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9 惑

第一章 まさか、この気持ちは……

 翌日の土曜日、蛍はいつもの時間より早く目覚めてしまう。

 目覚まし時計を見ると五時前だ。

 隣の布団の健斗は健康な寝息を立て、眠っている。

 蛍はもう一度眠る気になれず、静かに布団を離れ、ダイニングキッチンへ……。

 歯を磨きながら鏡の前まで歩き、自分の顔を覗き込む。

 寝起きの顔だが表情は明るい。

 だから蛍は、自分は大丈夫なのかな、と思ってみる。

 が、目を瞑れば、浮かぶのは翔の顔だ。

 けれども、昨日の今日のことだから仕方がない、と困ったように蛍は思う。

 わたしの翔くんへの恋は終わったのだ。

 だから一刻も早く、自分の中に残る山口翔へ想いを消さなければならない。

 それが、せめてもの健斗への償いだ。

 わたしには、それしかできない。

 来週末、翔くんに折り紙の兜を届けるのは、ただの約束なのだ。

 蛍は、そんなふうに考える。

 恋じゃない。

 リクエストだ。

 同じ会社に務める新入社員の男女二人が会社帰りに会話をし、それが弾んだ結果というだけ。

 他意はない。

 一つもない。

 それだけのこと。

 単なる折り紙なのだ。

 想いはない。

 けれども鏡の中にいる蛍の目には涙が溢れている。

 歯磨きの最中に泣いている女。

 蛍の涙は止まらない。

 が、蛍は、休日の朝から感傷に浸っても仕方がない、と鏡から目を逸らす。

 歯磨きを終え、冷たい水で顔を洗い、涙の痕跡を消す。

 再び鏡の前に立ち、笑顔を作る。

 入社し、先輩社員に習って以来、蛍が時々する行為だ。

 けれども自分のためにしたのは初めてかもしれない。

 笑顔を作ったまま、アカンベーをする。

 大丈夫、わたしは強い。

 絶対、この想いを断ち切ってみせる。

 アカンベーを続けながら自分でそう信じる蛍だが、不安な点がないわけではない。

 今回は健斗に頼れないのだ。

 今までずっと自分は健斗に頼って生きてきたというのに……。

 もちろん蛍が自分一人でした努力も少なからず、ある。

 数学や理系分野については蛍の方が得意だったから、逆に健斗から頼られている。

 けれども他の科目、特に国語、それから社会は、健斗がいなければ蛍は赤点だったかもしれない。

 高校や大学の受験勉強、中間及び期末試験、それから車の免許だって、そうだ。

 健斗の励ましや、アドバイス、実際の教えがなかったら、飽きっぽい性格の蛍は高校や大学、それに会社に入ることだってできなかったかもしれない。

 そういう意味でもかけがえのない夫、健斗なのだ。

 けれども今回の件は話が違う。

 健斗に頼る筋合いじゃない。

 わたし独りでどうにかするしかないのだ。

 それ以外にありえない。

 けれども……。

「おお、早起きだな。それに何故、アカンベー……」

 健斗がダイニングキッチンに足を踏み入れ、蛍に問う。

「いや、単に自分に気合を……」

 慌てて蛍が答える。

「そうか、おれはトイレに行くよ」

 蛍の言葉に健斗は疑念を抱かない。

 本当に気合を入れていると健斗が信じたかどうかまで蛍にはわからなかったが……。

 時刻を確認すると六時過ぎ。

 一時間以上が消えている。

 いったい、わたしはその間、何をしていたのだろう。

 考えると蛍は少し自分が怖い。

 が、過ぎてしまったことを悔やんでも始まらない、と考えを切り換える。

 華野家の朝食も一応当番制で本日は蛍の担当だ。

 だから朝食分の買い物も昨日している。

 もっとも夕食の時ほど当番制に拘らず、冷蔵庫の内容物を見て、先に起きた方が作ることも多い。

 まあ、今日は順番通りだけど、と蛍は思う。

 健斗が休日の習慣にしているジョギングに出かけるのが朝の八時頃だから朝食にはまだ早い。

 トイレから出て来た健斗は、

「あと一時間寝るから、起きなかったら、起こして……」

 と蛍に頼み、二度寝をする気だ。

 蛍はすることもないので筋トレ及びスロトレを始める。

 近所をジョギングしても良かったが、また不意に泣いてしまったら不思議に思われるはずだ。

 だから家の中で過ごす。

 身体を動かした後はファッション雑誌を捲り、それから簡単な朝食を作り、案の定、健斗が起きてこないので寝室まで起こしに行く。

 普段の健斗は寝起きが良い方だが、二度寝の場合は別なのだ。

 それはまあ、蛍も同じなのだが……。

 健斗の寝顔が思いの外可愛らしいので蛍も笑顔になる。

 けれども胸の中を覗けば、そこにいるのは山口翔だ。

 蛍が複雑な想いで翔の顔を自分の胸の中から消していく。

 が、消える先から様々な翔の顔が浮かび上がる。

 切ない……。

 けれども、ここで泣くわけにはいかない。

 そう思いつつ、蛍は健斗を起こしにかかる。

「お寝坊さん、朝ご飯のお時間ですよ」


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