鐘の音(1)
目が覚めたら、見たことのない真っ白な天井が見えた。
石でも木でもない、光沢を帯びた鉄のような材質だ。
ほんの少し、視線を動かす。
汚れがひとつも見当たらない、不自然なまでに綺麗な部屋。
ここまで清潔な部屋は、レーナでも見たことがない。
きっと、私の知らない世界の技術なのだろう。
いや……私が、忘れてしまっているだけなのかもしれない。
それにしても、いやに光が眩しい。
「ん……」
右手をついて、体を起こそうとする。
体は動く……けれど、どこか違和感を感じる。
現実の体に慣れていないという表現が、より正確だろう。
自然と自分の両手に、視線を落とす。
白く細い腕……少し痩せてしまったようだ。
刀華が私の身体に入っていた間、彼女はちゃんと食べていられなかったのかもしれない。
全身を両手で触り、“自分”を確認していく。
一番の変化は、腰まで伸びた髪の長さだ。
前髪もひどく鬱陶しい。
あとは、私の身体で間違いなさそうだけど……
「鏡が、欲しいノカ?」
不意に声をかけられた。
聞き覚えのある、若い女性の声だ。
しかし肝心な声の主は、窓際に立っていてよく見えない。
随分と派手な色をした、フード付きのコートを着ていることだけは確認できた。
「あの……」
声が掠れて、うまく話せない。
長い間、喉を使っていない感じがする。
「アホカゲもそうだったガ、いきなり体を起こしたり、声を出したり……スゲェな、ドリフターってのは」
コートの女性が苦笑をしながら、近づいてきた。
つい反射的に、フードの奥にある顔を覗き込んでしまう。
茶色の髪に茶色の目をした、可愛いらしい女性だ。
そしてそれは、馴染みのある顔だった。
「アルフィー?」
私が聞いてみると彼女はフードを外し、無言のままベッドに片膝をついて、強く抱きしめてきた。
「お帰り、ハッチィ」
震える声が、質問の答えだった。
「なぜアルフィーが、泣くのですか?」
力なく笑ってみせる。
しかしアルフィーは、私を放そうとはしなかった。
「長かったんダゼ……ほんとに、ここまで長かったんダ」
黙って頷く。
正直なところ、私はまだ外の世界に来たという実感が湧いていない。
ハチ子として地続きのまま、ここにいる感覚だ。
「ハッチィ、記憶はアルのか?」
「記憶……レーナでの記憶と、刀華として過ごした記憶はあります」
「そうか。それ以前の記憶は、ナイのか?」
少し考える。
そういえば、ひとつだけある。
意味不明な夢だと思っていたのだけど、アーク殿が夢ではないと言ってくれた記憶の断片だ。
「よくわからない乗り物の中で、私と同じくらいの年齢の男の子と楽しく話していたような、本当によく分からない記憶ならあるのですが……」
それがアーク殿だとは、あえて言わない。
彼の口から色々と聞いて、それから話したいと思えた。
「そうか……本当に、アキカゲと同じなんダナ」
アルフィーは、ようやく私を解放すると真正面から見つめてきた。
くりっと見開かれた茶色の瞳が、ガラス玉のようにキラキラと光る。
「うん、ハッチィだ。リアルだと、さらに美人ダナ」
「アルフィーは……なにか雰囲気が違いますね。向こうでは、演じていたのですか?」
「んまぁ、そんなところダ」
屈託のない笑顔に少女の面影が残っていて、なんとも可愛いらしい。
アルフィーは、こっちでもアーク殿と一緒にいたのだろうか。
こんな子に誘惑されたら、ひとたまりもないだろうと考えてしまう。
「聞いてくれ、ハッチィ。オレが出て行った後、この施設の人間から現実世界についてと、ハッチィの身に何が起きたのかを説明されると思う。きっと、どれもこれもハッチィにとって、突拍子のない話ばかりになるハズだ。なるべく混乱しないように、ゆっくりと受け入れていくんダゾ?」
本気で心配してくれているのだろう。
黙って頷くと、アルフィーは話を続けた。
「運が良ければ、今日のうちに此処から出られると思う。その時は、世話役が迎えに来るハズだ」
「世話役……ですか?」
「ハッチィみたいに、この世界のことを忘れてしまってるドリフターには、社会復帰を支援するための世話役がつくんダ。アキカゲにも、世話役がついたんダゾ」
「そうなのですね」
できればその世話役、アーク殿がいいのですが……とか思ってしまう。
いや……でも、会えるのなら、どんな形でもいい。
「その世話役って、私の知っている人ですか?』
それは……と、少し言葉を濁される。
きっと、知っている人なのだろう。
「会えば分かる。で……たぶん、めっちゃ謝られると思う」
「謝る……なぜですか?」
「それも、本人に聞いてくれ。オレから話す事じゃないんだ。でも……」
アルフィーが言葉を区切り、思い詰めたような表情で続けた。
「できるなら、彼女を許してやってほしいンダ。ちゃんと説明を聞けば、彼女は何も悪くないって分かるはずなんダ」
どんな話なのか分からないのに、許すも何もないのだけど。
でもその真剣な眼差しと切実な思いに、その女性がアルフィーにとって、どれほど大事な人なのかは伝わってきた。
「よく分かりませんが、とにかく話を聞いてみます。それよりも、アルフィー」
私が質問をしようとすると、それを遮るようにして、手の平を向けてくる。
「わかってる。アキカゲのことダロ?」
「はい。会いたいのです。会えないのですか?」
「大丈夫ダ。ちゃんと会わせるから、心配するナ。それにな、ハッチィ。まさかそのまま、会うつもりナノカ?」
私が首を傾げると、アルフィーがニヤニヤと笑い始める。
これは、レーナでも見たことがある表情だ。
「初めて会うんダゾ。今のハッチィは、年単位の寝起きみたいなもんダゾ?」
たしかに髪も伸びたままだし、この世界のおしゃれな服装も持ってない。
初めて彼に会うのだから、ちゃんとしていきたい。
でもアルフィーが、それを気にしてくれるのですか?
一応、アーク殿に関してはライバルだと思っていたのですが……
「それも世話役が、どうにかしてくれるハズだ。とにかく、それまでは我慢してクレ」
アルフィーはそこまで話すと、フードを深く被り直す。
どうやら、このことだけを説明しに来たようだ。
「ありがとうございます、アルフィー。あとで、色々話を聞かせてくださいね?」
アルフィーは可愛らしい笑顔を見せて「もちろんダ」と答えると、部屋から出て行ってしまった。




