第十一章 災禍の顕現
セントリーエル交易都市は、早朝から大混乱に見舞われていた。
東の空が明るくなり始めた時間帯。中型と『鎌持ち』を含む千体弱の魔虫出現の報告は、即時、街で待機中の常在部隊へと届けられた。
それにより、まずセントリーエル南区の、南門から学園区へと至るヴィーオン通り沿い約九百世帯と千二百の商店が避難命令の対象となった。魔獣の目標が『塔』の地下、竜脈から供給される膨大な魔力であると目されているからだ。
元々、森林での討伐作戦に先立ち、住民・及び商人には、外出制限と限定的な出店規制が掛けられていたこともあり、これは完了までそう時間は掛からない見通しになった。
また、それ以外の都市全域においても、南門からの距離によって段階的に警戒レベルが設定、順次避難指示が出されていく予定が組まれた。伴い、騎士団・及び『塔』出身魔術師による魔術師商業組合からも人手が割り振られ、それぞれの流れが始まりを告げていた。
セントリーエル交易都市は、早朝から大混乱に見舞われている。
祭壇のある広場から森を抜けて街へと向かうのであれば、無論、来た時とは逆順を辿ることとなる。
即ち、下り道だ。
脚、及び全身の循環系に魔力を流し込んで強化とする。『技能』と呼ばれる技術の発現は、呼吸の切り替えにも似て即座に行われるものだ。
向かうのは音の響く方、最短距離だ。討伐部隊とぶつかる魔獣群、その背後から戦闘に加わり、彼らを手伝いつつ『術者』を探そうと、そう目的を設定し、駆け足を早くする。
行く。
体力は温存。しかし足運びは正確に。重心が前に寄り下草や土が足元を掬おうとしてくるが、ほとんど飛ぶようなステップでそれらを回避していく。
……。
速度は我輩の銀の髪を、風の流れに等しく乗せる。
高速だ。
と、
――。
気配を感じた。
きっかけは、風だ。我輩が持つ速度とは異なる響きが、先ほどからこちらの左後方に追随するように付いて回ってくる。
こちらも速いが、あちらも速い。また小型の魔虫だろうかとも思う。が、こちらの疾走にぴたりと着けるように、寄せて離れてを繰り返すのは間違いなく知性ある動きだ。
何者か、と思い、だが、
「――……!」
我輩が走る森中、その前方右側からだ。突如としてこちらの軌道に対し、直角で割り込みをかけてきた巨大な影があった。
虫型の魔虫、両腕に刃を携える姿は三メートル強。
『鎌持ち』と呼ばれる個体だった。
――!
その飛翔には、枝も木々も関係がなかった。ただ己の進撃上にある全てを鎌に進化した前足で砕き、切り裂き、潰して飛ばしながら、尚も前進を望む。
繊維を千切る音で樹木を切り飛ばしながら、その巨体がやがて我輩の前方へと飛び込んでくる。
翅を震わせ、姿勢を制御。体をほとんど真横へと傾けてドリフトのような軌道を取りつつも、その視線が我輩と正しくかち合った。
目が合う。そして、
「――……!」
きゃあ、と聞こえる金属音を双の翅からかき鳴らし、爆発するように巨体が舞った。
我輩に対する、正面からの切り結びだ。
……来る!
夜が明けつつあるので、『夜寄せの主』は一度分解して魔素として取り込んである。即座の射出は可能だが、
……あの勢いならば、防御ごと持っていかれそうだな……!
ならば、と、我輩は右腕にはまる腕輪に意識を送る。
だがその前に、
「!」
またも突然の動きだった。
こちらに対し、腕鎌を交差させ鋏のようにしながら突っ込んできていた甲殻が、不意に右側へとブレる。
否、吹き飛んだのだ。
……!
攻撃だ。始点は左。威力は重量。切っ先は鋭く、その効果は貫通の一矢。
その正体は、
……氷!
三メートル強の巨体を、似たようなサイズ感を持った氷の円錐が刺し貫いたのだ。
銀色の蛇腹装甲は、氷の先端の一撃を右脇腹へと無防備に受けた。潰れ、ひしゃげ、打ち抜き、逆側へと通るその全ての工程を吹き飛ばし、ただ結果としての炸裂が、黒の巨体を右の空へと投げ飛ばす。
割砕する。
瓦礫が散らばるような破裂音の後には沈黙だけが残った。ただ、我輩が緩めずに持っていた速度だけが、一連の前と変わらずここにある。
走り抜けた。
そして告げる。
……一応、感謝しておこうか。
対する相手は、高速で走る我輩の左に似たような速度で横付けしてきた。
風に乗せる身はこちらよりやや小柄な少女のものだ。疾駆に揺れるのはピンクベージュのツインテール。翻るコートの裾に音を立て、向かい風に細めた目に右手で風防を作っている。
彼女は言う。
「言い方が少し気に障りますが……まあ、受け取っておきますわ。せっかくなので」
しかし何故貴様がここに居るのか。
モルガナ・ジャスティ。
彼女は、黙って走るこちらの横に併走してきた。
移動手段は、例によって風だ。森の中を不自然に抜ける一筋の陣風が、モルガナが通る道となってその身を運んでいく。どうやら先ほどから我輩の左後ろに着けていたのはこの少女だったようだ。
「耐魔力装甲は魔力で編み上げた現象の悉くを無力化しますが、そうでないものに対しては少し硬いだけの甲殻に過ぎませんわ。故に氷ならば、触れる側から水に戻りこそすれ、その威力を殺しきれるものではありません」
……よくある話をよくもまぁそこまでドヤ顔で……。
「うるさいですの。ドヤ顔は生来のものです」
自覚があったのか……と、軽く戦慄した。しかし、
……貴様、何故こんな所にいる? 討伐部隊の斥候か何かか?
モルガナの持つ実力があれば、討伐部隊に志願すれば手放しで歓迎されただろう。良くも悪くも有名人であろうし、『主席』の跡取りということもある。ありえそうな話だ。
「あー……いや、そうですのね、ええ。そんなところですの」
しかし、どうにも歯切れが悪い。まさか、とは思うが、
……迷子か……?
「私微妙に評価低くありません? というか、貴女こそこちらの事は言えないじゃありませんの。こんな夜更けに、こんな森で」
……我輩はトイレだ。少々催してな。人目を遮る木陰を探していたらいつの間にやら大森林に。
「誤魔化されるとでも……!」
だがまぁ、そんなことを気にしている時ではない。目下、セントリーエルがちょっと滅びの危機に瀕している。急がねば、と思うなり、
「――――……!」
遥か右側前方、森の入り口方面から、膨大という言葉が音として追加された。
木々の千切れを、土塊の津波と共に上空へ舞い上げる極大の具現。それは、
……五体目か……!
産声が如き大音声。金属を重ねたような耳に粘り残る祝福は、五十メートル級、中型魔虫の出現だ。
……急がねばな。
何の気なしにそう言うと、
「……まさか貴女、討伐部隊に加わるつもりですの?」
モルガナが、俄かにこちらより先行する。その上で我輩の視界に己を収め、振り返りの視線と共に問いを投げてきた。故に答える。
……相違なく。
「無茶ですわ。というか、意味がありませんの」
……何故? 人手が必要だろう。
およそ千を越えるだろう大軍隊。討伐隊が竜種級を相手取って問題ない規模だとしても、数という有利はそれを即座に翻す。
この状況で新手が追加されれば、街への進撃を許すことにもなりかねない。そう思ってのことだったがモルガナは、
「彼らは、騎士団と魔術師の混成軍。有事には街と住人を庇い、守護する立場に居る者たちですの。……私達が危険を負う必要はありませんわ。任せるべきです」
……道理だな。
だが、
……貴様もまた、護られる立場を不服に思っている側ではないのか?
『主席』の娘。ジャスティ家の長女。未だ学生という立場ながら力を持つならば、それを振るわぬことに燻りを感じて然るべきだ。
「それは、そうですが……」
……そして、我輩は貴様に勝った者だ。力の証明は出来ている。問題はないと思うがな。
「しかし、人には向き不向きというものがあります。数十メートル級の魔獣を御する手立てが、貴女にありますの?」
……無くもない。
「えっ、あっ、そのっ」
……論破されてどうする?
「う、うるさいですのっ。……ともかく、彼らは人を救う義務があり、私達一般市民にはその庇護を受ける権利があります。それを自ら放棄して、何の得がありますの?」
……損得か。
確かにそう言う話であれば、我輩は反ずる論理を持たない。何せこちらにある事情は話す事が出来ないし、そうでなくともこちらの動機は『気に入らん』と言うやや感情寄りのものだ。
故に我輩は少しだけ発する言葉を吟味し、だが、ああ、いや、
――面倒だな。
……実は此度の黒幕を発見した者には『塔』から百億万の報奨金が出るとアーカムが。
「百億万」
……故に、ほら。得だ。問題あるまい。
「百億万」
モルガナが何か言葉を繰り返すだけのドールと化したが、何か衝撃的な出来事でもあっただろうか。
気にせず行こう。
それに、この件に我輩が首を突っ込むのは、何もただ気に入らないから、事情があるから、と言うだけではない。
これは。この事件は。我輩の体がミルネシアのものである事とは、関係なく。
……恐らく、これは我輩がやらねばならないことなんだ。
そう言った。
対し、モルガナは何も言葉を返さなかった。今の我輩の論が理に適ったものであったとは思わないが、こちらから何かを感じ取ってくれたと言う事だろうか。
聡い子供だ、と、そう思う。まあ今はこっちも子供だが。
やがて彼女は、
「よく、意味が解りませんが……」
そう言って、だが納得は出来ていないのだろう、何か歯がゆいものを無理に吹き飛ばすようにかぶりを振って、
「ああ、もう!」
と、モルガナはこちらへから視線を外し、風を操って上空へと身を一度飛ばす。そして翻りながら我輩の背後へと位置を改めたそれは、着いていく、と、そういう動きだ。
……パンツが見えたぞ。
「今言う事ですか!」
今じゃなくていつ言うんだ。言わなくていいか。いやそうではなく、
……何故着いてくる? 貴様こそ避難したらどうだ。一般市民であることはそちらも変わりないだろう。
それに、
……貴様の現象魔術は、どうあれ余りヤツらには相性が良くない。
モルガナは、ふ、と息を吐き、無い胸を張るように不遜を示しながら言う。
「やりようはありますもの、先ほどのように。それに……貴女を差し置いて私だけが避難するわけにもいきません。私に避難を促すならば、貴女が先にそうして下さい」
……ならばそうするか。
「えっ」
……冗談だ。
「こ、この女……!」
人が好い、とはこういう人物のことを言うのだろうか。それとも付き合いが良い、と言うべきか。ともあれ、
「……!」
咆哮が、今度は多重に追加された。先ほどと違い、規模は低いが重なりを持った響きだ。
恐らく『鎌持ち』かそれに順ずるものが複数、追加投入されたのだろう。故に、
……急ぐぞ。
足先が抉る土の踏みしめに、一際の力を追加した。
行く。
「て、速……っ、……もう!」
風鳴りが着いてくる。
私は、力の爆発を以て速度を加えた少女――ミルネシアの背中を見ながらこう思う。
――結局、貴女が何のためにこの事態に首を突っ込もうとしているのかは解りませんでしたが……。
恐らく何か事情があるのだろうと、その程度の事は私にも解る。だが、果たしてそれは何だろうか。
討伐隊の面々にも、勿論それぞれに戦う事情が存在している。それは人によって、魔術師としての知識欲だったり、騎士としての義務感だったり正義感だったり、あるいは金のためだったりする。
また、私が彼女に着いてきたのは何か無茶をしでかさないだろうかと、そんな心配をしたからだ。昼間、大型魔獣を見るその目が、何か尋常でない光を帯びていたように思えたから。
しかし、なんとなくではあるが……この少女に限り、それらの理由は当てはまらないように思う。
欲ではなく、義務でもなく、危惧でもなく。ではこの少女が危険に身を晒す理由とは、一体なんなのだろう。
解らない。だが、
――一つだけ、確かな事がありますわ。
それは、彼女が決して一人で戦おうとするものではない、と言う事だ。
ミルネシアの目的が何であれ、あれ程の力を持つのであれば、一人で戦う方が何かと都合が良いはずだ。預けるべき背中を護る術を持っているのなら、数多の思惑に縛られる討伐隊への参加は、己に付ける枷でしかない。
だが、彼女はそれを許容する。自らそこへの合流を果たし、力になろうとしているのだ。
力があるからとか、得があるからとか。ミルネシア自身は、戦場へ向かう理由をそんな風に言っていたけれど。
――それを、世間で何と言うか、知っていますの?
お人好し、と。そう呼ぶのだ。
全ての木々が高速で我輩とモルガナの背後方向へと流れていく。
もはや、魔獣と討伐部隊の交戦位置も、かなり至近に感じられるようになってきた。
鉄の重なる音。木々の弾ける音。肉を千切る音。装甲を断裂する音。人の叫びも、そうでない者の嬌声も、等しく朝の大気に溶けていく。
森を抜けるまで残り数分かと、そう思った時だった。
……!
強いて言うなら、それは気配だった。
否、その表現は正確ではない。森林の中は、もはや全てが気配に満ちている。
魔獣の轟き。それに恐れをなす小動物。翼を翻す野鳥。風と朝もやに揺れる木々。
その中において、『その空間』にはしかし気配が満ちていなかった。ぽっかりと開いたそれはまるでそこだけを巨大な掌で掬い取り、残った穴に雑に『暗闇』を埋め込んでみたが如く、だ。
絶大な違和感。森があり、大地もあり、しかしただ『生きている』という感覚だけが削り取ったように軽薄だ。
存在するのかしないのか。それすらも淡白。
ただただ不気味。
我輩は急いていた足を止め、その『気配』がある方向へと目を向けた。
進行方向の左側。位置としては、この場から西へ数分、下草を分け入った場所だ。
……。
「ど、どうしましたの、いきなり立ち止まって」
……………………。
予感。兆候。神託などというものを信じる気はないが、これを無視するわけにはいかないと、我輩の直感が人すら殺すような勢いで耳朶を刺激し、揺さぶって来る。
……モルガナ。少しここで待っていてくれないか?
「な、なんですのこんな時に!」
……あるいは先に行って……。
「それは怖いので嫌ですわ……!」
結構刹那的だなこいつ。だが、ちょっとここは譲れない。だから、
……頼む。
「…………まぁ、いいですわ。すぐに戻ってきて下さいな? 私がチビってしまう前に」
こういう感じだったっけかこの女。
そこは森の中、木々が不意に途切れて出来た、広場のような空間だった。
祭壇程に整ってはいないが同等の広さを持っており、開けた空では暁が雲を横から照らしている。人の手の入っていない下草は何に邪魔されることもない賑わいを見せ、その様相は我輩の下半身を覆いつくしてしまう程だ。
目測でおよそ、直系三百メートル。祭壇とは違い自然に形成された空間なのだろう、その円周は木々に縁取られ、歪な形を持っていた。
中央には溜池。色は濁りの強い淀んだ緑色。その周囲にはどういう理屈か草が少なく見通しが良いが、そうして見える限りではそう深くない池だ。恐らく何かの要因で窪地になっていた部分に雨水が流入して出来たものなのだろう。この森の中には、いくつかこういう場所がある。
更にその内のいくつかはローランが「えいやっ」とやって出来たものだが、ここに関しては覚えがないので自然発生だろう。多分。そして、
……。
見えるものがあった。
沈むように漂う朝霧と冷えた大気、朝日が形作る鋭い角度の長い影。
一部露出した地面、枯れた下草、踏むたびにカサリと音を鳴らす蔓のような植物。
藻の緑、アメンボが作ると思しき波紋、水を飲む野鳥。視界に端にバッタか何かの小さな影が跳ねる。猫としての意識が一瞬ピクリとそちらへ反応するが、それは後でいい。更に、
――。
我輩の、正面だ。広場には東側から侵入した形だ。故に、朝日の照らしは背後側から。その光がこちらの影を長く長く映し出し、溜池の畔に立つ『その姿』を指し示すように伸びている。
長いウェーブのかかった金髪を、朝霧に浸すように流した少女だ。頼りない、と表現するに足る小さな背中を覆うのは、クリーム色をしたケープ。その裾から見えるのは学園制服として使われているチェックの入ったスカートで、下に見える脚は黒のタイツで覆われている。
身長は百六十弱くらいだろうか。顔は見えずとも彼女を少女と断じて憚りないのは、ひとえに、その背中が持つ儚げな雰囲気故だ。
「あら」
と、少女がこちらに気付き、ケープの袖を揺らして振り返った。
十五歳ほどだろうか。化粧っ気はないが丹精な顔立ち。歳の割りに凹凸のはっきりしたスタイルは、ケープの下、ブレザーの布地を大きく盛り上げて彼女の魅力を底上げする。
季節に比してみれば厚着だと思ったが、血の気の薄い顔色を見れば不思議としっくりきた。
少女が、その髪と同じ色の瞳を不意に見開き、言う。
「…………驚いたわね」
歌を唄う様子にも似た、遠くへと響く凛とした音色。
何に、とは返さない。そんなものは解っているからだ。
「本当に驚いたわ。貴女……ミルネシアなの?」
……。
何も言わない。何も返さない。今はただ、彼女の立ち位置を推し量ることに懸命になる。
だがやがて、
「……違うわね」
少女が言う。
「違う。違うわ。……だぁれ? 貴女」
誰と言われたからには、挨拶が必要だ。我輩が『何』なのかを示すためにも、入りとして適切なのは『初めまして』だろう。
……お初にお目にかかる。
恭しく一礼し、彼女の名を呼ぶ。
……レティシア・ハート。
彼女、レティシアは、ふ、と笑うように息を吐き、ケープの端を両手で抱くように寄せてから言った。
「……貴女が誰なのかは解らないけれど。……そう、私の魔術理論は間違ってなかった、って事ね」
こちらを見据え、
「人間型の従属体にも、魂を宿らせることは可能。それが今まで出来なかったのは、やはり完成度の問題だった、と」
何やら勝手に納得をして、
「すっきりしたわ。……ミルネシアの魔核は私の魂と相性悪くて適合出来なかったけれど。逆に言えば、たとえ家族でなくとも適合さえすれば総移植の術式は行使可能、ってことかしらね」
一息にそこまでを言い、不意に目と口に弓を作る。
「ありがとう、何処の誰だか知らない貴女。私の理論を証明してくれて。……ああ、もしかしてその体を返しに来てくれたのかしら。でも、それは好きにしてくれていいわよ。もう要らないの」
要らない、と、少女ははっきりとそう言った。そして、
……魂の、総移植。
間違いなくそう聞こえた。つまり、それこそがこの魔術師の最終目的だ、ということだ。
後は『何故』の部分だが、我輩の予想が正しいのであれば、
……要らない、というのであれば、遠慮なくそうさせて貰おう。もとより、我輩に帰る体は無いようだしな。
「……? よく解らないけれど、まあ気に入ってくれたのなら嬉しいわ。大事にしてあげてね、それ」
……だが、こちらの用件は少々違っていてな。
「うん?」
言う。看破してやるつもりで、
……貴様を、竜脈遺跡には入らせない。
竜脈遺跡。現代においては無限の魔力を生み出す永久機関として活用される、古代の人々が暮らし、そして放棄された遺跡群だ。
記録によれば世界に十二箇所あるとされ、そのいくつかは人間の管理下にあるが、いくつかは放置され、いくつかは見つかっていない。
「…………へえ。どうして私があそこへ行くと思ったの? 勘?」
……よく解ったな。勘だ。
言うと、レティシアは不意に表情を消した。だがやがて僅かに口端を上げ、
「ふふ、嘘吐き」
吹き出しながらそう言った。
……貴様が先に言ったのだろうが。
「流しなさいな。甲斐性ってものよ?」
そういうものだろうか。だが、あまり時間もないことだ。我輩は、単刀直入に用件を述べることにする。
こちらが欲した、『何故』の部分。それは、
……貴様の目的は、今の自分を捨てての、健康な肉体への転生。そうであろう?
「……どうしてそう思うのかしら」
レティシアは、今度は表情を変えなかった。薄っすらと浮かべた笑みのまま。だがそれは、ただ変化がない、というだけのものだ。
……別に、それこそただの勘だ。強いて言うなら、我輩にも『そういう』感情には覚えがあったのでな。
「……」
……サクラも、シバも、ダンセルも。我輩には何も言わなかったが……否、もしかしたら皆知らないのか? 貴様の病状を。
ハート家の面々の名を出しても、少女の表情は変わらない。
病弱だが学業優秀な少女。数年前に妹を亡くし、数ヶ月前に両親を亡くした可哀想な少女。生体生成の研究を続け、それをもしかしたら形にしたのかも知れない少女。
全てレティシアのことだ。そして、
……不幸だが、しかし恵まれて育った少女が、何故妹の蘇生など試みたのかと、疑問に思った。
「……家族ともう一度会いたいと思うのは、自然なことじゃない?」
我輩もそう思う。しかしそれは違うだろうと、そう考えた。
簡単なことだ。
……『度を越えた献身』。解るか? 古来より蘇生魔術の成立を本気で志す者が持つ、共通の思想だ。でなければどうして他人の為に咎を負おうと考えられよう? まぁ、一種の病気のようなものだな。
だが、
……我輩が貴様に感じた印象は全くの逆だ。誰にも何も言わずに消えた貴様。誰にも頼る事をしなかった貴様。それは、自分が今から成すことが他者の賛同を得られないと、そう思ったからだ。
何せ古いやり方――生体変換にも手を出した。即ち生贄だ。大手を振って喧伝できる類のものではない。
サクラも、シバも、ダンセルも。家族ですら信用出来なかった少女が最後に目指すもの。
妹の蘇生ではない。家族の復活ではない。それでは『生贄』というやり方にもある種の正当性が生じかねない。そうではなく、彼女が目指したものはもっと後ろめたい事のはずだ。
それは断じて他者への施しなどではなく、もっと利己的な、自分勝手な思想の押し売り。
つまりレティシアという少女が目指した、他者を切り捨ててでも救い出したかったものとは、
……己だ。
自分自身の救済。
古い、病弱な体を切り捨てて、新しい己として生きていくということ。
だが、聞く限りレティシアという少女は、最初からそういう人物だった訳ではなかった。そういう『生』を受け入れて暮らしていたはずなのだ。
そうでなくては学園になど通うものか。新しい魔術の研究になど手を染めるものか。
ならば、『そう』なってしまったきっかけがあったはずだ。始めはそれが両親、あるいは妹の死なのかとも思った。
否、それもあるだろうが、もっとだ。もっと、彼女を暗闇へと突き落とした絶望があるはずだ。
それが何かといえば、もう、一つしか考えられなかった。
……もう、時間が残されていない。近々死ぬのだろう、貴様は。
「…………」
レティシアは、何も言わなかった。何をするでもなく、顔の形を変えることなく、ただただ感情の篭らぬ笑顔を貼り付けて立っている。
我輩は、それを肯定だと受け取る。
……いつ知った?
「…………お父様と、お母様が亡くなる少し前だったかしら。元々ね、幼い頃から察してはいたの。寿命を全うするのは難しいだろう、って。でも大丈夫だった。これまでは。だけど、遂に告知を受けた」
彼女が表情を隠すように俯いた。その両手の握りに力が篭るのが解る。
「でも、楽観していたの。そうは言うけど、きっと大丈夫だろう、って。今までも大丈夫だったんだもの。だけど、そんな中」
……両親が死んだか。
「ええ。悲しかったけれど、それ以上に私は絶望を味わったわ。健康だったお父様とお母様でもこんな突然に死んでしまうのなら、そうではない私なんて、もっとだろう、と」
今自分が生きているのなら、自分はきっと明日も生きているだろう。来週も生きているだろう。来月も生きているだろう。来年も生きているだろう。
そう思っていた希望が、両親の死によって打ち砕かれた。人はいつ死んでもおかしくない。そう言う当たり前の絶望を、現実として突きつけられたのだ。
少女は、生きていたかった。
死にたくなかったのだ。
――当たり前、だな。
「……何故解ったの? 誰にも話してなかったのに。サクラにさえ」
レティシアが病弱だ、と聞いた時点でなんとなく危惧はしていた。彼女が、間違うことなき優秀な魔術師だ、と知ってそれとなく察した。
魔力は、ただそこにあるだけなら毒になる。それと適度な付き合いを持って力と変えるのが、魔術師という能力者たちだ。
その恩恵を『強化』と言う方面により強く現出したものが『技能』持ちとされる者たちであるが、それ程でないにしろ魔術師は基本的には健康で頑健だ。ゆえに術者自身の『病弱』は、魔力運用の未熟に由来する。
だが、その有り余る魔術の才覚ゆえ、制御に異常を来たし、毒をそのまま体に蓄積してしまう例が、稀にある。
それが精霊病。竜の消えたこの時代においてはまずお目にかかれない、奇病中の奇病だ。
治療法は無い。たとえ昔にあったのだとしても、その名すら現代には伝わっていない病の仔細など、『書庫』の竜脈遺跡に残っているかどうか、と言うところだろう。
レティシアの病状は、精霊病の典型例とも言えるものだ。
だが、それは言うなれば後付の理論。我輩が彼女の現状を知るに至ったのには、別に理由がある。
それは、
……さっきも言ったが……死にたくない、という感情には、我輩も理解があるものでな。
転生の魔術。魂の総移植。我輩は『その時』の事を覚えてはいないが、『そう』とまで追い詰められる程の感情とその機微には、不思議なほど得心がいく。
「……?」
少女が、不思議そうな目をこちらへ向けてくる。まあ解らんだろう。別に解ってもらおうとも思っていない。
……ミルネシアの体を用意して、しかし魂と魔核が合致しなかった。それが駄目だったから、セントリーエルの地下遺跡に目をつけたのだろう?
あれら、竜脈を抱く古代都市は、多くの人間には『都市』だと思われているが実際にはそうではない。ある遺跡は居住区。ある遺跡は行政機関、と、一つ一つ明確に役割が定められているのだ。つまり――十二ある全ての遺跡をひっくるめて、一つの『都市』だった、というわけだ。
そして、
……ここ、セントリーエルの地下に眠る遺跡の役割は――『墓地』だ。
言う。
……あそこならば、圧縮空間に古代人の遺体数億体が今も眠っている。あるいは、古代のトンデモ技術で死んだ時のまま保存されてるかもな?
つまり、
……貴様の魂に合う魔核の体を、厳選し放題と言う訳だ。
予測を多分に含んだ推論。だがレティシアの反応を見る限り、そう間違ってもいないだろうと思う。
そして少女が言う。目を伏せ、感情をこちらへと届かせないようにしながら、
「……証拠はあるの?」
……古今東西、犯人以外が『証拠を』なんて言う物語は存在しないのだがな。
「これは物語じゃないわ。現実よ。それに、ほら。なんて言うの? ……様式美?」
ちょっと違う気もするが。
「でも、証拠が無いんだったら放っておいてくれるかしら。貴女の言うとおり、私の目的は転生。長生きしたいのよ。でもそんな、竜脈遺跡に手を掛けるとか……人に迷惑かけるつもりなんて無いわ。それとも、人間の肉体を再生させたことの倫理でも問うつもりかしら?」
……否、貴様が長生きしたいという、それを止めたりはしないさ。ミルネシアの肉体を求めたことも、親族ならば魔核が一致しやすいだろう、という合理的判断だ。理解も出来る。
そう言ってやると、少女は不意に雰囲気を軽くした。だが、
――油断はしていないな……。
機会があれば飛びついて組み伏せてやるに躊躇はない。だが意外な事にこの少女、隙を見せない。
学者肌かと思えば、やはり一介の魔術師でもあるようだ。
「話が解る人は好きよ。そして、だったらやっぱり放っておいて。私こう見えて忙しいの」
そう言って、レティシアは踵を返した。何をしているのかは知れないが、溜池に向き直る。
だが、ここで終わらせはしない。
言う。
……貴様が真っ当な魔術師であったなら、放っておいても良かったんだがな。このミルネシアの体。生成にあたり用意した『素材』。ここまでの完成度だ、さぞや良質なものを使ったんだろうな?
「……」
レティシアが、背を向けたまま無言を寄越す。
ローランは、『生贄』には小動物の死体でも用意したのでは、と言っていた。実際猫であった我輩が巻き込まれている。その可能性もあるだろう。
だが、我輩は別の可能性を考えていた。
……貴様が天才であること。竜脈からのマナを流用出来たこと。それだけでは説明がつかないと思った。あの男はそれで納得していたが……竜と違って、人の魔術はそこまで洗練されていないからな。
つまり、
……貴様、人間を使ったな?
……恐らく、結界術式を管理していた金等魔術師だろう。違うか?
「……そう、そこまで知っているのね」
彼女はそれを、あっさりと認めた。手をケープに隠したまま、背中越しに首だけをこちらへ向けて、
「私、ミルネシアの体を再生する事を思いついたはいいけれど、途方にくれてたの。理論があっても手段が無い。目的があっても、現実がそれを許さない」
だけど、
「ある日のことだったわ。フィールドワークの最中……無論許可を得ての事よ? だけどちょっと道を外れてしまって、祭壇の方へと来てしまって……そこで偶然、結界が消えていることに気が付いたの」
……何?
――結界は、レティシアが消したわけではなかったのか?
考えてみれば、否、考えてみなくとも当然の事だ。彼女がいくら優秀だとはいえその本懐は学園に通う一魔術師に過ぎない。結界魔術師が本職ではなかったとはいえ、『協会』の派遣した金等の魔術師を、こと戦闘でどうこう出来るはずもない。
ならば誰が、とも思うが、関係なく彼女の話は進んでいく。体を横に向け、しかし視線はこちらから外し、
「天啓だと、そう感じたわ。何せ、私の理論を証明するために必要な全てが、その瞬間に全て繋がったんだもの」
……結界魔術師を、その場に呼び出したのか。
生体変換のための生きた素材。莫大な魔力。それらを一度に手にするための機会を得た。
「消えた結界を口実にしてね。私も、チャンスが無ければ諦めたでしょう。機会が来なければ受け入れたでしょう。でも、来てしまった。竜神さまは、魔術の神は。他でもないこの私に、微笑んでくれたのよ」
すまない。その時魔術の神(暫定)は温泉に行っていたのだ。言えるはずもないが。
「おじいさんだったからね、簡単だったわ。あっけない程に。でも彼も本望でしょう? 貴女みたいな美少女に生まれ変われたんだから」
……貴様と同じ顔だろうが。
先ほど、我輩はレティシアの性質を『献身とは真逆』と評したが、これは度が過ぎている。
己の身可愛さに、他者の命を危ぶみ、その体を弄びさえする。その目的はひとえに『己が為』だ。
……貴様、本当にレティシアなのか……?
サクラが、ハート家の面々が、アーカムが。そして誰よりもミルネシアが。愛し、育み、信頼を寄せた少女の姿がこれか。
あまりにもギャップが激しい。
するとレティシアは、は、と口を横に広げた笑みを見せた。
「本当? 本当、て何? 貴女、私の気持ちが解る、ってさっき言ったわよね? その感情には覚えがあるって」
ケープから出した腕を広げ、こちらへ向け、己の主張を通すように、
「元貴族なんて中途半端な家に生まれて! でも立ち居振る舞いは名家に恥じぬものを求められて! でも体が弱くて充分な運動も出来ず、寿命を迎えられないなんて宣告されて! 不公平だと、そうは思わない? 私は生まれる前から奪われてたの。他の人が持って生まれるものを、いくつも取りこぼしていた。生まれた時から、私は今の私であることを強制されていたの!」
……それは誰も同じことだ。
程度の差はあれ、人はいつか死ぬ。その差異に不平もあるだろうが、歴史という観点から見れば誤差みたいなものだ。
「違うわ! 少なくとも私に限っては違う!」
だがレティシアは納得せず、叫び、
「……だから、私も他人から奪ってやるのよ。それでこれまでの人生と、これからの人生を補填する。そうなってようやく平等。ようやっと公平。……最初から奪われていた私にはね? 最初から『持っていた』人たちから、その人生の半分を貰い受ける権利があるのよ。それが道理。それが平等。そうよね?」
……それ、は。
余りにも自分勝手。余りにも利己主義。
だが、その主張の原点にあるものは、ただただ人並みに『生きていたい』という、当然の感情だった。
……気持ちは解る。理由も解る。なるほど、貴様の言う事は道理だな。筋が通っていると、そう思う。
「……ふふ、話の解る人は好きよ?」
……だがな。
興奮した様子で声を荒げるレティシアに、目を向ける。
その時我輩は、どんな顔をしていただろう。どんな感情を持っていただろう。人間の表情の動かし方はいまいちよく解らん。猫も解らん。
だが、その時レティシアが一瞬、たじろいだように見えた。
だからそれを隙として、
……だがな。貴様は確かに、やっちゃいけないことをしたんだよ、レティシア・ハート。
それだけは間違いない。彼女に、どれだけ正当性があろうとも。
その理不尽だけは、看過出来ない。
「……違うわ」
……何が違う。
「やっちゃいけないことはね、……これからするのよ?」
瞬間。
世界が瞬いた。
否、それは鼓動だった。
地面が揺れている。否、それは鼓動だ。大気が殴られている。否、それは鼓動だ。
下草が千切れる。湖面が波紋を生む。大地が割れる。下から上へと、存在感が突き上げてくる。
それは、全て鼓動だった。
……な、にが……!
「もう、解っているのでしょう?」
レティシアが一人、全てが打撃されて振動を生み出す中、こちらに顔を向けたままで冷静に呟いた。その表情は前髪に隠れて伺い知れない。
「今、この森と街を騒がせている魔獣。これらは私が作ったものよ。お父様の研究。魔獣生成のプロセスの解明と応用。平和利用のために綴られたそれらを『こんなこと』に使うのは心苦しいけれど……仕方ないわよね? だって……生きるためだもの」
そして、それらが来た。
魔虫だ。
三十センチ級の小型の虫型魔獣。それが、広場のあらゆる場所から沸くようにして発生した。
溜池の水面、畔の地面、周囲を囲む森の木々、下草、それらの隙間。
時には土の下から、時には水の中から、時には木に開いた虚の中から。
そして時には、何も無い場所から本当に沸いて現れ、数を増やし、止まらない。
波にも似た羽音は、断続する拍手の音に似て全てを祝福する。それはこの溜池広場だけに留まらず、空を仰げば、森のあらゆる所からこれらが湧き上がっていくのが確認出来た。
大群だ。
……これだけの数の魔虫を、どうやって……!
作るのは簡単だ。竜脈が使えたのだから。
十や二十ならば理解も出来る。そういう『パス』を繋いでおけばいい。死体やゴーレムを使役するのと変わらない。
だが、これだけの数を今の今まで悟らせもせずに潜伏させ、使役し、更には一斉に飛び立たせるなど、一再生魔術師の力量ではない。
しかし、それらの疑問には『答え』が用意されていた。
レティシアだ。彼女は、相変わらず溜池の畔に立ち、こちらを見据えて両腕を広げ、
「簡単よ。魔獣の第一欲求は『食欲』。魔力を吸い、己を強化する最も原始的な欲求だわ。だけどそれに次ぐ二つ目の欲求は……なんだと思う?」
繁殖もせず、休息も必要としない魔獣が、己の強化の次に求めるもの。それは、
「より大きく、より強いものに従う、と言うこと。ねえ。私、無駄は嫌いなの。結界魔術師の肉と骨は全部『ミルネシア』を作る材料にしたけれど……人間を作る要素は、それだけじゃあないわよね?」
……まさ、か。
魔術における、生物を構成する三大要素。
骨。肉。そして、
「……その魂は、どうなったと思う?」
「……お父様の魔獣研究は、そのほとんどが既存の研究を、この街の在来種に置き換えて最適化していくものだったけれど……これだけは完全なオリジナルだったの」
それは、
「一定以上の魔獣の出現・変異プロセスの解明とその証明」
鼓動が、一際強いリズムを刻んだ。
揺れ、波紋を刻んでは泡を浮かせていた溜池の水面が、下から莫大な衝撃を受けたが如く唐突に跳ね上がった。
「!」
水を散らし、霧を生み、押し広げられるようにして寄せる波は、全周への攻撃行為に似て全てを洗う。
我輩の下半身が小規模な津波にさらわれ、視界が一瞬、泡と飛沫の白に染まった。『技能』の補助が無ければ、体ごと遠くへと吹き飛ばされていただろう。
……!
両腕を顔に翳し、衝撃に耐える。
やがて見えた視界にレティシアの姿は無く、代わりにあったものは、
……黒。
最初は、中型魔虫だと思った。
あれらは、五十メートルの体が森の中からせりあがってくるようにして現れていた。上にあった木々と土を吹き飛ばし、空へと舞い上がり、金属質な鳴き声を轟かせて主張を止ませない。
それがこの溜池の底から現れたなら、丁度こんな風になるだろう。
だがそうではない。そうであったなら、表れた黒の色は、翼を上に持つ姿であるはずだ。
だが、これは違う。
まるで壁。あるいは塔。
金属の光沢を表面に走らせた、黒色に染まった尖塔だ。
溜池の直径を最大限に利用し、その姿を直上へと突き上げ、それは現れていく。
やがて我輩は、その高さが百メートルに達しようかという段階になってようやく『その事』に気が付いた。
……ま、さか……。
多重に重なる装甲板。横へと突き出した四本の構造物。
赤の光を湛える平行四辺形の窓のようなものは、数メートルサイズのものを二つ、やや斜めに配置してこちらを向いている。
我輩の感覚が正しければ、それと同じものは逆側にも配されているはずだ。
目だ。
つまり、この地下より現れ、今や高さ百五十メートルに達して未だ全容を見せない塔の正体は、
……顔……。
口先を上に向け、体を上昇させながら大気へとその身を晒しつつある、超巨大魔虫。その顔面構造体だ。
その時、上、尖塔状の竜顔の頂点から、声が降ってきた。
「魂の移植、その応用よ。いえ、むしろ私がやろうとしてる事が応用かしら。ただの虫に、無理やり人間の魔術師の魂を移植する。魔術師でなければ駄目よ? そうでないと、ここまでの物にはならないから」
レティシアは、莫大な鼓動と振動の最中、尖塔としてせり上がる魔虫の鼻先に立っていた。
「その魂は、しかし人間のものだわ。たかが虫の小さな器には適応せず、内側から食い破るが如く、魔力の爆発現象を起こす。勿論比喩表現だけど、その効果は名に等しいわ。人間の魂それその物が全て単純な魔力の奔流に還元され、虫の体を咀嚼して魔獣化現象を引き起こす」
その結果がこれだと、そういう事だ。
……レティシア……貴様は……!
「さようなら、ミルネシアの皮を被った誰かさん。おかげで確信が持てたわ。不安だったの。こんなテロまがいの事まで起こして、もしも私の理論が間違ってたりして、結局徒労に終わったらどうしよう、ってね」
でも、
「そうじゃなかった。私に合う魔核を持った体さえ見つかれば、私は私の未来を手に出来る。お礼を言わせて頂戴。そして――さようなら。もう会うことも、無いだろうけれど」
レティシアがそう言った瞬間。竜顔が首の根元までを顕現し終えたところで、唐突にその上昇を止めた。
否、そうせざるを得なかったのだ。何故ならば、
……地殻が、跳ねる……!
溜池は、出口としては小さすぎたのだ。
上昇出来ない。故に、その巨体は脱出を望むため、一つの選択を下した。
再度の上昇だった。
つまり、
……!
爆砕だ。
広場の全てが、地下からの古竜サイズのタックルでかち上げられる。
セントリーエル大森林、北側の丘陵地帯にて、五体の大型魔虫、及び複数の中型、小型魔虫と戦闘を繰り広げていた面々は、驚嘆と共にそれを見た。
森の、見える限りほぼ全て。全周に等しい範囲から、小型の魔虫が一斉に沸き、飛び出したのだ。
もはや全容を推し量ることすら不可能。そういう規模と羽音を一斉にかき鳴らし、軍勢という言葉が街を目指す。
しかし討伐部隊を一際焦燥させたのは、それとはまた違うものだった。
塔だ。
黒の塔が、やはり森の中ほどから、大地を食い破るかのようにして突き上がってきた。
音も、振動も、地震に似てしかし違う。
災害ではある。恐怖でもある。だがそれは――人の根源を揺さぶり、尚も満足せず存在感を叩きつけてくるそれは、そういったものとは一線を画すものだった。
絶望だ。
塔は百メートルに達し、百五十メートルに達し、二百メートルに達したところで、横に広がりを見せる。
翼だ、と誰かが呟いた。
その翼長はもはや計り知れず、ただただそこに構造物が突き立っていくのだと、部隊の面々はそう理解するのが精一杯だった。
三百メートルに達し、五百メートルに達し、そこでようやく、
「――――……!」
翼が、大気を叩いた。
一気に身を浮かす。
それにより、飛び上がった小型魔虫の半数近くが軌道を乱されて落下していくが、その巨体はもはや気にすることなく己を望む。
全長千メートル。
超竜種級。
飛び上がったその周囲には三体の五十メートル級『中型』と、無数の『鎌持ち』、『小型』が随伴として付き従っている。
侍らせるのは王としての証明。そうとでも言うように、
「――――――――――……!」
黒と赤の巨体が、そこに君臨した。