iii.
「早川」
慧が呼ぶと、麻美はゆっくり目を開いた。
「広沢君。高野先生も。ここ、学校? 私、どうしたの」
困惑して二人を見る。高野は慧と目を見合わせた。
「覚えてないのか。さっき音楽室にいたんだ」
高野が問う。
「音楽室」
麻美は、いいながら身体を起こそうとして呻いた。
「痛い」
慧が支えて上半身を起こさせた。麻美は血が滲むチーフで包まれた右腕に目をやる。
「これ、血? 私、怪我したの」
驚いていう。何も覚えていないらしかった。
「ちょっと切ったんだ。傷が結構ある。病院で診てもらった方がいい。これから──」
「切ったって、何で」
高野の言葉を遮った彼女は、慌てて辺りを見まわす。
「私、何か持ってなかった? どこかに落として──」
「カッターナイフのことか」
慧がいう。麻美は怯えた目になった。
「カッターなら、おれが預かってる」
高野はいった。
「どうして、あんなもの持ってたんだ。何かあったのか。音楽室で見たとき、かなり取り乱していたようだったけど」
麻美は俯く。
あの人が、といった。それきり黙る。
「あの人って」
高野が訊いた。麻美は俯いたまま頷いた。
「お母さんとつきあってる人」
「ああ」
先日、アパートの駐車場で見た男性の姿を思い出す。三十代後半くらいの体格のいい男だった。
「お母さん、ずっと一人で寂しかったみたいで。それで苛々してて、ときどき私に当たって、叩いたり蹴ったりとか──」
「喧嘩は、嘘か」
慧がいった。麻美は小さく首を振る。
「私も、やり返すことあったから」
「そうか」
「だけど、あの人とつきあってから、お母さん楽しそうで。元気になったし、よかったって思ってたの。でも、あの人、私のこと嫌な目で見てる気がして。私、気づかないふりしてた。違うんだって思って。お母さんにも、そんなのいえないし。そしたら、そしたら今日、あの人、お母さんがいないのに家に来て。帰ってっていっても帰らなくて。家に入ってきたの。怖かった。私、変なことされそうになって、それで私、カッターであの人のこと」
麻美は言葉をとめた。身体が小刻みに震え出す。
「早川」
高野は何といってよいのかわからず、ただ麻美の名を呼ぶ。
「カッターで、どうしたんだ」
慧が静かな声で続きを促した。
「わからない。私、夢中で。見たら、あの人の腕から血が出てて。びっくりして、大きな声で何かいってたみたいだった。私、怖くて、そのまま家から逃げ出したの。その後のこと、全然覚えてない。気がついたら、ここに──。どうしよう、あの人、死んじゃったかな。お母さん、きっと怒る。私、もう家に帰れない。どうしよう」
麻美の頬を涙が伝う。呆然とした様子で、自分が泣いていることもわかっていないようだった。
「心配するな。大の男が、腕を切られたくらいで死んだりしない」
高野はいった。それに、悪いのは向こうじゃないか。それはいわなかった。無責任過ぎる言葉だとも思ったからだ。他人を傷つけた痛みや恐怖が彼女を動揺させたのだ。自身も深く傷ついているというのに。
「とにかく病院に行って傷の手当をしてもらった方がいい。後のことは、それからだ」
慧がいい、高野も頷いた。
「立てるか」
俯いたまま頷く麻美に手を貸して立たせる。
「お母さんに、何ていったらいい?」
消え入りそうな声で麻美が問うた。
「大丈夫だ。高野先生が一緒に会ってくれる」
後ろで慧が答えた。高野は麻美を支えたまま、慧を振り返る。慧は高野を見ていなかった。高野は麻美に頷く。会ってどこまでのことができるかはわからないが、とにかくそうしよう。そう思った。




