3日目
もわもわとした湿気が、窓を伝って入ってくる。
部屋の中の空気が、ゆっくりと水気をまとって、わたがしのようにつかめてしまいそうになったのを感じ取って、わたしは目をさました。
体を起こして、ぼうっとしていると、朝なのにやけにうす暗いことに気づく。そこで、ザーザーという雨のノイズが耳に入った。ときおり、ぽつ、ぽつと窓を打つしずくの音も聞こえる。
ざあ、ざあ、ざあ。ぽつ、ぽつ、ぽつ。
夏の空。こんもりともりあがった入道雲がふらせるはげしい雨だ。――きおくを失っていたわたしは、雨音にしばらく聞きふけっていた。そして、はっと昨日までのことを思い出した。その瞬間にぴかりと雷が遠くの方で鳴った。
「あ、ヒメはっ?!」
ちょうど思い出したところに雷が鳴ったから、驚いたような声が出た。
べつに、ヒメに対して嫌な予感がしていたわけではない。――べつに。
「ヒメー、おはよう」
もちろん返事はない。
ヒメはカブトムシ。にゃおと返事をしてくれるあかねでもなければ、じいじいとやかましく鳴くセミでも、りーりーと奏でるスズムシでもない。ヒメには、声がないから返事をしなくても、ふしぎには思わなかった。
「ヒメー、エサは食べたか……」
しいくケースのふたを開けて、中をのぞき込んだ。
ざあざあという雨音だけが支配していた部屋の床に、かんからというかわいた音が二、三度ひびく。ケースのふたが床に落ちて、はねた音だ。
わたしは雨に打たれていない。
わたしは雷には打たれていない。
けれど、寒さにこごえるように、肩はかたかたとふるえた。いなずまをこわがるように、くちびるもふるふるとふるえた。
「――ヒ……メ……?」
あお向けだ。
4本の足のうち1本は、空をけり上げるようにして伸びきっている。1本は折りたたまれて、そしてまた1本は、力なくだらんと垂れている。最後の1本は、口元にあてられていて、そのあごはぴたりと止まっている。呼吸が、――感じられない。しょっかくも、――ふるえていない。
――あお向けだ。
ああ。あお向けだ。
手をにぎった。
爪を立てて、手のひらに食いこませた。少し痛い。そして、わたしの手は力を失って、今度はがたがたとふるえ始めた。
「う……そ……。うそだ」
もう一度、雷が鳴った。
ぴかっ。どしゃん。ごろごろ。
「うそだーっ!」
がらがら。ごろごろ。
いなずまにまみれて、わたしは叫んだ。外の雨は、いつしかわたしの胸の中にまでふりそそいでいた。
ざあざあざあ。ざあざあざあ。
――しばらく、雨音に聞きひたっていた。床に左耳を当てながら。左半身に床の冷たさを感じながら、身体を弓なりにして、もう動かなくなったヒメがねむる、しいくケースを囲った。――そして、やがてそれを温めるように抱きかかえた。
「りおー。いいかげん起きなさーい」
夏の通り雨。
少しずつ雨足が弱まり、ノイズがはけていく。ざあざあというノイズはなくなって、ぽつぽつという音だけになった。同時にわたしの耳は、お母さんの声をとらえた。だけど、身体は動かなかった。――いいや、動きたくなかった。
――がちゃりと、わたしの部屋のドアが開いた。
「りおー、何してるのー? 床にねっころがっちゃって。かぜひくわよ」
「……が――」
ぽつぽつぽつ。ぴちょり。
「え……?」
「……メが――」
ぽつ。ぴちょり。ぴちょり。
「なあに? どうしたの?」
「ヒメが死んじゃったのっ!!」
ふり向きざまに、らんぼうに、叫んだ。
――しばらく、無音が続いた。外の雨は止んで、ざあざあという雨のノイズが、わたしの心の中だけにひびいていた。
「そ、そうなの……」
お母さんは、うつむいて悲しそうな声で言った。
でも、わたしには足りなかった。だって、だって、わたしはもっと、もっと、もっと。いいや、ずっと、お母さんよりもずっと、悲しかったから。
「お母さんのばかぁあああっ!」
わたしは、しいくケースを抱きかかえて、部屋着のままで走った。
自分の部屋にお母さんがぼうぜんと取り残されたのを尻目に、わたしは誰もいない場所を求めて、どたどたと階段を下りて外に飛び出した。
ぴしゃんっと、らんぼうな、わたしのつま先にはじかれた水しぶき。部屋着のシャツと、ジャージの短パンを泥水がぬらした。
――お母さんは悪くないのに。わたしは、お母さんをせめたかった。でも、せめたところで何も満たされない。お母さんをせめて、わたしはのぞみ通り、わたしが一番ヒメの死を悲しんでいることを証明した。けれど、――何も満たされない。
考えれば考えるだけ、自分がむなしくなって、ばしゃりばしゃりと派手に茶色い泥しぶきを自分に浴びせながら、わたしはぬかるみ道を走った。泥だらけになっても、息が上がっても、走った。走った。――走った。
気がつけば、山道。
足が悲鳴を上げて、とぼとぼとした足取りでわたしは裏山に上っていた。何も考えずにはいてきたサンダルがもうぼろぼろで、どろだらけの足に、ぶら下がっているだけになってしまった。ひゅーはー、ひゅーはーとあぶない呼吸をしながらも、足は無意識に裏山を登っていた。わたしとヒメが出会った場所に帰ろうとしていた。
やみくもに走った身体は、だんだんいうことを聞かなくなって、ふらふらとゆれ始めた。――やがて、わたしはぬかるんだ道の上でひざをついて四つんばいになった。雨の終わりを知ったセミたちが、鳴き始めた。今日も今日とて、今日を生きようとやかましくいっせいに、声を上げた。
みーんみんみーん。みーんみんみーん。
もう、命を失ってしまったヒメを取り囲んで、セミたちは命を歌った。
みーんみんみーん。みーんみんみーん。
静かに鼻をすする。ほほをしずくが伝うのを感じるとともに、夏の日差しがわたしの身体をねっし始めた。涙なのか、汗なのか。――わからないまま、動けないでいると、後ろから声がした。
「おい」
ふりかえり、声がする方を見上げた。
「何してんだよ。ひでえかっこだぞ」
鼻水がたれているのが自分でもわかる。身体じゅうに傷があるのもわかる。びしょびしょで泥だらけなのも。なのになぜか、もう守る必要のない、しいくケースには泥がかかっていないことも。
「なんで……、タツヤが……」
「今日、夏休みの宿題する約束だったろ。りおん家行ったら、おまえとこのお母さんが、さっきものすごいいきおいで走っていったから。――はげましてやってくれって……」
「わたし……、ヒメを守れなかった。守れなかったんだよ」
しゃがみ込んだタツヤの肩にそっと顔をうずめた。
背中には雲から顔を出した太陽が、じりじりとてりつけてくるけれど、寒かった。とってもとっても寒かった。
「大丈夫だよ。りおのせいじゃない。――りおは、ヒメのこと大切にしてただろ。だからきっと、ヒメもしあわ――」
「――かんないよ……。わかんないよ! ヒメが幸せだったかどうかなんて! ヒメをひろったのは、わたしの勝手だし! ヒメがひっくり返っていることにも気づけなかったし! いくら、いくら、わたしが自分で大切にしてたって! いくら、タツヤがそんなこと言ったって、わか……。わかんないよっ!」
「――でも、そこまで思えるってのは、やっぱりりおは優しいんだよ。そんな優しいりおと一緒にいれて、ヒメはきっと」
そうだろう。きっと、何回聞いても本当のことは分からないのだろう。
わたしがいくら優しくても、わたしがいくらヒメのことを大切に思っていても、それをタツヤが理解してくれていても、ヒメの足は4本のままだったし。いつかこうなることも変わらなかった。それが遅いか早いか。それくらい。わたしが優しいとか、わたしがヒメを大切にしてたとか、ヒメはきっと幸せだったとか。そんなことばを欲しがって、満たされようとしているのは誰なのか。
――気づいてしまった。気づいてしまったらもう、泣くしかない。
「えっぐ、ひっぐ。うあああ。ああああ。あーあーあー」
とまどうタツヤの肩にすがりついて、おうおうと声を上げて泣いた。久しぶりに。本当に、久しぶりに。ヒメをいたんで泣いているのか、ヒメを守れなかった自分をゆるしてほしくて泣いているのか、そのはざまで泣き叫んだ。ヒメが歌えなかった命を歌うように、わたしは夏のセミになった。
「ねえ、タツヤ」
「なんだ……?」
ひとしきり泣いたあと、どこか晴れた気持ちになっていた。そしてちょっぴりさみしい気持ち。
ヒメと出会ったクヌギの木の根元。ちょっとだけ大きくなったキノコが目印だ。そこのじゅくじゅくになった黒い土を掘って小さな穴をつくった。ヒメがねむるための小さな穴。
「――いろいろありがとう。ごめんね。わたし、タツヤにいっぱいひどいことした気がする」
事実、しただろう。
自分の感情をいっぱいぶつけた。ヒメを守るためとか言いながら、さんざんらんぼうも言った。でもタツヤはそれを優しいと言ってくれた。その優しさが、タツヤに向いているわけじゃないのに。
「――お母さんにも、あとであやまらないとね。怒ってないといいけど」
「お母さんなら怒ってなかったよ。俺をここに行かせたのも、自分じゃなんて声をかけたらいいか分からないからだって」
「そう、本当にありがとう」
おがくずにうまってしまったヒメをそうっと掘り出して、手のひらに乗せる。雨上がりの日差しを受けて、ヒメはその小さな身体を、ぴかぴかとかがやかせた。
「ヒメ……、きれいだよ」
少しかわいて、ふかふかになった土のくぼみに、ヒメをうずめて土をかぶせた。
「ヒメ、おやすみなさい。ありがとう。そして」
わたしはこんもりともり上がった土に、手をひらひらとふった。
「さようなら」
それは、ヒメとともに、わたしのなかを去っていった子供に向けられたことば。その子供は、わたしとそっくりで足が6本生えたカブトムシの絵を胸に抱いていた。わたしだけに見えるその子供が、去っていくのを見送ったあと、すくっと立ち上がる。――わたしの背は気づかないうちに伸びていて、タツヤの背をちょっとだけおいこしていた。
口の奥でなにか苦くて、さみしいような味がした。
「りおっ、服に」
タツヤがわたしの服によじ登っていた一匹の虫をつかまえた。
それはタツヤの指先から、ぴかっと光を放ちながらどこか遠くへと飛んで行った。虹色に光るきれいなタマムシ。
きっとどこか遠くでまた、わたしはヒメとめぐり合う。
それは、わたしに少しの苦い味と傷を残して、わたしを少しずつ大人にしていく。ちょっとだけさみしいけれど、――それは、しかたのないこと。
だからせめて、笑って見送ってやりたいと思った。
「さてと。タツヤ、早く帰って一緒に宿題しよっ」
「お、おう……」
なにかがふっ切れたわたしを見て、タツヤは少しとまどったよう。でも、わたしがもう泣いていないのを見て安心したようにも見えた。その油断をついてわたしは、しいくケースを抱えて家に向かって走った。
「ま、待てよ!」
かわき始めた山道を走るふたり。セミの声に囲まれながら。
みーんみんみーん。みーんみんみーん。