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第四章 どうしても伝えたい
けれども葵の予言は当たらない。
蛍が会社を出て数分後、健斗から連絡が入ったからだ。
「あっ、蛍。おれ、今日、友だちと呑みに行くから……」
それで夕食はいらない、と健斗が続ける。
「ごめんな。今日はおれが炊事当番なのに……」
健斗が蛍に謝るが、
「何、言ってるのよ。入社して半年間、ほとんど遊びに行ってないじゃない」
蛍の口から健斗の肩を押すような言葉が自然に出る。
「まあ、そうだけどさ」
「いい機会だから行ってらっしゃいよ」
「ありがとう、蛍……」
「それから炊事当番も、これまでの順番でいいから……」
「えーっ、それじゃ蛍に悪いよ」
「もう、水臭いな。わたしが健斗と同じ立場になったら、そうしてもらうからいいよ」
「わかった、蛍……。じゃあね」
「うん、じゃあね」
健斗との会話が終わり、蛍は薄く溜息を吐く。
相手がいなければ話せない。
今日は平日だから深夜遅くまで健斗が呑むとも思えないが、それでも帰りは午後十一時を過ぎるだろう。
いくら残業でも翔くんは帰宅しているはずだ。
蛍は少しがっかりする。
……と同時に少しホッとする。
やはり蛍は怖いのだ。
健斗に翔の話をすることが……。
自分の心変わりを知られてしまうことが……。
けれども健斗に黙ったままで翔に告白するわけにはいかない。
だから惑う。
けれども惑ってどうにかなるものでもない。
「あっ、そうだった」
駅中スーパーの前を通り過ぎたとき、蛍が気づく。
「食材を買っていかなくちゃ……」
けれども踵を返し、スーパーの中に入っても蛍は食材が選べない。
気もそぞろと言った感じなのだ。
結局、出来合いのお弁当と飲み物を買い、帰宅する。
葵の応援があっただけに何だか拍子抜けだ。
「まあ、仕方がないか」
蛍は独り言ち、お湯を沸かす、
少し脂っこいと思われる、お魚弁当用にはルイボスティーを買ったが、食後にはコーヒーを飲みたい、と思ったからだ。
蛍一人の静かな時が過ぎて行く。
葵に電話でもしようか。
蛍は思うが、わずかに躊躇う。
気にしなくて良いのかもしれないが、葵はまだ、わたしのことが好きなのだ。
失恋のプロとお道化ていたし、今ではわたしの友だちだと言ってくれたが、辛さはわかる。
いや、わかるというより驚いてしまう。
葵の心は強いのだ。
わたしには、とてもあんな真似はできないだろう。
普通に友だち顔で翔くんに接することなんて……。
葵、凄い、凄いよ。
でも内心では辛いんだろうな、と蛍は思う。
わたしは告って玉砕した後、仮に翔くんと友だち関係に戻れたとして、葵がわたしを見るときと同じ顔を翔くんに向けることができるだろうか。
振られ、玉砕し、少し時が経ち、わたしの翔くんへの想いは。僅かでも醒めてくれるのだろうか。
時が解決策なのは知っている。
そんなことはわかっているのだ。
年老いた夫婦が長年連れ添った相手に先立たれても時が経てば悲しみは薄れる。
消えることはないかもしれないが痛みはなくなり思い出にかわる。
そうでなければ人は悲しみで死んでしまう。
忘れられない悲しい記憶が、その都度同じ大きさで残ったら、どう考えても心が毀れる。
毀れ、やがて死を望むようになるだろう。
愛する者がいない世界に自分がいる価値はないと思い……。
けれども死ねば、それで終わりなのだろうか。
却って成仏できずに悲しみに取り囲まれてしまうのではないだろうか。
けれども今度は死ぬこともできない。
何故ならば、もう死んでしまっているから……。
ああ、わたしったら何を考えているのだろう。
縁起でもない。
翔くんは生きて、この世にいる。
私鉄で、わずか三駅都心側にいるだけだ。
そう考えると蛍は無性に翔の顔が見たくなる。
そんな気持ちの自分に気づく。
幸い健斗は今夜帰りが遅い。
だから行ってみようか。
翔くんが降りる駅まで……。
それから改札を抜け、駅からすぐの、あの喫茶店でお茶でも飲もうか。
翔の家がある場所を蛍は知らない。
だから翔の家(か、アパートか、マンション)の前をウロツクことは叶わない。
けれども翔の姿を見ることはできるかもしれない
翔は本日残業だ。
帰りに喫茶店には寄らないだろう。
けれども、その代わりに、わたしが喫茶店から翔くんを眺めることはできるかもしれない。
蛍の想いが膨らんでいく。
どうしよう。
行こうか、止めようか。
ああ、どうしよう。
が、そのときにはもう蛍の決心はついている。
外出用の服に着替え、ポシェットを肩からぶら提げ、時を惜しむように玄関を出、走るように翔が電車を降りるI駅に向かう。




