鈴屋さんと月白の騎士団っ!〈2〉
リーン再び。
お楽しみください。
野営地から川岸まで下りると、思いの外あたりは薄暗くなっていた。
空には既に青い月がその姿を現していた。
俺は桶を乱暴に川へ突っ込むと、力を込めて持ち上げる。
そして水をこぼしながら足元に置き、ついでとばかりに顔を洗った。
冷たい水が気持ちよく、疲れも一緒に洗い流してくれるようだ。
濡れた手をパタパタと振り、顔を黒装束の袖で拭おうとしたその時、ガシャリという音とともに目の前に布を差し出される。
「……おう。ありがとう」
リーンは何も言葉を返さず、俺の隣で膝をついて水を汲む。
ここまで無言だと、いらぬ圧を感じてしまう。
「お前も顔を洗ったらどうだ? 気持ちいいぞ」
ブリキの人形のように動きが止まる。
まぁ俺としては、その表情を確かめたいだけなのだが……
やがてリーンは頷くでもなく、ガシャガシャと音を立てながら籠手と兜を外した。
そして俺を真似るように顔を洗うと、黙って右手を差し出してくる。
言葉にし難い圧力を感じながらも少し湿ってしまった布を返すと、リーンは何の躊躇もなく顔と手を拭き始める。
短く鮮やかな赤い髪、大きくぱっちりと開かれた黒い目。
どこか凛々しく、どこか幼く、純粋で真っ直ぐな瞳……あの時と変わらない、記憶のままのリーンだ。
「なんスか?」
横顔のまま、視線を合わせることなく呟く。
「あぁ、いや……」
「なんか言いたいことが、あるんじゃないスか?」
言いたいことなんて、あの時のこと以外にはない。
しかし、これだといった言葉が出てこない。
謝罪も、言い訳も、適切だとは思えなかったからだ。
「あと……さっきのは、なんスか? 助けたつもりッスか?」
口調は厳しいままだ。
怒っているというよりも、拒絶されているように感じる。
まぁ……あんな酷いことを言って、手まで上げてしまったのだ。
当然というものだろう。
「いや、俺は偶然あそこに立っていただけで……」
「なに格好つけてんスか? 格好いいとでも思ってるんスか?」
「そんなつもりはなく……は、ねぇな。格好つけてたかもしれん」
「相変わらず、バカなんスね」
辛辣な言葉に、思わず苦笑してしまう。
やはり許されはしないのだろう。
あまりの気まずさに、逃げ出したい気分である。
これは早々に撤退したほうが良いと思い、立ち上がろうとした時だ。
「お、おい?」
リーンが俺の胸に、赤髪の頭を押しつけてきた。
その力が思いのほか強かったため、たまらず尻餅をついてしまう。
「なんだよ、おい」
しかしリーンは俺の足の間に割って入ると、さらにグイグイと額を押当ててきた。
「あの時も、そうやって黙って格好つけてたんスか?」
ボソボソとした声が胸から響いてきた。
「あの時……?」
「なんであんなことをしたのか、アルフィーの姉御から全部聞いたッス」
またしても言葉を詰まらせてしまう。
格好をつけていたわけではない。
リーンが入団するには、あの方法しか思いつかなかったのだ。
己の愚策で傷つけたことを、後悔しているだけだった。
「なんで最初から言ってくれなかったんスか?」
表情が見えず、感情が読み取れない。
「言えるわけねぇだろうよ。あそこで必要なものは『入団できる実力』と『真に迫る演技』だ。鈴屋さんならともかく、お前はそんなに器用じゃない。俺も手加減するわけにいかねぇし……痛かったろ?」
少しだけ、リーンの身体が小さく震えたように感じた。
そしてゆっくりとした動きで、地面についていた俺の右手に、リーンが左手を重ねてくる。
「俺なんかより……アークさんのほうが痛かったんじゃないスか?」
「いやいや、お前、何されたのか忘れたわけじゃ……」
「俺の傷は、治癒魔法ですぐに治してもらったッス」
あぁ……あの後すぐに、神殿へ行ったのか。
それは良かったと、安堵の息をひとつつく。
しかし問題は、それだけではない。
傷ついたのは、身体だけではないはずだ。
「あんな酷いこと言ったんだ。辛くないはずが、ないだろうよ」
リーンが大きく息を呑む。
そして言葉を選ぶようにしながら、低く小さな声で返してきた。
「あの時は確かにショックだったッスけど……それも、すぐに姉御が教えてくれたから大丈夫っスよ」
どうやら、アルフィーのフォローも早かったようだ。
あいつにも、礼を言わねばなるまい。
「俺が言ってるのは……」
リーンが苛立ちからか、語尾を強めて続ける。
「アークさんのがっ!」
ドンッと、握った手で胸を強く叩いてくる。
「心がっ……!」
さらに数度、叩かれる。
「傷を……」
最後は力なく叩かれた。
「なのに言い訳もしないで、説明もしないで、お礼を言うチャンスもくれなくて……」
リーンは声を震わせながら、小刻みに震えていた。
時折聞こえる嗚咽が、俺の感情を激しく揺さぶる。
「すまね。どんな顔して会いに行けばいいのか分からなくてな……お前、泣き虫だし」
情動に飲み込まれそうになりながらも、リーンの頭に優しく左手を置いた。
「泣き虫は余計ッス……」
わずかに声が笑って聞こえた。
「仲直り……というか、また前みたいに話たいッス」
「あいつらの前じゃ、無理だぜ? あれが入団するための演技だったってバレたら、面倒だからな」
「わかってるッス。二人きりの時だけッス」
「そんな時、あんのかね?」
カカカッと笑う。
するとリーンが顔を上げて、黒い瞳を大きく見開く。
「いま、二人きりッスよ?」
今度は手を俺の両脇へ、するりと通していく。
「アークさんなら、俺はいいんスよ?」
リーンはそう言いながら、少し濡れた唇を俺へと寄せてきた。
「お……おまっ……」
情けないほど動揺した俺は、両手で押し返すようにしてリーンを引き剥がし、慌てて立ち上がった。
「あほかっ。急に女を出してくるんじゃねぇよ、びっくりするだろうがっ!」
顔を真赤にしながらでは、動揺しているとバレバレだ。
熱を帯びていくのが自分でもわかる。
リーンはしばらく黙って見つめてきていたが、やがてその大きな目を半分にして唇を尖らせた。
「姉御に聞かされてはいたんスけど……アークさんって相当な意気地なしッスね」
「何をいうか、天下無双の女好きだぞ、俺はっ!」
「そんなこと、大声で言うッスかね?」
たしかに、自慢にならない発言だった。
とりあえず冷静にならねばと、頭を振って言い聞かせる。
「別に一夫多妻制なんスから俺と姉御を、まとめて手篭めにしてもいいんスよ」
「手篭めって、お前ね……」
これ以上の会話を続けても勝算がないと感じ、桶を両手で持つと、もと来た道を歩き始める。
「また話したいッス」
後ろから聞こえた言葉に、俺は肩を上げて「二人の時だけな」と返すのだった。




