序章
――片翼の鴉は、飛ぶ事をやめるだろうか?
私にはその答えは分からない。でも、きっと抗うことはやめないと思う。
翼をもがれて空を失い、地に落ちたとしても、抗い続けるだろう。
暗い海に沈みながら、私は残った右腕を伸ばす。
その鴉が抗う理由は――
古い歴史を持つ石畳の街。
ここフランスを包む寒気が今日の曇天で更に増しているなか、私が見ているデパートの前には沢山の人々が集まっていた。その人々はデパートで買い物するでもないまま、その中心を見つめている。そこから少し外れた場所に行くと、集団の中心に何があるのかがはっきりと見えてきた。建物を囲む警察と、建物から出てくる人たち。年老いた老人や、赤毛の少女、泣いている子供を連れた家族。
このデパートはついさっきまで、武装集団に占拠されていたのだ。
「…………」
私はその光景を一瞥してから、そこを離れる。裏路地を通り、入り組んだ道を進んでいくとデパートの裏口に出た。そのまま従業員用の扉の周囲に張られたテープをくぐり、入口に立つ警官に話しかける。
「すまない、中に入れてくれないか」
「え? 女の子……?」
まだ若い青年は私を見て、驚いたように首を傾げる。しまった、と私は思うけれど、それは既に遅かった。
「こら、君は一体どこから入ってきたんだい? ここには立ち入り禁止のテープが張ってあったはずだけど、勝手に越えてきたら駄目じゃ――」
「そこの君」
するとそこで男の声が背後から聞こえた。振り返ると、黒い背広を着たサングラスの屈強そうな男が立っている。男は胸ポケットから黒い手帳を取り出して、
「本部の者だ。犯人の身柄を預かりに来た。その少女は?」
どうやら「君」とは私に言ったのではなくて、青年に向けたものらしかった。
「本部の……!? え、ええ。どうやら勝手に入ってきてしまったようで……」
「分かった。ではこちらで処理しておく。君は君の上司の元に行って報告を頼む」
「了解しました!」
青年は敬礼すると離れていく。路地を曲がりその姿が見えなくなる頃、背広の男は周囲を確認してから私に近づいてきた。
「こちらへ。今のうちに」
慣れた動きで仰々しく扉を開け、私に入るよう促す。中に入ると、男も後に続く。
建物の中は静かだった。普段人で賑わっているショッピングモールには今は誰も居ない。そこを進んでいくと、歩く度に足音が反響する。いつもは聞こえる筈のない音は、この状況が異常であることを告げているかのようだった。
しばらく歩いたところで、男が口を開く。
「ブランさん、あまり先行しないでください。フォローしきれませんよ」
「すまない、もうとっくに手配しているかと思っていた」
「申し訳ありません。しかし貴女が巻き込まれたと聞いて肝が冷えましたよ……どうやらご自分で全て解決なされたみたいですが……。そして例の男ですが、こちらでの監視が決定されました。貴女のことを外部に漏らすことはないでしょう。あちらで拘束しています」
話しながら進んで行くと、男は無人のホールの中央を手で示した。
そこに私は向かっていく。一人分の足音。
吹き抜けの中心。手錠をかけられ、足枷を嵌められて蹲る男が一人。
黒い長髪の男は私を見て、口を開いた。
「やあ、どうやら無事だったようだね」
「……ヨハン・エックハルトだな?」
親しげに語りかけてくるその男に、私は聞いた。
建物の外に出ると、人だかりはすっかり減っていた。まだしつこく残っている人もいるけれど、その人影はまばらだった。
今日起きた事件。表向きは警官隊の突入によって解決された、と言われているけど、それは真実ではない。人質の救出。仕掛けられた爆弾の解除。犯人の無力化。
それらは全て、私が行ったことだった。とは言っても、たまたま私用で居合わせた私は、偶然にもこの事件を解決することが可能な力を持っていた、というだけの話。超能力や魔法なんてものでもなく、単純な身体能力と知識のたまもの。
それが出来るように作られた私にとって、当たり前に出来る行為だった。
「……ブラン、か」
ふと、呟いてみる。
ブラン[blanc]。ここフランスの言葉で、『白』を意味するその言葉は形式上、私の名前となっていた。そもそもこれが本名なのか、それとも文字通り形式的な名前なのか。私はそれを知らない。別にこの名前に拘る必要なんてないのだけど、私は自分の感性に期待なんて持てなかった。だから他にいい名前なんて思い浮かばず、私は一応その形式名を自分を示す名として使っている。
まったく、これほど自分に似合わない名前もあったものだ。
「私は……」
と、その時だった。
私の近くに黒塗りの車が停まる。中から出てきたのは壮年の、見慣れた人の姿だった。
「あ……」
「ブラン、大丈夫か?」
「伯父さん……うん、私は大丈夫」
伯父さんは、白髪の混じったブロンドの隙間から汗を滲ませて私を気遣う。伯父さん。私のお世話になった、今もお世話になっている人。
私が唯一、素顔で接することが出来る人。
「ムシュー、あまりお時間は……」
車を運転していた男性が申し訳なさそうに口を開く。
「ああ、すまない、そうだったな。……それで、大丈夫だったかブラン? 怪我はないか?」
「大袈裟だって伯父さん。さっきも言ったじゃない。私は大丈夫だよ」
私は笑うと、車の後部座席に乗り込んだ。伯父さんは「いやでも相手は銃を……」とかなんとか言って、あたふたとしながら私に続いて乗ってくる。私に対して心配だなんて、そんな必要がないのは伯父さんも知っているはずだし、過保護な気もした。それでも、そんな普通の感情を私に向けてくれるのは、とても嬉しいことだと思う。
車が動き出す。石畳の風景が、古風な煉瓦色の街並みが過ぎ去っていく。
普通の人々が暮らす街。日常生活のある世界。
「…………」
ふと服を握りしめると、乾いた音がした。手を突っ込んでみると、それは飴玉だった。デパートに売っていた、ポップな包装紙の安い飴玉。
私はなんとなく買っていたそれを取り出すと包装紙を剥がして、口の中に放り込んだ。 舌の上で転がす。安物の砂糖菓子の表面はざらざらとしていて、風味もなんだか安っぽい。けれど甘いのは確かで、味もそんなに嫌いではなかった。
しばらくの間、私はその甘味の感覚に身を委ねていた。いつの間にか、車は街外れの高台に来ている。その時、視界の隅に何かが映った気がして、私は窓の外を見る。
「……雪、か」
私と同時に、伯父さんが息を漏らす。
外では雪が降っていた。車の窓枠に切り取られた風景は、まるで絵画のようだ。中世の面影を残す街の上には灰色の空が広がっていた。その眼下に、白い子供たちをばら撒いて。
ゆらゆらと舞うように降りていく小さな結晶。見つめて目を細めた私は、ふと考える。
──私と同じ色をしたこの雪はなんのために存在しているのだろうか、と。
少なくとも、誰かを傷つけるためだとか、そんなものじゃないのだろうな、なんて思いながら。