iv.
麻美を連れて職員室に行く途中、職員玄関の前を通りかかったところで、高野が立ちどまった。後ろを歩いていた慧を見る。
「おまえは、このまま帰れ」
高野はいった。
「残ってることも濡れてることも、説明が面倒だ。他の先生たちに見られない方がいい。後のことはおれがやるから」
「そういえば広沢君、何でそんなに濡れてるの」
少し落ち着いたらしい麻美が、不思議そうに訊ねる。高野が困った顔になった。彼女の問いも、どう答えたものかと悩んでいる高野も無視して、慧は二人に背を向けた。
「じゃあ、失礼します」
「あ、おい、広沢」
去ろうとする慧を、高野が慌てて呼びとめた。何ごとかと振り返る。
「風邪ひくなよ」
与えられたのは、ひどく月並みな言葉だった。慧は肩を竦めて歩き出した。
外はすっかり暗くなっていた。校門を出て、ぼんやりと街灯に照らされた道を歩きながら、麻美のことを考えた。彼女はこれからどうなるのだろう。取り組まねばならない問題は山ほどありそうだ。けれど自分にできることはここまでだ、と慧は思う。魔物を逐うことはできても、人の問題や気持ちにまでは手が出せない。仕方なかった。ただ、いろいろな意味で、本当に取り返しがつかない最悪の事態は免れたのでは、とも思う。麻美のことも、それ以外のこともだ。それだけは救いかもしれなかった。
それにしても、びしょ濡れだった。慧は再び自分の姿を見下し、立ちどまった。重くなった学生服を脱ぐ。これはどう言い訳したらいいんだ。制服を軽く絞ると水が垂れ、思わず溜息が出た。しかし実際のところ、気分はそれほど悪くなかった。どうにでもなるだろう、と思い直す。春の終わりの暖かい夜だ。柔らかな空気が髪を撫でていく。風邪だってひくものか、子供じゃあるまいし。慧は高野の言葉を思い出し、少し笑った。
真夜中を過ぎても寝つかれず、慧はまた海へと出かけた。家を出たときには見えていた細い月が、松林を抜ける間に雲に隠れる。暗い夜になった。
砂浜で波の音を聴きながら、ぼんやりする。海は見えない。周囲は底なしの闇だった。
煙草を取り出した。ほぼ習慣的な動作だった。ふと気づく。そういえば、血のにおいがしない。あの嫌な生臭さ──ずっと身体に纏わりついて離れなかったにおいが、いつの間にか消えていた。
妙な気分だった。何か物足りない気さえするようだ。慧は軽く息をつく。これが普通なのか。よくわからなかった。けど、まあいい。慧は煙草を仕舞った。だったら、吸わなくていい。
もう煙草はいらない、といったら祥子に笑われそうだな、と思った。いきなり禁煙なんて、どういう風の吹きまわしかしら、とか何とかいう顔が目に浮かぶようだった。理由も詮索するに違いない。運動でも始めるつもり。あるいは、彼女でもできたのかしら。あるいは──いや、案外、何もいわないかもしれない。これまでだって、黙って煙草を渡してくれていたのだ。いずれにしても、彼女にも感謝しなければならないだろう。
砂の上に座り、目を閉じた。暖かく静かな夜だ。辺りは波の音しかしない。夜の海を漂う船に乗っている気がした。このまま進んで──目的地はどこだろう。それは誰にもわからない。実はどこだっていいのかもしれない。そうだ。きっと、どこだって大丈夫なんだ。慧は思った。このまま何者にも呑み込まれず潰されず、夜明けの光を目指して船は進む。暗闇は希望の前触れなのかもしれなかった。




