iii.
梅雨も半ばのある日、高野は慧に呼び出された。
昼休み、約束の屋上へ向かう。階段を上りきり、扉を押して外に出た。今日は雨も中休みだ。既に夏と化した青空が眩しく広がっている。目を細めながら辺りを見まわした。屋上では禁じられているバレーボールで遊ぼうとする不届きな女生徒たちを注意した後、扉から少し離れたところにひっそりと立つ慧を見つけた。
「どうしたんだ」
慧は黙ったまま、小さな白い封筒を差し出した。
「何だ」
反射的に受け取りつつ高野は問う。
「霊符ですよ」
慧がいった。高野はぎょっとして、受け取ったものを落としそうになる。
「何だって。大丈夫なのか、おい」
「大丈夫ですよ。触っても何ともないでしょう」
確かにそうだ。
「封印してあるんですよ。あの井戸で思いついたんです。万が一のときは、先生も霊符が必要でしょう。魔物を見る度あんなに驚いてたんじゃ、危なくて仕方がない」
例の、逃げましたね、のときのことをいっているのだ。高野はばつが悪くなる。
「あのときは特別だ。ちょっと考えごとをしてて、ぼーっとしてたんだ」
「これから一生、ぼーっとしないと断言できますか」
「そんなの、できるわけないだろ。おまえな」
慧は高野の言葉を無視して、霊符を指差した。
「それ、口を破ったら封印が解けるから、投げてそのまま逃げてください。すぐ逃げるんですよ。その場にいると、魔物と一緒にダメージを受けてしまうから」
後ろも見ずに逃げろ、ってやつか。三枚のお札みたいだ、と高野は子供の頃に聞いた昔話を思い出す。それにしても、ダメージって──。
「下手したら魔物と一緒に向こうの世界へ吹っ飛ぶ、なんてことはないんだろうな」
「まさか。先生、半分人間じゃないですか。そう簡単に、あちら側には行きませんよ。だいたい、幾ら何でもそんな危険なもの持たせません。それは逃げる隙をつくるだけだ」
慧は淡々とした口調でいう。持たせません、って。おれは子供か、と高野は呆れた。しかし慧は、いつの間にか自分を先生と呼んでいる。高野は少し笑った。
「おまえがそんなにおれのことを心配してくれていたとはな。何かちょっと感激だ」
「実験の意味もあるんです」
慧は軽く肩を竦めた。
「封印って、したことないんで。何か変なことがあったら、すぐいってください」
実験?
高野は再び唖然とした。慧の顔はほとんど無表情に近く、ふざけているのか真面目なのか、さっぱりわからなかった。まったく、かわいげのないやつだ。おれが心配なら素直にそういえよ。思いつつ、ぐっと堪えた。年下の彼に心配されるというのも、また困った話である。
どういってみようもないので、意味なく腕組みをしながら高野は慧を見た。ふと気づく。慧から煙草のにおいが消えかけているようだった。身体を寄せて確認してみる。慧が慌てて数歩退いた。
「何するんですか」
驚いたようにいう。一瞬事態が呑み込めなかった高野だが、妙な誤解をされたらしいとわかり、焦った。
「馬鹿、違うよ。そういうんじゃない」
それから少しおかしくなる。
「ちゃんと普通に驚くんだな、おまえも」
思わず笑うと、慧はむっとした顔になった。
「そういうのって、どういうのです」と応酬してくる。こいつめ。
「いや、煙草のにおいが薄くなったと思ってさ」
高野は笑いを堪えていった。
「禁煙したのか」
「ええ、まあ」
慧はふてくされた表情を見せていう。本当は、随分感情豊かなやつだったんだな。高野は改めて思った。そうだ、これが普通なんだ。
「そうかそうか」
高野は頷く。
「いいことだ。これからは、ストレス解消に煙草なんか吸わずに、おれに相談しろよ。兄貴だと思ってさ」
夏空を映す慧の瞳に笑いが浮んだ。
「兄はちょっと図々しくないですか。おれの兄は、おれと一つしか違わないですよ。どちらかというと、父親との方が年が近いかもしれない」
「馬鹿いえ。おれはまだ二十八だぞ。おまえみたいなでかい子供がいてたまるか。できたの幾つのときだよ」
「教師のくせに素行不良ですね。そんな父親は困りものだな」
「だから違うって。兄貴だといってるだろうが」
いい募る高野をよそに慧はおかしそうに笑っていた。初めて見る楽しげな笑顔だ。高野は不思議な気持ちになる。妙なものだ。魔物と術者が軽口をたたき合うなんて。
誰のいうことも聞かぬ途轍もない問題児に心を許された気分になるものの、実はそんなに立派なものではない。慧は高野に支えられたと感じているようだが、高野の方こそ彼に救われたのだ。何とも情けない話だった。
だけど──まあ、いい。借りを返す時間は、これから幾らでもある。いざというときでなくても、おまえが困ればいつでも手を貸すさ。もちろん、すべて解決とはいかないだろうが、年の功で何とか助けられるときだってあるだろう。いや、年の功といってもあくまで兄貴レベルだぞ、と高野は内心しつこく拘った。
隣で慧は、もう笑いやんでいる。その顔はいつもの無表情ではない。寛いだ穏やかな横顔だった。




