泡沫の夢〈1〉
レーナの街が真っ赤に染まっていた。
それが赤い満月のせいなのか、街が燃えているせいなのかは分からない。
しかしその赤は、まさに狂乱の赤だった。
「港だ! 港に向かえ!」
騎士風の男が大きな声で叫ぶ。
それに応えるように、多くの戦士が自らを鼓舞して武器を突き上げる。
フリーの冒険者や傭兵、ギルド所属の剣士や月魔術師、月白の騎士団や窮鼠の傭兵団の姿もその中にあった。
「戦えない者は、町の外に逃げるんだ!」
焦りの混じったその声に、多くの住人が逃げ惑う。
海竜戦の時と違い、災厄の襲来が突然すぎたのだ。
──突如として異界から現れた『赤目隻眼の魔王アカゼ』
赤い1つ目の魔王は木炭で乱暴に塗りつぶされたような不定形の体を持ち、常に揺れるようにしながら蠢いていた。
闇のような体は、かろうじて人形を保っていて、その体長は二十メートルを有に超えている。
アカゼは出現と同時に、職人街から港へと建物を破壊しながら真っ直ぐに移動を開始した。
この災厄に対し最初に動いたのは、月白の騎士団に所属する騎士英雄エメリッヒだった。
エメリッヒの指示は的確で、すぐさま各ギルドに連絡がいき部隊が組み上がっていった。
部隊への細かい指示をしているのは、エメリッヒの右腕として頭角を現した若き英雄ルクスである。
そしてルクスの相棒であり女騎士として注目されているリーンが、窮鼠の傭兵団との連携を担っている。
アカゼが港に向かうまでの間、一番槍をつけたのは名もなき冒険者だった。
金色の髪をした冒険者は果敢にもアカゼに対し、強化の魔法をかけた剣を突きつけたのだ。
彼は碧の月亭に入り浸っている冒険者だった。
一流というわけではないが、中堅どころとして後輩たちにその背中を示したかったのかもしれない。
アカゼはかつて、そんな彼を憎からず思っていた。
軽薄な言動が多く迂闊で未熟だが、それでも海竜戦では最後まで剣を握り戦っていた。
だから最初に自分と対峙するのは、もしかしたら彼かもしれないと心のどこかで思っていた。
だからこそ、本気で応える。
自分を討伐しようとする、かつての友へ。
アカゼの体から、炭で乱暴に描き殴ったかのような蛇の頭が伸び、戦士を払いのける。
戦士はのけぞり吹っ飛ぶが、大柄の戦士に支えられると、すぐに立ち上がり剣を構え直す。
そして他の冒険者に対して、騎士や傭兵団が来るまで時間を稼ぐんだと何度も叫んでいた。
そこへ、ゆったりとした深い紺色のローブに身を包み、大きな三角帽を目深に被る少女が現れる。
腰まで伸びた長い金髪を海から吹き上げる風になびかせて、琥珀色の目をアカゼへと向ける。
「榊の杖よ、その力を解き放て!」
神木化した樫の木の杖を天に掲げると、2度地面をトントンと叩く。
少女は海竜討伐の際、仲間の冒険者に見捨てられた月魔術師だった。
引っ込み思案で、いつもオドオドしていたが、ある冒険者のパーティに入ってから変わっていった。
眼帯の彼とは、多くの冒険を共にできたとは言えない。
それでも幾つかの死線を超えて、彼への信頼と、彼が信じてくれる自分の力に対し、自信を持つようになっていた。
『月よ、魔力の吹雪で全てを凍らせよ!』
『月よ、魔力の氷槍で穿ちぬけ!』
詠唱が同時に行われていく。
榊の杖を持つ彼女にしか使えない二重詠唱による複合魔法、月雪槍乱舞だ。
たちまちアカゼを猛烈な吹雪が包み込み、複数の氷の槍がグルグルと回りながら襲いかかる。
これで倒せるとは思っていない。
ただ海竜戦の時のように、足止めになるだけでも戦況が変わるはずだ。
彼はそうして、一つひとつの戦力を積み重ねていき驚異を打倒したのだ。
「よくやったにゃ!」
クセの強い金髪と、黄色い猫目をしたキャットテイルが踊るようにして最前線へと飛び込んでいく。
彼女は魔王が相手だろうと、恐れたりしない。
小麦色の健康的な体の内で気を練り、全力で叩き込む、そうすれば大体の敵は倒せるからだ。
アカゼは知っている。
気を練らせないように熾烈な攻撃を打ち込めば、このキャットテイルを封殺できる。
意思はそのまま力となり、三本の蛇が背中から生えると、一斉に彼女へと襲いかかる。
彼女は独特のステップでそれをかわそうとするが、アカゼの攻撃は海竜のそれとは違う。
動きは鋭く、変則的で数が多い。
「うにゃぁっ!」
彼女はいくつかの攻撃を受け始めるとリズムを崩し、練っていた気を散らしてしまった。
「もう一度だ、シメオネ」
くせのある金髪をした兄が、サーベルで蛇の頭をいなしながら冷静に指示をする。
兄はサーベルを巧みに操りながら、妹が思いを寄せていた男のことを思い出す。
あの男は自分と同じく、他人に対して愛想がいいわけではないが、偏見を持たぬ男だった。
嫌いではない。
姉が一目置く理由も、なんとなく理解できる。
何より、窮地におけるあの男の発想は面白く、痛快だ。
何故この場にあの男がいないのかわからないが、あいつなら今回もこうするだろう。
妹が練気をしている間は俺が守る。
俺の役目は、それでいいはずだ。
この場にいる者は、海竜戦を最初から最後まで戦い抜いた猛者達だ。
言わずとも、あの男の作戦を遂行していくだろう。
「まったく……いないといないで気になるんだから。困った男だね、キミは」
兄は目を細めて、熾烈を極めるアカゼの全方位攻撃に思わず舌を巻く。
この二人と冒険者だけなら問題はないだろう……と、アカゼは考えていた。
それほどに、アカゼの攻撃は圧倒的だった。
月魔術師の魔法に多少は足止めはされたものの、その傷はすでに癒えている。
強大な魔王の力は、建物を破壊しながら着実に進軍していた。
あと少しで港に到着する、その時だ。
少し離れた建物の屋根の上に、赤い満月を背にした美しい女性のシルエットが現れる。
手にするダガーは、青黒い呪いの色を放っていた。
「まさか魔王と殺り合えるなんてねぇ〜」
妖艶なキャットテイルの女は、真っ黒に波打つ長い髪をかき上げて続けた。
彼女はこれまで、こういった討伐には一切参加していなかった。
ただ単純に興味がなかったからだ。
しかし、今回は違った。
「しかし、まぁ〜」
アカゼに向け、威嚇するように目を細める。
彼女は、ひと目見て直感した。
人を見極めることに長けた暗殺者としての洞察力が……いや……女の勘が、そう確信させた。
この中身にいるのは、自分が好ましく思っていたあの男だと。
「随分と変わり果てたなぁ、しょぅぅねぇぇん」
アカゼはそれに応えるように赤い帯のようなものを二本伸ばし、キャットテイルに向けて打ちつける。
黒髪のキャットテイルは冷笑を浮かべたまま、ひらりと身を翻しそれをかわすと、闇に溶け込むように姿を消してしまう。
次の瞬間、アカゼの首元にその姿を現すと、一気に呪いのダガーを振り抜いた。
「約束の時だぁ、しょぅねぇん〜存分に殺し合おうじゃないかぁ〜」
アカゼの知る限り『この世界で最強の個人』が、赤い満月を背に狂い笑う。
それはアサシン教団で1位として君臨していた彼女が、本気を出す時にのみ見せる笑みだった。




