1日目
お母さんは虫が嫌い。
理由を聞いたら、あしが4本より多かったらダメだって。家にいるのは、お父さんとお母さんと、わたしと、そして猫のあかね。みんなみんな、手と足を足せば、4本だ。
外ではうるさいくらいに、セミが鳴いている。
2年くらい前までは、わたしもセミを取っていた。虫取りは今も好き。わたしの部屋には、チョウやトンボをひょうほんにしたものがある。
お母さんは、虫がきらいだから、わたしの部屋に入るときは、それを見ないようにしている。止まっていてもダメなものはダメらしい。
「お母さんっ、わたし、虫取り行ってくるねー」
玄関先でスニーカーをはきながら、ろうかの向こう側。居間にいるお母さんに呼びかける。
「もの好きね。あなた、女の子でしょ」
そう返された。
3年になってから、「女の子でしょ」と言われることが多くなった。たしかに、わたしは女の子だ。どうきゅうせいは、もう虫取りなんて行かない。女の子だけであつまって、電車でまちに出かけてアイスを食べたり、服をながめたりしている。麦わら帽子と、シャツに半ズボン、スニーカーは泥だらけ。そんな虫取り少年のようなかっこうは、わたしくらいだ。
――だけど、わたしが女の子だから、なんなんだ。好きなものは、好きなんだ。そんな気持ちを込めて、ほほをふくらませた。引き戸をわざとらしく、らんぼうにがらがら音を立てて開ける。ばちんと音を立てて、引き戸がはね返ってきた。それをそっと閉めて、裏の山へとかけて行った。
一度、母に聞いたことがある。
女の子は虫取りをしちゃいけないのと。女の子なんだから、女の子らしくしなさいと答えが返ってきた。わたしは、それがよくわからなくて、ただお母さんにはんこうするように、お父さんが買ってくれた虫取りあみと虫かごを持って、裏の山に行く。今年の夏も。だけど――
「りお。なんで虫取りなんかするんだよ」
「女の子が虫取りなんかして、男の子みたいだぞっ」
「悪かったわねー。男の子みたいで、べーだっ!」
女の子が女の子だけで遊ぶようになったのと合わせて、わたしは男の子から遠ざけられるようになった。去年までは、いっしょに虫取りをしたトオルくんや、テツヤくんも、そんな言葉をわたしにかけるようになってしまった。
夏の日差しが暑い。おでこにふつふつと汗がわき出て、背中をつうとしずくが伝った。今日も嫌われた。
じりじりじり。みーんみんみーん。
夏の日差しとセミの声が、わたしの心に、いっそうつきささるようだった。
「――やめろよ」
そしてこの流れがあるから、わたしは遠ざけられても暑い日差しの中、山を登っていく。決まってタツヤがそう言ってくれるから。
こっちに歩いてくるタツヤのうしろで、「あいつらできてんだよ」などとひそひそ話をしている。ますます、わたしのほほはふくれるけれど、少しだけ胸がかゆくなるようだった。
「りお、――行くぞっ」
男の子たちから抜け出て、わたしのところへ歩み寄るとき、タツヤはわざと低い声を出す。ちょっと背伸びした声だ。そして山道では、わたしよりも少しだけ前を行く。背たけが高い草が生えているようなところでは、それをたおして道をつくってくれる。
「りお。そこ気をつけろよ」
足元に木の根っこがせり出しているときは、それをわざわざ言ってくれる。
そんな風になったのは、いつからかな。――わたしに優しくしてくれるのはタツヤだけだ。
他の男の子はみんな、女の子らしい女の子が好きだ。男の子みたいなわたしは、みんなから遠ざけられて、青々とした葉っぱたちを通り抜けてくる木もれ日にてらされながら、入道雲のようなもやもやを胸に抱いている。
「ねえ、タツヤ。昨日ふたりでしかけたの、何か取れてるかな」
「バナナはカブトムシとか、クワガタが寄ってくるんだ。運が良ければいるって」
タツヤと昨日わなをしかけた場所に行く。
森の中のクヌギの木。根元に生えたキノコが目印。その幹にストッキングに入れた古いバナナを巻きつけた。
「見ろよ、りお。いたぞっ」
タツヤのつくった声がとけて、かん高い声が森の中でこだました。
それを聞いてわたしも木の幹に向かって、ふたりでかけっこをするように走った。ストッキングに、ぴかぴかと光った小さな小さな丸い、こげ茶色の背中が見える。
――だけど、もう少しで木の幹にたどり着くところで、タツヤは不満そうに言った。
「ダメだ。メスだ」
しかけたわなにかかっていたのは、カブトムシのメスだった。
カブトムシのメスには角がない。だからかっこよくない。男の子はそう言っていたし、わたしもそうだった。だけど――
「メスのなにがいけないの」
気が付けば、そんなことばが口から出ていた。
「――いや、角がないし、ほら……ケガもしている」
おでこからほほに伝う汗をぬぐう。
タツヤの手のひらの上をよわよわしく歩くカブトムシ。足が4本しかなかった。
「こいつ、もうながくないだろうな」
またタツヤの声が低くなった。
今度は、わたしの前でつくっているからとか、そんなんじゃない。悲しい声の色をしていた。かわいそうだけどと顔をゆがめて、タツヤはカブトムシを木の根元に戻した。
「待って」
そこでわたしは、タツヤを呼びとめた。
どうして、それを止めたのか。自分でもよくわからなかった。
カブトムシは角がないとかっこよくない。そんなこととっくに知っているのに。
「このコ、わたしがめんどう見る」
どうして、そんなことばが口をついて出たんだろう。
「で、でも――、メスだし。足はもげてるし」
「いいよ。ながくないなら、お母さんにけむたがれるのも、ちょっとだけだし」
「りおんとこの母さん、虫苦手だろ?」
「お母さん、足が4本なら大丈夫だし」
「はぁあ?」
タツヤがあきれたような声を出した。足が4本だろうが虫は虫だろと。
全くそうだろう。
部屋にあるチョウやトンボのひょうほんは、ぴかぴかしていてきれいな物ばかり。なのに、お母さんはそれを見ようともしない。生きていて足が動く虫なら、ゴキブリと大して変わらないとでもいうかのように、気持ち悪がるだろう。
そんなことは分かりきっていたけれど。――わたしはそのコを自分の意地を押し通すかのように、虫かごの中へとつかみ入れた。
「わたしが決めたことだから」
「でも――」
「しつこいっ!」
何かを言いかけたタツヤに、大きな声をあびせてだまらせた。――少し、悪いことをしたと思う。やっぱりどうかしていたのだと思う。
帰り道。無言で戻るわたしたち。虫かごの中のカブトムシは、今にも動かなくなりそうで。心配なわたしは、虫かごを顔の前に持ち上げて、あみのすき間から見守りながら山を下った。らんぼうにされたのに、タツヤは相も変わらずに、木の根がせり出している場所を教えてくれた。
「りお、さっきはごめん」
途中で、タツヤがなぜかわたしにあやまった。あやまらなければいけないのは、よくよく考えればわたしのほうなのに。
「なんでタツヤがあやまんのよ」
「い、いや……べつに」
「わたしも、――らんぼう言ってごめん」
わたしの前を行く背中に、虫かごごしに話しかけた。わたしの声を聞いて、カブトムシはおびえるように、足をちぢこめた。
――そのカブトムシには、ヒメという名を付けた。
「コガネムシなんて連れ帰ってきて」
虫がきらいなお母さんは、虫のことはよく知らない。角がないとカブトムシとコガネムシのちがいが分からない。わたしは、ほほをふくらませて「これはカブトムシなのっ」と言い返した。
虫かごをえんがわの日かげになっているところに置いて、2階の自分の部屋に上がる。しいくケースと、おがくずをたなから持ってきた。
えんがわに腰かけて、おがくずをタライの底にしく。きりふきでほどよくしめらせてから、しいくケースにうつす。帰り道でひろった木の枝と、くち木でつくったエサ入れを入れて、虫かごからヒメをそこにうつした。
「ここが新しいおうちだぞっ」
にっこりと笑いかけると、しょっかくをひらひらと動かした。よろこんだのかな。だけど、虫は笑わない。わたしは、虫が笑わないことは知ってた。うちのあかねは、のどをなでるとごろごろと鳴いて、目を細める。けれど、それが笑っているのかはわからない。ヒメも同じ。だから――、わたしは、ヒメが笑っていることにした。
そっとしいくケースの中、くち木で作ったエサ入れに、昆虫ゼリーをはめた。ヒメは落ち葉の上で動かない。
「気づいていないのかな」
きっと、はじめてのゼリーだからこまってるのかな。そう思うことにした。けれど、ゼリーにはにおいがあるから、気が付かないのはおかしいなとも思った。
これ見よがしに、エサ入れにはめたゼリーを外して、ヒメの目の前まで持っていく。
ヒメはゼリーが目の前にあっても、ぷいと顔をそむけてしまう。まるで食べることも、生きることも、こばんでいるみたいだった。
えんがわでセミの声を聞きながら、ヒメの様子を見つめる。ヒメはセミの声にさえ、こわがっているみたいだった。かわいそうに思えて、わたしは、自分の部屋にヒメを連れて帰った。
べんきょうづくえの上に、しいくケースをそっと置く。きっとわずかなゆれでも、ヒメには大事件だと思うから。
かたわらに置いて、漢字ドリルを開いた。
――かりかりとえんぴつを走らせる。ぱきんとしんが飛んで、集中力が切れた。
「きゅうけいっ」
背すじをぐいーっとのばしながら時計を見る。時計の針は、六時半を指そうとしていた。そろそろごはんの時間だ。
べんきょうづくえのかたすみに置いたヒメの虫かご。ヒメはまだごはんを食べていない。くち木でつくったえさ入れにはめこんだゼリーには、ひとかじりしたあとすらない。
かべにかかったチョウトンボのひょうほんに目をうつす。
青い羽がぴかぴかと、部屋の光を反射していてきれいだ。タマムシやアオスジアゲハ。どれもこれもお父さんにおねだりして買ってもらったもの。お母さんには、変なものをほしがるわねと言われたから、お父さんといっしょになって、あっかんべーしてやった。
――いつか、いや、きっとすぐ。ヒメもこのひょうほんのように、動かなくなってしまうのかな。考えたくないけれど、考えずにはいられなかった。
ぼうっとしていると、がちゃりとかぎが開く音が、下からひびいてきた。その音を聞いてわたしはびくんとはね上がった。
「いつもより早いっ!」
階段をかけ足でどたどたと下りる。
お母さんがかわいた声で、「落ちつきなさーい」と言った。けれど、お父さんから今日から休みだと聞いていたから、とても落ち着いてなんていられなかった。
「お父さん、お帰りー」
「ただいま、りお」
「今日から、お休みなんだよね」
「ああ、そうだ」
お父さんはひざを曲げて、わたしと目線を合わせてにっこりと笑った。
うしろからお母さんが、「相変わらずお父さん子ねえ」とあきれがちにつぶやいた。
「あなた、早かったのね」
「なんとか切り上げてきた」
「おつかれ様。ごはんできてるわよ」
鼻をひくひくさせると、ソースと油のにおいがした。
夕飯は、エビフライとポテトサラダ。そして野菜スープだった。
お母さんは足が多い生きものが嫌いだから、エビが出てくるのはめずらしい。
「むきエビが安かったのよ」
「お母さんエビむけないもんね」
「言ったでしょ。足が多い生きものは苦手なの」
お父さんが相変わらずだなと笑った。
「そういえば、りおがカブトムシをつかまえてきたみたいなの。りおは何回かかったことがあるから大丈夫だとは思うけど、あなた、見てやってくれない? ――わたしは、虫のことはよく分からないし、できればあんまり……」
お母さんは虫がきらいだし、さわれないけれど、わたしのことは気にはかけてくれる。対してお父さんは、虫取りをわたしに教えたこともあって、虫のかい方にはくわしい。わたしは気になっていることを聞いてみた。
「お父さん、虫にはおくすりってあるの?」
お父さんはちょっとだけだまってから、悲しそうな顔をしながら、「ないと思うよ」と答えて苦笑いをした。半分くらい、わかっていたことだけど、その返事を聞いて悲しくなってしまった。
「そのカブトムシ、足が4本しかないみたいなの。角もないけど」
「ケガをしたメスのカブトムシか」
そこでまた、お父さんはだまった。うつむいたわたしの顔をちらりと見やり、せきばらいをした。
「ケガをしたのを連れ帰ったのか」
「……、元気になるかな」
ぼそりとつぶやくと、お父さんは「りおは優しいな」と言って、わたしの頭をわしゃわしゃとなでた。
「もげた足はもどらないよね」
「……、かわいそうだけどね」
かわいそう。おとうさんのその言葉が胸につきささった。
わたしはどうしてヒメを連れ帰ったのかな。いくら、わたしが優しくても、ヒメはどうにもならなくて、かわいそうなまま。そう考えると、自分がやったことがどこかむなしく感じた。――そこで会話はやんで、静かな食事になった。とちゅう、気まずくなったのか、お母さんがテレビの話題をした。けれど、あまり続かなかった。
――それから、お父さんと調べものをした。
分かったこと。しゅるいはヤマトカブトムシ。日本のカブトムシは、ほとんどこのしゅるい。そして、元気になるには、やっぱりえいようをたくさん取ってようすを見ることしかないということも。それを聞いて、ゼリーをもう一度見るけれど、減った様子はない。
「ヒメ、食べないと元気になれないだろ、ほらっ」
もう一度ゼリーをヒメの前につきだすけれど、やっぱり食べてはくれない。――ただただヒメが元気になることを願いつづけることができたら、辛くないのかも知れないけれど、こんなときにタツヤの言葉が頭の中によみがえってきた。
『こいつ、もうながくないだろうな』
くもった声。それは、トンネルの中で叫ぶように頭の中にひびく。
ヒメは元気になるのかな。その答えが、どこかで分かっているようで、そう考えてしまう自分に少しだけ腹が立った。
わたしは、考えることがつらくなって、逃げるようにして本棚からファーブル昆虫記を取り出して読みふけった。好きで好きで、もう何度も読んでいる本だ。
学校のみんなみたいにゲームもするけれど、わたしは、こうして図鑑や本を読むのが好き。
ファーブル昆虫記、シートン動物記、どくとるマンボウ昆虫記。魚や恐竜、虫、動物図鑑、写真集。本の外でも中でも、わたしは生きものが大好きだ。
――しばらく読みふけったあと、お風呂で呼ばれて、そこでまたヒメのことを考えた。お風呂から上がる。
忘れていてごめん。そう心の中でつぶやいて、ふたたびヒメの様子を見る。何も変わっていなかった。ちょっとヒメが動いたか、そんなくらい。
あまりにもの変わり映えのしなさに、しいくケースのふたを開けて、たいくつまぎれにおがくずに指をつっこんだりしてみた。しめったおがくずの、ひんやりとした冷たさが指先にまとわりつく。
ずぼずぼ。ずぼずぼ。そして、最後につんっとヒメをつついてみた。
けれど、からかったり、かわいがったりしているというよりは、いじめているみたいな気持ちになってしまった。
「……、わたし、本当に優しいのかな」
優しいってなんなんだろう。
そう考えてしまう自分が、自分で嫌になってきた。それをふりはらうように、わたしは部屋の明かりを消して布団の中に飛び込み、頭まですっぽりと布団をかぶった。さすがに少し暑い。
がばりと布団をめくって顔を出し、ぼやあっと見え始める暗い部屋の中、しいくケースに向かって、「おやすみ」と声をかけた。もちろん、返事はない。わたしは、ゆっくりと目を閉じた。6本の足で元気に木をよじ登るヒメという、かなわない夢をそうぞうしながら。