしてそれら、黒の色は、
「!」
鼓動を一つ打つ。すると、
――。
降りてくる。
肌上に浮いていた黒のライン全てが、合一を求めて我輩の体に収まりに来る。
描くのだ。
肌に降りるのと馴染むのとを一セットにして、完了した先から赤の縁取りが消えていく。
それはやはり頭上から足先までを順番におこなって行き、全てが終われば、
「魔術……刻印?」
レティシアが放心のまま言ったそれは、術式を補強するための図形の名だ。それに似た黒の輝きが、肌上を浸していく。
うねり、左右一対の蛇を模した絵柄が我輩の額に乗った。
伸長した線分が頬を通り、その途中で猫の髭のような分岐を描いた。
腕には巻きつく動きで、しかし時折直角に折れて。足には風を象るような曲線の集合が現れ、確定し、描写された。
服の下はすぐには確認出来ないが、きっと似たような物が現れているだろう。
これは、これらは、
『「継竜の紋章」。力を振るうための準備と、その証』
ローランの声が頭の中に響き、そして終わりを告げるようにして風が全てを攫う。
一息。だがその後には、何も無い。
ただ、南から来る『超竜種級』の大質量、それが立てる大気の切り裂きだけが響いている。
……変身シーンのような趣味全開の何かが展開されたようだったが。
『君オチ付けなきゃ死んじゃう人?』
「何、よ、それ……!」
レティシアの驚愕が、瓦礫だらけの展望層に反響する。
我輩と、彼女。二人だけの場だ。大穴から見上げる小型魔虫が警戒からか一斉に羽ばたきを強く打つが、もはやそれらは敵ではない。
文字通りの意味だ。何故なら、
……行け。
命じた。
魔素を投じる先は右腕の腕輪。即ち、再生魔術だ。選択するのは虎型、『夜寄せの主』。目的は撃破。位置は空中。そしてそれは、
「!」
瞬間だった。
レティシアの驚き顔を挟んだ向こう、南の空に飛んでいた数百という単位の小型魔虫に、変化が生じた。
まず起こったのは黒の色。
上から下へと、まるで通りすがるかのような気軽さで、二メートルサイズの黒色が無数に空を走り抜けた。
無論、そのシルエットは虎の形を模す。数は魔虫一匹につき正確に一色ずつ。
総計にして、数百を下らない。
「な……!」
空中に突如として現れたそれらは、己の担当範囲に浮かぶ三十センチ大の魔虫へと、視認と同時に食らい付きを行った。
上からの振り下ろしであるため、速度は全て重力任せ。射出のオプションは必要ないので省略だ。
牙が全てを貫き、音は数百の連なりとして一つの重奏となる。
蹂躙だった。
私は、信じがたいものを知覚した。
同時だ。背後に空中展開していた小型魔虫が、全て同時に反応を失った。
そんなことがあるだろうか。否、竜種の『砲』相当の魔力放射があれば可能かも知れない。だが現状該当するものは存在せず、ならば何が、と思い、背後の空へと振り返った。
虎だった。
「な……!」
否、それは虎型の魔性生物だ。戦闘に使うものとしては希少ではあるがメジャーなもので、その全身骨格ともなればオークションで結構な金が動いたりもする。
それが今、数百と飛んでいた小型魔虫を一匹一体を担当して噛み砕き、残骸を宙へと吐き出しながらまた空中に消えていく。
存在していたのは二秒にも満たない時間だ。
だがその成果は絶大だった。
残るのは、砕きが起こした残響と宙に消えいく黒の魔力光。そして視認出来ない範囲から遠く聞こえてくる、未だ無事な魔虫の羽音だけだ。
「ど、どうし、て……!」
混乱が脳内を支配し、正常な判断を阻害する。
否、どうして、などと言うのは解っている。ミルネシアがやったのだ。気になるのはそこではない。そこではなく、どうやって、と、そう思い、しかし想像だに出来ずただ歯噛みして、
「……っ」
再生魔術は、生物の『骨』から『生前』を再現する。それは基本的には、一つの骨格から一体だけ、だ。
そのルールを破るには、
「複雑で煩雑な、それ専用の魔術刻印が必要になるはず……だけど!」
有り得ない。
「その腕輪のサイズなら、一部しかない骨を『全体』だと誤認させるので精一杯のはず! 否、そうでないとおかしいわ!」
そうでなくては、何でもありだ。世の再生魔術師が、何のために大枚はたいて全身骨格を手に入れるというのか。
疑問は、風として音を届ける。意図せずそれは叫びと呼ばれる音調になり、
「貴女、何をやったの……!」
話は簡単だ。だから我輩はそれを論じる。隠す意味は無い。
……この腕輪には刻印を余分に彫るスペースは無い。だが……これ自体が刻印としての役目を果たすなら、話は別だろう?
「そ、れは……」
……素材、製法、色、形、サイズ。リングの数や穴の位置。果ては我輩の体の動きや視線の向きまでを魔術的に捉え、それを『刻印』として代用し、補助運用する。即ち、
「形質魔術……?」
……解ってるじゃないか。
「有り得ない!」
レティシアは叫ぶ。何故なら、
「貴女、再生魔術を使うなら魔素系統は『黒等』でしょう? 何より、ミルネシアがそうだったもの!」
だったら、とレティシアは言い、
「人間の魔核には、努力や練習ではどうしようもない『色』という縛りがあるわ! 例えどれだけ修練を積もうとも理解を深化しようとも、有機物を扱う『黒等』の魔術師が概念を扱う『金等』の魔術を使う事は有り得ない! だってそうでしょう! それが出来るなら、魔術はもはや何でも有りの……!」
彼女はそこで一度言葉を切り、何かを考えるようにして俯きを作り、
「何でも……万、能……?」
……。
気付いただろうか。まあ、そのくらいは思い至るか。
我輩は体から新たな魔素を生じさせ、それに新たな命令を下していく。
色は、『無い』。否、正確にはあるのかも知れないが、それはただ光という漠然とした現象として表現される。
白にも似て、金にも似て。しかしそのどちらでもない色彩は、強いて言うなら朝日のそれが最も近い。
ただそこにあるというだけの魔力。魔核というフィルターを通した上で尚変容を見せぬ、その輝き。
全ての魔術は、『ここ』から派生し、『ここ』へと収束する。
……。
風よ、との呟きは口の中だけで行われる。
即ち、現象魔術だ。
通常における系統は『銀』。周囲の自然現象を構成する『粒子』への働きかけを行う、間違うことなき上位魔術だ。
だが、不慣れもあってか出力が足りないようだ。故に我輩は、生じたばかりで不確かに巻いて轟く大気の流れに、新たな魔力を注ぎ込んだ。
物体や現象に魔力を注ぎ、強化、あるいは変容を促す『付与魔術』。これは無機物へと改変を掛ける『白等』魔術の領域だ。
成す。
それでも足りない分を、また形質魔術を使い、刻印を風の動きや腕輪の構成の中に見出し、追加する。
かくして爆発する前のような、大量のエネルギーを抱き込んだ『風』の術式が我輩の手元に成立した。それを、
……。
壁の穴から外へと投じる。
途端、
「!」
爆ぜた。
嵐が起きる。
『塔』の周囲を巻き、その全てを洗って一箇所へと集約する、そういう指示をした局地の災害だ。
そうして風は我輩の望み通り、爆風を内包しながら『塔』の周囲を一周。
やがて南の空へと戻ってきた風は、複数の影を抱いている。
魔虫だ。
『塔』の壁、あるいは周囲の宙に浮いていた魔虫、目算にして千を越える数を、我輩の視界の届く場所へと連れてきたのだ。
後は簡単だ。嵐は軽く念じるだけでその威容を解かせ、宙に黒色の軍を無造作の動きで放り出す。
それを、
「――……!」
鳴き声と共に下から飛び上がってきた巨大な牙が、閉じる動きで侵略した。
千の虫を食らい尽くす、その命令に相応しいサイズと質量で顕現した『夜寄せの主』だ。体長三百メートルを下らないその姿が唐突に下から現れ、そして、
「――」
食む。
数秒、味わうようにそうして、
「――」
満足したように舌を口元に這わせ、消えた。
魔虫の群れは、泡も残らない。
ただ、大質量が失したことによる、暴れの風だけが残っていた。
だが、それで終わりではない。まだだ。まだ、こちらへと向かって飛んでくる船型の『超竜種級』が残っている。故に我輩は、
……。
傍ら、うず高く積まれたようになっている、瓦礫の山へと手を翳した。
我輩の魔力を受け、その堆積が指示を受けて動き出す。まずは全ての構造が一つ所に集まり、砕きと音を伴う衝突の連続で一つの岩塊へと変じていく。
だがそこで終わらないのが、『白等』、錬金魔術の本領だ。
出来上がった大岩は、見えないハンマーで叩かれているかのように、時に砕け、時に伸ばされ、時にまた周囲の欠片を取り込みながらその姿を変容させていく。
「……今度は錬金魔術……? いえ、違う。これは……」
レティシアが、呆けたように呟いた。
……そう。これは……。
全ての魔術は、かつて一つの魔術だった。
全ての魔術は、やがて再び一つへと集約されていく。
御伽噺だと笑う者も居るが、これは伝説でも、ましてや神話でもない。
歴史だ。
現象魔術も、再生魔術も、錬金魔術も聖性魔術も形質魔術も重力魔術も生命魔術も付与魔術も。全ては、魔力を通して動くものであることには変わりない。
それが人の身に渡る過程で分割され、更にはいつしか人の枠の中での得意によって、いくつもの魔術に分化していった。
元となった竜の魔術の名は、
「『精霊魔術』……全ての魔術を内包し、その元となった、万能魔術……」
魔力により万象の一切を司る、十二の竜のみが使う事を許された本物の魔術。
原初の超常。
人が成しえぬ逢魔の技。
精霊魔術。
……そうだ。この紋様、『継竜の紋章』は、その使用の一切を容認する。
骨。肉。魂。その全てを『竜』に染め、人の歴史を脅かす『災禍』が訪れた時のみに現れる、最高の魔術の使い手。
かつて人の世において大きすぎる力であると断じられ、危険であるとさえされた竜の力、その片鱗。
『精霊魔術』を使う者。
それが、今の我輩なのだ。
……。
我輩は、岩塊を操作する右腕とは別の方、左腕を掲げた。
その肌に刻まれた『継竜の紋章』が持つ黒のラインを見る。
……やはり、か。
そこに描かれた、精霊魔術を容認する『証』たる『紋様』。
それが宙に浮き上がり、消滅しかけているのだ。
……。
最初に生じた時と似たような赤の縁取りを輝かせながら、肌から剥がれ、その縁先から大気へと還元されて行く。
……時間制限か、我輩の未熟故か。これほどの力はやはり、そうそう振るえるものではない、ということか。
時間が無い。故に我輩は、岩塊の構築に意識を集中させた。
魔力を投じ、その性質と強度を変化させながら、形を整えていく。そして、
……よし。
全長十メートル、高さにして二メートル。太く長い体を持つそれは巨大な蛇にも似ているが、
「……竜?」
口があり、牙が覗き、波刃のような鋭さを持ち表面を走るものは背鰭だ。
よく見れば、短いながらも四足が生えているのも解る。大地から力を吸い上げるための足指はそれぞれ十二本ずつ。合計で言えば四十八もの数が、根を張るようにして備わっている。
レティシアの指摘通り、小型ではあるが『竜』として過不足無い姿がここにあった。
とは言え、無論本物ではない。精霊魔術をフルに使い、『それらしい』塊に『それらしい』性能を持たせただけの、一時的な成立だ。
体の基本構成は岩。だが生成段階で構成物質に変異を加えたので、崩れた岩肌の隙間からは黄土色をした生体の鱗が覗いている。
流石に魂はどこからも引っ張ってこれないので『腕輪』の中の近似生物のものを『再生』して突っ込んでみたが、
「――……」
岩で作られた竜が、腹に響く太鼓のような唸りを響かせる。
……うむ。
「……」
我輩の身長程もある岩顔が、目を細めながらこちらに擦り寄ってきた。ごりごりしている。
……ああ、よしよし。いい子だ。我輩が母だと、そういう事なのだな。よーしよーし、ステイステイ。
『これ盛大な一人芝居なのでは』
再生魔術自体がそういうものだろうが。これは違うが。
「……それ、は……」
……いわゆる、『地竜』と呼ばれる種だ。一応原生生物なのだから、覚えはあるだろう。特性は竜としての『頑健』と、大地を父とする故の『竜脈接続』。つまり……。
地竜が、改めて四肢を床面に突きたてた。
体重だけが理由ではない、『大地』に由来するゆえの振動が『塔』を、あるいはセントリーエルの街自体を揺さぶった。
重く、しかし破壊や砕きを招かない、ただただ『生じた』だけの激震が太鼓のように腹を打ち、優しく収束する。
各十二本、計四十八にもなる足指は、『父』と繋がるための専用の接続器だ。それぞれが床の色へと溶融するようにして繋がりを得て、空にあるこの展望層からでも問題なく魔力を吸い集める。
対象は無論、『塔』の地下にある竜脈。そして、
「……既に流出してしまった魔力流すらもかき集めているの……?」
無論、全てとはいかない。変異済みの植物や動物を元に戻すには別の手段が必要だし、大地に浸透した魔力は『吸う』だけでは除去し切れない。
だが、表面を走っていた不可視の魔力流自体は、全て吸収出来るはずだ。それが成されれば、後は我輩が再び『今の塔の形状と状況』を形質魔術で捉えて『陣』として成立、既にある『蓋』の魔術をもう一度確立させればいい。
……精霊魔術便利すぎないか。
『あまり偏って使いすぎるとやっぱり得手不得手が出てくるよ。そう――僕のようにね』
偉そうに言うな。
やがて、溜まりきった竜脈魔力が地竜の体内にて踊り、そして咀嚼されるように鼓動を打った。
「――」
竜の口に、光が宿る。
色を持たぬ、魔力の光だ。陽光にも似たそれは全ての魔術の祖たる精霊魔術、その行使を示す輝きの一光。
全長十メートル、岩と鱗で出来た竜型の砲門は、真南を向いて存在を確立させた。
それは即ち、セントリーエル南部にて『塔』へと進撃を開始し、大気の裂き音を轟かせる船型の『超竜種級』へと向けて、だ。
だが、
……。
レティシアが、その眼前に身を躍らせた。
「……!」
地竜の口と『超竜種級』を結ぶ直線上の空間だ。背後に壁穴を置き、その更に向こうへ巨大な船型の姿を見せ、金の波髪が踊らされるように風に揺れた。
手を広げる。
守る、と、そういう意思を持った構えだ。
……何のつもりかは解らぬが。
もはや我輩の勝利は揺るぎ無い。が、あの『超竜種級』を放っての結末はありえない。故に、
……容赦はしないぞ。
視線を送る。だが彼女は怯みもせず、
「……その必要があるかしら?」
啖呵を切り、そしてレティシアは言う。
「私は、覚悟を見せたわ。そして絶対に……諦めない」
……それは間違った覚悟だ。
どちらにせよ、いずれ自分は死ぬ運命にあるのだから。
未来を諦めたが故、彼女は全ての障害に対し、その命を投げ出してでも、諦めない。
諦めたからこそ、諦めない。
だがそんな覚悟は間違っていると、そう断言出来る。我輩は彼女の眼をまっすぐに見つめ、しかしそこに宿る光はやはり、
……折れぬ、か。
もはや彼女に手段は残されておらず、それでも、
「ええ。絶対に、ね。故に」
……それを折るためには……。
我輩も、覚悟を示さねばならない、と言う事だ。
だからもう一度言う。
……容赦はしない。
そして、
……貴様もそうだろう?
「……勿論よ」
一閃した。
閃光は、細く、しかし先太りする光条として高空を斬り焼いた。
灯台の光のような、音を伴わない照射が『塔』の展望層から迸った。
瞬きを放つフラッシュのように、あるいは強めの投光術式の暴発のように、それはセントリーエルの空を鮮烈した。
一瞬だ。
何かが光り、それは光源を北に持つもので、南へと走ったのだと、そう誰かが感想した。
それだけだった。
光は、竜の『砲』に比べれば細いものだった。だが、光の照射として放たれたそれは後へ行く程太くなり、セントリーエル大森林の上空にたどり着く頃には直径数百メートルを越える光柱になっていた。
船型の『超竜種級』の全身が白の光に銜え込まれる。咀嚼の時間は瞬きの間にも満たず、それは音を誰かに届けるよりも遥かに早く大質量を嚥下した。
飲む。
一瞬だ。
まさしく、一瞬の出来事だった。
焼き音が、全てが終わった後に付いてきた。
空気を焼く音。周囲の大気を飲む音。大質量を焼失させる音。
だが、それだけだ。
後には、何も残らない。