幽霊屋敷
軋む扉を開くと、カビと埃の匂いがエイルを迎えた。
足を踏み入れるのと同時に、弱々しい明かりがユラリと揺れた。小さな皿に乗せられた蝋燭が、床の上に灯されていたのだ。
人がいることを告げている。エイルは歩み寄り、蝋燭と受け皿を見つめた。溶けた蝋の量からして、それほど時間は経っていない。
隣の部屋だろうか。灯りを取り壁を背にして、ここで自分を待っているであろう人物を探すことにする。長らく人に踏まれることのなかったであろう板張りが、急な来客に驚いて小さな悲鳴を上げる。盗られてしまったのだろうか、大きな棚には物が入っておらず、部屋の中央に堂々と置かれたテーブルには、ヒビの入ったランプが一つ。そして、一生火が灯されることがないであろう暖炉と台所。
初めて来た時と変わっていない。違うのは、共に笑いあった四人が散り散りになってしまったことと、自分が脱走兵となってしまったことだ。
エイルは心の中で自嘲しながら、そろりそろりと屋敷の奥を目指した。土間を右に曲がると、突き当りの部屋から明かりが漏れ出していた。
あそこにいる。手前の部屋は寝室、そして奥の部屋は書斎だったはずだ。警戒しながら、廊下を進んでいく。開け放たれた寝室を覗き見ると、そこは暗闇に支配されていた。
何もないことを確認し、通り過ぎる。あと数歩進めば、そこに誰かいるはずだ。鼓動が早くなっていく。
一呼吸置いてから、半開きにされている戸を静かに押した。
「遅い」
壁に沿うように並べられた本棚がエイルの眼に映るのと同時に、不機嫌な声が耳を突いた。声の主は、入り口に背を向けるようにして、部屋の中央の机に座っている一人の男だった。黒い騎士服を身に纏ったその後ろ姿は――。
「クライド……」
予想はしていた。分かってはいたが、エイルは驚きを隠せずにいられなかった。自分を嫌っていたはずの男が目の前にいることが、信じられなかった。
「走り込みが足りないのではないか? そんなことでは山を下る前に首が転げ落ちてしまう」
「お前も来たばかりだろう」
読んでいた本を閉じて吐き捨てるように言ったクライドに、エイルは低く唸るように返した。
振り返ってエイルの姿を目視すると、彼は机の側に置かれている椅子を指した。
「幽霊には学がなかったようだ。これほどまでの貴重な本の数々を、このままにしておくなんて」
淡々としたよく通る声を聞きながら、エイルは促されるままに椅子に腰掛けた。埃がフワリと舞ったのを気にもとめず、腕を組んでクライドの表情を窺う。彼は眉間に皺を寄せて、蝋燭の炎に照らされる茶の瞳で本棚を凝視していた。
「だが一冊だけ、あったはずの本がなくなっている」
几帳面に整えられた、瞳と同じ色の髪を撫で付けながらクライドは続けた。
「ヨル・ワグニエルの初版本だ。あの時、俺が悩んだ事を覚えているか?」
「ああ、覚えてるさ。何度も詩を聞かされたからな。お前はあの本を持って帰ろうか悩んで、ずっとここを動こうとしなかった。そのおかげで帰りが遅くなったんだ」
揶揄うように言いながら、エイルは昔を懐かしんだ。
クライドは本が好きだった。名家の息子である彼の家には、この屋敷と同じように本が高く積まれた部屋があったことを記憶している。幼い頃から教育を受けていた彼がその部屋で字を教えてくれたことは、まるで昨日のことのように覚えている。
もしクライドに強い正義感がなかったとしたら、子供時代を共に過ごしていないだろう。「拾われた子」と、街の子に馬鹿にされていたエイルを助けたことが、初めて話すきっかけになったのだから。
彼の家族も嫌がることなく、暖かく歓迎してくれた。幼い頃から勝ち気でプライドの高かった彼に、友達と呼べる者がいなかったことが大きな理由かもしれない。優しい母親と、物知りな父親。小さな家に血の繋がっていない祖母と二人暮らしだったエイルには、クライドの家庭はとても眩しく、羨ましく感じられた。
大人になってしまったら、クライドは家督を継ぎ、自分よりも更に身分の高い存在になるのだろう。いつかこんな風に遊ぶことはできなくなるのだと、未来を憂いたこともあった。
しかし予想に反して、彼は家督を継ぐことを拒んだのだ。本に書かれた英雄のように戦い、悪を裁くのだと誇らしげに言った彼の晴れ晴れとした表情は、今でも褪せることなく脳裏に焼き付いている。その時、自分が嬉しいと感じたことも。
「お前だって帰るつもりはなかっただろう。どこかに隠し部屋があって、宝が隠されているはずだと言って聞かなかったではないか」
僅かに声を荒げて、クライドが言い放った。
少しの沈黙の後、どちらからともなく、笑いが零れる。こんなに他愛のない話を交わすのは、何年ぶりだろうか。
エイルは感慨深い気持ちを心地良く感じたが、顔を引き締めて本題に入ろうとした。
「どうして助けた? 俺のことを恨んでいると聞いたが」
「……恨まれるようなことをした覚えはあるか?」
簡潔に、率直に疑問を尋ねたエイルに対して、クライドは掴み所のない答えを返した。まだ本棚を睨みつけたまま、難しい顔をしている。いつも相手の目を見て、はっきりと物を言う彼の性格を知っているエイルは、恐らく何か言い辛いことがあるのだろうと察した。
「特にないな。俺の方から謝る必要はないと思ってる」
その答えを聞いて、クライドの視線がエイルに向けられた。そして、笑い声が上がった。
「本当にお前は変わってないな! 何も知らぬ癖に謝るようなことをしたら、今すぐ両足を切り落として城に連れ帰ろうと思っていた」
「どういうことだ? 言っている意味がよく分からない」
「私はお前を恨んでなどいない。羨んではいたがな」
エイルには彼の言葉の意味が分からなかった。家柄が良く、剣技、馬術、体術の実力もかなりのもの。騎士団内では手際よく部下を統率する。やや高慢で直情的過ぎるのが玉にキズだが、エイルはそれも含めて、物怖じすることなく、裏表のない性格のクライドを羨んでいた。
返す言葉に悩んでいると、クライドがぽつりぽつりと続けた。
「剣の術も早駆けも、お前とは互角だった。それは鍛えれば勝つことができる。だが、私が一生得ることができないものを、お前は持っていた」
「ああ……あれか」
クライドの言葉で、エイルは全てを悟った。恐らく出自が関係すると、祖母から力について言われたことを思い出していた。
「そうだ。お前の魔を払う力。俺が何をしても、手に入れることは不可能なものだ。その力に、嫉妬していた」
眉間の皺を深くして、クライドは続ける。
「少年兵団に入った時、俺は心から嬉しかった。強くなり、そして騎士団長を目指すのだと心に誓っていた。だが、王の視線は俺ではなく、お前に向けられていた。その能力をお気に召されていたのを知っているだろう? 俺はそこで悟った。どれだけの努力をしたとしても勝てないことを。家柄が良いことが、戦いの役に立つか? それに比べてその力は、いつか王を、この国さえ守る可能性だってある。俺は、お前がその力を持って生まれたことを羨ましく、そして憎らしく思った」
重々しく心情を吐露するクライドに、エイルは憐れみも、怒りすらも感じなかった。負けず嫌いで、気位が高い男。何も、誰よりも昔から変わっていないのは、きっと彼の方だ。心からそう思ったのだ。
「お前の今までの態度については分かった。ただそれだけでは、俺を助けた理由にはならない。むしろお前にとっては、俺が死んだ方が良かったんじゃないか? 候補が少なくなれば騎士団長になれる可能性は高くなるだろう?」
クライドは「そうだな」と低く返事をして、重々しく口を開いた。
「お前の言うとおりだ。野盗退治から帰ってお前が捕まったと聞いた時は、驚いたのと同時にそのような考えが過ぎった。それは否定しない。だがその直後に、とてつもない罪悪感が心を覆った。そして己を嫌悪した。たとえ一瞬であったとしても、俺は邪悪な考えを持った。憎むべきはお前の能力ではない。欲深く、愚かな思考を持ったこの弛んだ心であると気が付いた。俺はその夜、後悔の念と焦燥に駆られて一睡もできなかった」
一つ息を吐いて、クライドは更に続けた。
「俺の嫌いなものを知っているか?」
「嘘をつくこと、筋が通らないこと、はっきり物を言わない奴、トマトと、ニシンの酢漬けと、それから……」
「ニシンは克服した!」
昔を思い出しながら指を折って答えていくエイルを遮るように、クライドが声を荒げた。
「まず、王を殺そうとしたという事が疑わしかった。お前が愚直で、生真面目で、不器用なことは以前から知っている。そんな男が、リタばあさんと別れ際にした約束を破るだろうか」
相槌を打つこともなく、エイルは聞き入っていた。
「その夜の警備当番に聞いた話によると、甘い香りと共に強烈な眠気に襲われたそうだ。最初に駆けつけた者は、お前が朦朧としていたと言った。その足元に血の付いたお前の剣と、傷を負った王が倒れていた。そこでまた疑問が浮かんだ。何か分かるか?」
少し興奮気味のクライドは、気を落ち着けるようとしているのか、髪を撫で付けながら言った。エイルは少し考えて、「いいや」と短く答える。
「警備を何らかの薬で眠らせることは可能だろう。俺達はその日の当番など簡単に知ることができる。だが、お前程の剣の使い手が、無防備な王を殺し損ねるだろうか。そしてなぜ朦朧としていたのか。それが疑問だ」
「なるほど。それで?」
「そこで俺は仮説を立てた。エイルは王を殺そうとしたのではなく、守ろうとしたのではないか、と。それならばお前が朦朧としていた理由も想像できる。それだけではない。状況を確認することなく、お前の処刑を一刻も早く行おうと躍起になっている者がいた」
「それは誰だ?」
全く見当が付かず、エイルは尋ねた。言い難いのだろうか、クライドは少しの間エイルから視線を逸らし、口をつぐんだ。そして深く息を吐いてから、呻き声のように呟いた。
「……ノールド宰相だ」
エイルは凍りついた。心臓が動くのを止めてしまったように、血が管の中で固まってしまったかのように、脳が思考をやめてしまったかのように、頭の中が真っ白になり身体が硬直した。まさかその名前が出るとは、一瞬たりとも思いもしなかったのだ。
クライドはあくまでも仮説として、エイルが王を殺していないという答えを導き出していた。だがエイルは、その眼で見たのだ。あの夜、魔術師に王が襲われる姿を。そして牢の中で意識を取り戻した時、エイルは否応なしに悟らざるを得なかった。自分は陥れられたのだ、と。
そしてクライドが自らの心を呪ったように、同じ夜、エイルは自分を悔いた。このような事件が起こる前に異変に気付かなかったこと、そして、王を守ることができなかったことを。
誰の思惑でこのような事が起こったのか、考えずにはいられなかった。牢の中でも、この屋敷まで駆けた時も、ずっとそれが気がかりだった。頭の中に浮かぶ城仕えの者たちは全てが疑わしく、そしてその反対に、全てが有り得ないようにも感じた。
城の中の者を疑いたくはなかった。そして、ノールド宰相の名は一番この事件に関係がないであろうと思っていた。
騎士団長として数々の功績を上げ、王の信頼を大いに受け、民の声を聞き入れることに熱心だった男。宰相として国の政を助けて欲しいと、王が自ら頭を下げた男。時に優しく、時に厳しく、騎士団員を気にかけていたノールド宰相に、エイルは密かに見知らぬ父の面影を見ていた。そんな人が王を殺そうとするなんて、考えることさえ失礼なことのように感じた。
何も発することができずに、エイルは悲痛な面持ちで蝋燭を見つめていた。どこからか入り込んだ隙間風が炎を揺さぶる。
「信じたくないのは痛いほど分かる。宰相は騎士団のこと、特にお前のことを一番気にかけていたのだからな」
暗い面持ちでクライドが言葉を発した。炎を見つめながら死んだように固まっているエイルを見て、彼は大きな溜め息を吐いてから、声を荒げた。
「おい! 聞いているのか!?」
その声でハッと我に返ったエイルは、それでもどこかぼんやりとした口調で「悪い」とだけ返して視線を移す。
「しっかりしろ。俺だって信じたくはない。だがたとえ外の者が主犯であったとしても、城の中に協力者がいることは確かだ」
「……そうだな」
「宰相がお前を今すぐにでも裁こうとしたことは、決して王を殺したことの裏付けにはならない。本当にお前がやったことと思い、怒りに任せての発言という可能性もある。だが今は、疑わしき者を洗い出す必要がある」
腕を組み、熱のこもった口調で話すクライドは、真剣な眼差しでエイルを見つめていた。
「騎士団員として、内部で暗躍する者を必ず見つけ出す。俺は嘘も、筋の通らぬことをする奴も嫌いだ。表の顔で忠誠を誓い、何食わぬ顔をして王を殺すことを画策している奴らがいることなど、許せない。そしてお前が裁かれることも嫌だった。お前が悪事を働いた時、裁くのは俺だ。もしお前がやったのならば、その理由を聞くまでは誰にも殺させない。だから助けた。これは納得できる答えになるか?」
「ああ」
「よし。ならば聞くぞ。エイル、俺の眼を見ろ」
エイルは言われるままに、彼の茶の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お前がやったのか?」
「いいや。俺はやってない」
エイルの返答は素早く、そして言葉はゆっくりと低く放たれた。しばしの沈黙の後、クライドの口角が上がるまで表情を変えることなく、そして視線を逸らすこともしなかった。茶の瞳の中に炎が揺れ、光が根付いているのを見つめていた。
「そうだろうな。聞くまでもない、分かりきっていたことだ」
「それだけで信じるのか? 俺が嘘を言っているかもしれないだろう?」
クライドは高らかに笑った。
「お前の嘘に騙されるのは、赤子くらいだろう! 俺はお前ほど嘘を吐くのが下手な男を見たことがない」
肩を揺らしながら言われたその言葉をエイルは少し心外に思ったが、何も言わずにクライドを見つめていた。先程までとは打って変わって、どこか晴れやかなその表情は、幼い頃、英雄になるとクライドが言った時と同じものだった。
「なあ、ケヴィンはどうした? 大丈夫なのか?」
「このような状況で他人の身を案じるか。本当にお人好しな男だな。もうすぐここに来る。お前をその姿で逃がすなど、魔獣に餌付けしているようなものだからな」
その言葉に、自分の今の格好を思い出す。ボロ布のような囚人服と、長い距離を駆けて乱れた黒髪。手首には縄の跡。一心不乱に逃げていた時は感じなかったが、素足で走ったことで切り傷も出来ている。着飾ることには無頓着なエイルであったが、さすがに今の状態には少々気恥ずかしさと情けなさを感じた。誤魔化すように髪をかき上げて、「さすがだな」とだけ返す。
「まあ、お前ならその力で魔獣を弱体化できるだろうから、いらぬ心配かもしれんな」
何気なく放たれたクライドのその言葉に、僅ではあるが絆されていた緊張と不安が足元を縛る。肩にはまた、重く暗いものが伸し掛かった。友との仲違いが解消されたからと言って、自分が犯人ではないと解ってもらえたからと言って、安心している場合ではない。一人でも理解者がいることは頼もしいが、今の状況が、最悪であることに変わりはない。
「……もう使えないんだ」
「何を言っている?」
クライドが大きく眼を見開いた。その驚く表情に、肩に乗り上げていた情けなさが重さを増す。
思わず項垂れてしまったエイルを、クライドはしばらくの間無言で見つめていた。やがてしびれを切らしたのか、エイルに質問を重ねた。
「意識を失ってから牢の中で目を覚ましたと聞いたが、あの夜に何があったか思い出せるか?」
「ああ、大体は覚えている」
「ならば次はお前が話す番だ。今は少しでも手掛かりが欲しい」
クライドの手がエイルに向けられ、話すことを促される。「分かった」と小さく返事をして、エイルは重い口を開いた。
2/14 一話と二話を繋げました。