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アニメ

恋は雨上がりのようにと純文学

作者: とびうお君

 私は若い頃純文学の魅力がイマイチ分からなかった。なんとなく買ってしまった有名作品をそのままにしておくのはもったない気がして読んだ。だが世界中の文学に較べて純文学といわれるものの魅力が良く分からなかった。下手をすると溢れかえってるメロドラマにしか見えない作品が多い。内容がとにかくつまらなかった。


 海外のものはそういったものじゃない。小説を読んで思考する楽しさを与えてくれるし、話もアリキタリなものばかりじゃない。もちろん古典であるがために陳腐化してしまったものもあるが、日本のどれをとってもメロドラマ、それをまとめてソープドラマじゃないかと思う様な内容とは大きく違った。


 それゆえ私は偏見に近く、日本の文学は読むに値し無いと感じていた部分があった。かつ私の好きな小説家はゲーテ、ドストエフスキーやカフカと言う海外の文豪に偏ってしまった。


 だが私は確かにそれなりの量有名な純文学を読んだのだ。それが今になって結実した感じがある。このアニメ純文学の面白さがある。若い頃には気が付かなかったのに何故?年齢のせいじゃない。これが漫画原作の魅力だと思う。内容的に惹かれないため魅力を感じてるのに、それを意識できないで居た。その魅力への刺激がガンガンこのアニメでは心に入ってくる。


 作中では全く違う見解を見せてるが、私は表面的な純文学の魅力は作中売れっ子作家である九条ちひろのゴミを書いてるって部分だと思う。ことばの一つ一つが心に染み渡るような魅力を感じる。何故そんな偏った見方をするのか?といわれると、それは純文学愛好者がひねくれ物が多いからだと思う。純文学とはこうだと言うとたぶん反論される。


 でも実際はこれが最大の魅力だと思う。そしてそれは敢えて彼らに気を使って表面的な魅力と書かせてもらう。実際私はその奥底にあるのは形而上学的神学論争に過ぎないと軽視してるのだが…。闇の中には何があるか分からない。それを利用して無益な議論を戦わせる。そんな風に純文学の定義を笑ってみてる部分がある。


 一般的に純文学?となる非ラノベ系の小説が純文学に最も影響を受けてる部分。何故か?それが一番文学の中で金になるからになる。私が語るのはそういった純文学愛好者からは嫌われるようなものについてになる。


 文章が詩的である。これに尽きる。これは私の言葉じゃない。誰かが話していたのをやっとこの年になって理解できたと言うことになる。美しいとか、美麗だとかいろいろいう事は出来る。だがそれは感想だ分析ではない。分類的に見ると純文学のツボは詩と類似した文章表現にあると私は理解してる。


 今だとポエムといわれてしまうだろう。それはモノローグなどで表現されるからで、会話にもろ出てしまって、それを使って2人のキャラが受け答えする場合は詩という形からはなんとなくずれてしまう感じある。ありえない会話としてコメディの中の作られたユーモアを盛り込んだ台詞とよく似ている。


 そういった作為的な会話が繰り広げられるのだが、それが何故か自然に思えてくる。それが詩と分かれる部分だと思う。それが何故アニメで気がつけたのか?と言うと、小説には地の文というものがあり、こっちにそういった表現を小説は割いてしまうからになる。それにたいして、映像によってかなりの部分を表現する漫画アニメは台詞の比重が高くなってしまう。


 それでより不自然な詩的な会話になるのだが、それが逆に良い。ウィット、ユーモアに富んだ魅力的な会話に似てるんだ。ただそれを感じ取ってよいと強く感じるのは、あまり魅力を感じてなかった若い頃の純文学の読書体験にある。じゃ小説も会話に比重を高めてねじ込んだほうが良いか?と言うとそれは違うと思う。


 別の部分に魅力があるからこそ、このくどさが良い意味で薄味になっている。私は内容を求めていて、文章表現を求めてない。だからこそ、内容や絵による楽しさと言うほかの刺激があって、初めて純粋に文字表現の魅力が分かったとなる。


 私の楽しみ方は邪道だろう。だが今でも私は純文学の内容は気に入らない。なんでもない話を気取った風に書きやがってって鼻につく不快感すらある。だが、一番重視する部分が全く違うものなら文字表現がこんなにも魅力的だったのかと判った気がする。


 私は昔から芥川龍之介だけ気に入っていた。彼は内容重視の部分があり、文章に魅力が無いわけじゃない。この人は海外的なセンスがあると感じていた一人になる。作るではない創るを意識して書いてると思った人物。他の書き手はこれほど印象に残らない。それは内容へのこだわりを感じないからになる。


 何を書くか?であってどう書くか?には私は興味が無い。それがこの年まで純文学の魅力に気がつけなかった答えになる。多くの文学愛好者に漫画アニメを元に、シンプルな定義で語る私の話しはかなり不快感を与えるかもしれない。だが何故純文学が衰退したのか?でこれが大きい。分かりにくい。本人たちがその魅力を曖昧模糊なものにして闇の中のミステリアスさを求めたからだと見ている。


 私はそれに敢えて反発するように低俗なアニメ漫画を元に純文学を語る事にした。自分たちだけ分かってるならそりゃ多くの人はそっぽ向くはずだ。


 すべてが明るみに出て、何もかもが明文化される。そんな事と多分純文学は相性が悪いのだろう。まるでそれは暗闇の中でやり取りが行われる源氏物語の光源氏と女性達の恋のやり取りのようだと私は感じる。多分純文学に白日の下にさらすという行為はあってないと見てる。そしてそれは海外の言葉とロゴスが一体となった文化とも相性悪い。直感的に私が日本の文学を文学といわずに、純文学を敢えていうのは、他の愛好者の個性への愛じゃない。


 蔑視的にこんなもの文学として異質だとして隔離したためにずっと守って使ってきた。私は日本の文学を文学といいたくない、あれは純文学と言う異質なものだと思う。日本と海外=欧米との根底からの文化の違いを思わせる。

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