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第四章 どうしても伝えたい
今更のようだが、山口翔は結婚指輪をしていない。
何故かといえば一度なくしかけたことがあるからだ。
しかも結婚を控えた数日前……。
既に越した新居のアパートでなくしたのだ。
朝起き、つくづくとそれを眺め……、その先の行動の記憶がない。
トイレに入り、戻って来たときには指輪がない。
置いたはずの場所から消えている。
結婚指輪の場合は稀かもしれないが、誰にでも経験のある出来事だろう。
普段はあまり焦ることがない翔だが、あのときは滅茶苦茶に焦る。
それこそ家の中を野良犬のように探しまわる。
平日の朝だ。
会社には入社前だから時間はあるが、時間があれば探し物が見つかるというわけでもない。
そのうち夏海が目を覚ます。
結婚前だから、まだ相沢夏海だ。
「どうしたの。うろうろして……」
「実は結婚指輪をなくした」
正直に翔が言うと夏海が呆れる。
「いったい何処で……」
「家の中だよ」
「じゃ、あるはずでしょ」
「だから探している……」
夏海に言い、翔がまた指輪を探し始める。
朝食後、夏海も指輪探しに参戦するが見つからない。
結局、その日の内には結婚指輪が見つからない。
夜になり、焦燥した翔に、
「まあ、自分の指輪だから諦めたら……」
「いや、そうはいっても……」
「結婚式ではダミーを指に嵌めてあげるからさ」
「……」
「わたしがいればいいじゃない」
そう言い、夏海が翔を慰める。
翔も段々と仕方がないと思い始める。
それにしても、いったい何処へ行ったんだ。
小さいとはいえ消えるわけがない。
が、翌日、結婚指輪があっさりと見つかる。
しかも昨日、何度も探した場所から……。
結婚指輪も含め、ジュエリー関係を仕舞ってある棚だ。
確かに少し奥だが、見て見えない場所ではない。
どうしてここに……。
翔が狐に抓まれたような顔をする。
だって何度も見たはずなのに……。
「どうかしたの」
ジュエリー棚の前で佇む翔に夏海が静かに声をかける。
「びっくりしたような顔をして……」
「指輪があった」
「あら、よかったじゃない」
「それはいいんだけど、昨日何度も探した場所なんだ」
「それで、びっくりした顔をしているのね」
納得したように夏海が翔に言う。
「今日はダミーを買いに行こうと思っていたけど買わなくて済んだわ」
「納得がいかない」
「何が……。昨日探した場所から今日指輪が出て来たことが……」
「そうだけどさ」
「だったら、またなくす前に仕舞ったら……」
夏海に指摘され、翔が首肯く。
「そうだな」
それで結婚指輪をケースに入れ、棚の所定の位置に戻す。
「また消えたりしないよな」
「大丈夫。わたしも見たから……」
夏海は言うが翔はまだ納得しない。
「確実に昨日も見たはずなのに……」
そう呟きながら首を捻る。
「何かの影に見えたんじゃない」
と夏海。
「あるいは心理的に見えていなかったとか」
「心理的に……」
「そう。昨日、翔は焦っていた。焦って指輪を探した。何処でなくしたかがわからないから、とても不安で……。でも今日は、まだ指輪を探していない。だから不安もない」
「それで見つかるのか」
「今日は指輪が見えたのよ。でも昨日は見えなかった」
「夏海はこの棚の辺りを探していないよな」
「だって翔が何度も探しているから……」
「夏海がここを探したら見つかったのか」
「そうかもね」
「それにしても不思議だ」
その一件以来、山口翔は妻の夏海と一緒に出かけるとき以外、結婚指輪を嵌めていない。
またなくすのが怖いからだ。
もしも翔が常に結婚指輪をしていたら華野蛍が山口翔に恋することはなかったのだろうか。
ちなみに華野蛍も普段は結婚指輪をしていない。
理由は山口翔と同じだが、見つけたのは華野健斗だ。
そういった意味でも健斗は蛍の世話係だ。




