逃亡
「これより元セスティア騎士団員、エイル・グラニスの処刑を執り行う!」
執行官の声が響き渡った。その言葉に肩を震わせる間もなく、観衆が騒めく。
エイルは俯いたまま、唇を強く噛みしめた。ジワリと滲んだ血は酷く熱い。胸の内で疼く悔しさと悲しさ、そして怒りが漏れ出したかのようだった。
「違う!」と、今すぐに声を張り上げたい。「俺はやってない!」と、無実であることを弁明したい。だが、できなかった。両腕を拘束する縄の感触が、人々の視線と声が、風で舞い上がる砂埃の匂いが、まるで身体を氷漬けにしているかのようなのだ。脳だけがグルグルと思考することを続けていて、その渦の中を誰にも聞かれることのない叫びが、虚しく流れていくだけだった。
「皆の者、この男は騎士だった。ご存知の方も多いだろう。我が国の誇り高き騎士は王に忠誠を誓い、民のために常に、清く正しく振る舞わねばならない。それは剣を与えられた時から騎士たちの常識となる。だが、彼は過ちを犯してしまった! あろうことか我らが王を殺そうとしたのだ! 王に仕える者の反逆行為、それは何よりも重い罪である。我々はこれより、悪しき心を持つこの者を神の名の元に、そして王の統治の元に裁かねばならない!」
力強く、堂々と放たれた執行官の言葉が脳を揺らす。重く鈍い頭痛を感じながら、それでも彼は自分を奮い立たせようとした。
エイルは恐る恐る頭を上げて、視線だけで辺りを窺った。藍色の瞳に最初に映ったのは四人の兵士。背後には手首を拘束した縄を持つ兵士の他に、二、三人はいるだろうと推測する。それを分厚い壁で覆うように、民の群れ。身動き一つできない状況。
ここから助かることなど、できるはずがない。エイルの胸の内には諦めの思い湧いていた。この場に連れられるまでは、僅かな希望に賭けていた。
「助ける」とだけ書かれた紙片。昨夜、「最後の晩餐だ」と言われて渡された皿の上、ぱさついたパンの下に敷かれていた小さな紙切れ。誰が書いたのかも分からないその一言だけが、彼にとってただ一つだけの希望だったのだ。
だが、それももう落胆に変わった。このような状況で、どうして助けるというのか。あれは悪戯だったのだろう。死を目前に控える者に僅かな希望をチラつかせ、大きな絶望を与える。なんて残酷な奴なのだろうか。エイルは、名も知らぬ紙片の送り主を呪った。
執行官の長い演説が終わろうとしている。民を守るため、国の未来のため、と上辺だけの言葉を挙げ連ね、涼しい顔をして処刑を正当化しようとする。
この国は自分の思っていたよりも、荒んでいたのかもしれない。知らぬところで、何かが蠢いていたのかもしれない。胸には疑念が沸々と沸き起こっていた。無知であった愚かさと悔しさで、無意識に米噛みに力が入る。ジワリジワリと、再び血が滲んだ。
「エイル・グラニス。王の御慈悲だ。最後に言うことはあるか?」
観衆への話を終えて振り返った執行官は、エイルにそう吐き捨てた。目と目がかち合う。犯罪者を蔑む視線。形だけの正義のためには犠牲を惜しまない、冷たい瞳が脳を焼こうとする。不安と悲しさが、怒りに呑まれていく。唇がワナワナと震える。血が顎を伝い落ちていく。目の奥から、何かが込み上がりそうになる。
今まで恩のためと国に仕えていたが、それも今日までだ。何があっても耐えてきた。十歳の頃、追放された祖母と交わした最後の約束だった。この命は国のために捧げようと誓った。祖母と別れた時、王に仕えたその時から、死は覚悟していた。十七年の間、その覚悟と共に生きてきた。
何者かに力を奪われ、王を殺したと無実の罪を着せられ、そして首を両断される。このような憐れで愚かで見すぼらしい最期など、誰が予想しただろうか。
祖母との約束を果たせることなく終わってしまうならば、謝っておきたい。たとえそれが届かなくとも、このような無念で屈辱的な終わりを迎えることを、懺悔したい。
エイルは執行官を見つめていた視線を、赤く染まる夕空に向けた。血に塗れた口を開き、言葉を紡ごうとしたその時――。
ドォォン!!
「なんだ!? 何が起こった!?」
「見ろ! 燃えてるぞ!」
後方で、地を揺らすのではないかと思うほどの轟音が鳴り響いた。驚いた観衆達が叫び声を上げる。エイルは拘束されている身を捩り、何が起こったのかを確認しようとする。だが、それは静止された。
「お、おい! 煙だ!」
「逃げろ!!」
音からして爆発した地点は遠い。エイルはそう推測していたのだが、さらに予想しなかったことが起こった。自分の回りに音もなく煙が立ち始めたのだ。立ちどころに広がり、視界を奪っていく煙と、湧き起こる悲鳴。そして逃げ惑う足音。先程までは彼の最後の言葉を聞こうと静まり返っていた辺りは、突如として騒然となった。
エイルが困惑していると、不意に左肩に重みを感じた。人の手だ。そう思うや否や、手と胴に食い込むほどにキツくしめられていた縄が、するりと音を立てて緩まった。
「真っ直ぐ走れ! 視界が開けたら幽霊屋敷を目指せ!」
肩に置かれていた手に力が入り、耳元で早口に囁かれた。聞き覚えのある声だ。しかし詮索している暇はない。
助けがきたのだ。あの紙切れは悪戯ではなかったのだ。
一度は呪った送り主に感謝をしながら、エイルは痺れる脚を奮い立たせて走り出した。
言われたことに従って、エイルは人混みに向かって直進した。煙で視界は見えず、勘だけが頼りだった。
逃げ惑う人と悲鳴の中をすり抜けるように駆ける。広場から街一番の大通りに出て、そこを更に直進し、畑と牧場の中を更に走った。
農家の人々が手塩にかけて育てた農作物を踏むのは憚られたが、そうは言っていられない。追っ手が来るかもしれないのだ。なるべく踏み潰さぬように、大股に素早く脚を動かす。
煙は随分と薄くなったように思えた。が、それでも異常だった。爆発があったと思われる場所は一箇所だけだというのに煙だけが街全体を覆っているなど、あり得ないのだ。
送り主は一体どんな手法を使ったのか。走り始めた時は一心不乱で何も考えることなどできなかったが、街を出た辺りで、煙のようにもうもうとした疑問が沸き始めた。
エイルは風を切りながら考える。そもそも、あの紙片の送り主は誰か。耳元で逃げろと囁いたのは、おそらく同期のケヴィンだろう。ならば彼が考えたのか。いや、それはない。彼は火が苦手だ。爆弾や爆薬を扱うことを酷く嫌う。
しかし彼には人望がある。真面目で朗らかで、機転の利く男。目付きが鋭く、仏頂面で話しかけ難いと言われる自分と違い、柔和な雰囲気を持つケヴィンは年上からも、年下からも好かれていた。
エイルは、彼を高く評価していた。戦いの技術は自分よりも劣るが、物事を切り開く力は彼に勝つことはできないだろうと、常より思っていた。
そんな彼が頼めば、協力する者もいるだろう。「失敗して罰されるのを厭わない恐れ知らずな者」という前提はあるが、騎士団の中には勇猛果敢な者達など、数え切れぬほどいるのだから。
木々の隙間から漏れる夕陽が、チカチカとエイルの目を差す。気が付けば街道から反れて、森に踏み入っていた。ここを抜け、山に入りまた木々を分け入れば幽霊屋敷がある。
疲労を感じ始めた脚を叱咤する。いつも項の辺りで小さく結んでいた黒髪は振り乱れている。だが休んでいる暇などない。髪に構っている余裕もない。追っ手どころか人の気配すらないが、いつ追いつかれてしまうか分からないのだから。日が落ちきって、夜になれば魔獣も出る。力を奪われ剣もなく、ボロ布のような服しか身に纏っていない。魔獣のいい獲物だ。とにかく目的地まで急がねばならない。
エイルはそこで、ハッとした。
騎士団員の中で山奥にある廃屋を「幽霊屋敷」と呼ぶのは、限られた者だけだと気がついたのだ。
エイルが幽霊屋敷に始めて行ったのは、祖母と離れ離れになる前、九歳の頃だった。主を失った廃屋から、夜な夜な呻き声が聞こえるという噂が流れていたのだ。
貴族の別荘として建てられた屋敷。十六年前に停戦した「コディの戦い」と呼ばれる大規模な戦争の最中、傷を負った主とその家族は、このセスティアの別荘に避難しようとした。
戦いの中心部であったヴィデルシリールから山々に囲まれた、僻地の王国を目指したのだ。男は妻と息子を先に逃し、しばらくしてから自分も後を追って屋敷に向かった。だが、そこで悲劇が起こった。彼が屋敷に着く寸前、妻と息子が使用人の女に惨殺されたのだ。そして、彼がリコンの河で休息を取っていた際、大地震がセスティアを襲ったのだ。この国が戦いから手を引くきっかけとなったと言われる大災害だ。
貴族はその地震で家族に会うことなく命を落とした。荷車が倒れ、中に積まれていた価値のある絵画や装飾品、剣などが河を流れ落ちていった。
妻子を殺した使用人の生死は不明とされているが、噂では主と使用人は不貞の関係にあり、妻と息子が殺されたのは二人の計画によるものであったと言われている。今となっては真偽は分からないが、それからというもの屋敷は曰く付きとなった。
エイルが翌年から国に仕えることが決まった九歳の夏、街を訪れていた商人が屋敷で幽霊を見たという噂が広まった。誰もが気味悪がって近寄らなかった屋敷に、女と子供の幽霊が出るというのだ。
この話はまだ少年だったエイルを奮い立たせた。少年兵になることが決まっていたことも、彼の背を押したのかもしれない。山には近づくなと大人たちに言われていた。しかし、子供達の冒険に対する憧れと未知なる物への好奇心は、その言いつけを容易く破ってしまったのだ。
夜に家を出ることは困難であったため、エイル達は昼下がりに屋敷へ向かった。結局、幽霊を見つけることはできなかった。そして大人たちに山へ行ったことがバレてしまい、街に帰ってから酷く怒られた。
しばらく後、幽霊の噂は作り話だということが分かった。商人が屋敷に盗品を集めて保管していたため、誰も近付けぬように噂を流したというのを、騎士団達が突き止めたのだ。あの時一緒に山へ行ったのは――。エイルは頭の中で、遠い日の思い出を呼び起こす。
屋敷へ行ったのは四人。冒険を称え合い、その思い出として、あの屋敷を幽霊屋敷と呼ぼうと決めた四人。アレクス、カレン、クライド、そして自分だ。
ケヴィンはその翌年に戦乱で失われた故郷から、この国に来た。彼は幽霊の噂と四人の冒険を知らないはずだ。
カレンは父親の仕事の都合で、十一歳の時に街を出た。アレクスは去年の冬、病が悪化して床に伏せていると聞いた。ならば、俺を助けたのは――。ありえない! 彼が自分を助けるなんて、するはずがない!
走りながらエイルは、動揺していた。導き出された答えを、受け入れられずにいたのだ。
昔は仲が良かった。約束も必要とせず、毎日顔を合わせていた。街の中を駆け回るのも、悪戯をするのも、身体の弱いアレクスを馬鹿にするいじめっ子と喧嘩をするのも、何をする時も一緒だった。
疎遠になったのはいつからだっただろうか。気が付けばエイルは避けられるようになっていた。話しかければ、まるで親の敵と言わんばかりに睨みつけ、キツく当たる。そしていつしか騎士団内では、「クライドはエイルを憎んでいる」ということが、暗黙の了解のように当たり前となっていた。
仲違いするきっかけとなるような事はなかったと、エイルは思っている。だが、クライドに直接理由を聞くこともなく、お互い話さぬまま、十数年が経ってしまっていた。会釈どころか、目を合わせることもせずに。
そんな彼が自分を助けるなど、するだろうか。 昔から気が強く、悪を嫌い、不器用な自分と違って、世を渡る術を身につけているあの男が、危険を顧みずに自分を助けるだろうか。
エイルの頭に新たな疑問が浮かんだ。二日前の夜から、彼の頭の中は次から次に現れる疑心でいっぱいになっていた。だが、行くしかなかった。とにかく屋敷に行ってみなければ何も分からないのだから。そう考えながら、エイルは脚を進めた。
夕陽がほとんど沈み、西の空が紫に染まった頃、エイルはようやく屋敷に着いた。
汗が滲んだ額を、撫でるように風が冷ましていく。足音を隠すように、木々が騒ぐ。走っている間は感じる余裕もなかった緑の香りが、エイルの心を僅かではあるが落ち着かせた。
息を整えながら、そろりそろりと音を立てぬように、扉に近づく。
年月が経って質の落ちた木の壁に張り付いて、中の様子を窺う。物音はない。
エイルは細く息を吐き、外れかけた扉を勢いよく押し開けた。