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戸を閉める直前に、高野の心配そうな顔が目に入った。随分信用がないんだな、と少し苦笑する。無理もないか。弱いところばかり見られているし。
慧は部屋の隅で蠢く竜に目をやった。動き方が不自然に遅い。今し方被った痛手を、まだ引きずっているのだろう。
高野のいうとおりにできるかどうか、正直なところ100%の自信はなかった。そもそも、竜を完全に殺せるかすら危ういと思っていたのだ。これほど大物の魔物は相手にしたことがない。自分の力がどれくらいのものなのかも、よくわかっていなかった。今まで深く考えたことさえない。魔物を前にすると、いつも無意識に力任せに動いてしまっていた。すべてはあっという間に終わって、目の前にあるのは血に塗れた屍骸だけだった。次にそうなるのは自分かもしれないという怖れとともに、消えていく魔物たちの屍骸をみつめる日々が、本当に終わるのだろうか。わからない。わからないが──。
竜が動き出した。妖気が、覚醒時とは比べ物にならないほど強くなる。風が巻き起こり、部屋中のガラスが震えた。
背筋が冷たくなって、自分が恐怖を感じていることに気づいた。なるほど、と思う。確かに怖い。怖がっている。その上、不安でもあった。高野の顔が不意に浮かんで消える。慧は乱れかけた呼吸を整えた。大丈夫だ。怖くはあるが、自身を徹底的に脅かすほどではない。この怖さをわかってくれる人間が今はいるのだ。とりあえずは、それだけで充分だった。
大丈夫だ。おれは潰れない。
胸元の霊符が輝きを増した。反発するように風が強まる。竜が吼え、落雷に等しい衝撃が何度か走った。机や椅子が次々倒れる。窓ガラスにひびが入り始めた。
怒っている、と慧は感じた。この竜は怒っているのだ。なぜ自分がこんなところに押し込められているのかと理不尽に思っている。同時に、慧を怖れて怯えてもいた。ここから出るために、闇雲にあがき出そうとしているようだった。それらがはっきりとわかった。竜と共鳴しているのか。あるいはそれは、慧の心の奥深くに閉じ込められていた感情の一部なのかもしれなかった。
風は更に強さを増し、倒れた机や椅子を動かす勢いになっていた。雨も混じり始め、部屋の中が濡れていく。慧の周囲だけが霊符の光で守られていた。竜が吼え、ガラスの半分以上が割れ落ちた。結界のせいで竜は外には出られない。竜の怒りと焦りが高まっていく。妖気が濃く重くなり、慧は息苦しさを感じた。
竜の前に霊符を放つ。眩しい光が広がって、風も雨も重苦しい妖気も一気に包み込んだ。最初より少し力を強めたのだ。暫くそのままの状態が続く。このまま退散してくれるか、と思った途端、いきなり押し返された。
息もできない激しい風に飛ばされて、再び壁際まで転がった。振動のせいで、天井近くに据えられていた巨大なスピーカーが傾いだ。不吉な音を立てた直後、頭上に落ちてきたのを危うく避けた。隣で無残に壊れたスピーカーを見て、慧は溜息をついた。高野は、この部屋の荒れようをどうやって誤魔化すだろうか。倒れた拍子にぶつけた左肩を押さえて立ち上がる。額に浮かんだ汗を雨が流していった。竜も部屋の隅まで下がり、鈍い動きでこちらを窺っていた。
また駄目だったか、と思う。もう一度──次が最後の機会かもしれない。こちらの体力も永久に持つというわけではないのだ。さすがに消耗している。慣れていないためもあるのだろうが、力の微調整には思った以上に労力が必要だった。
竜がまた吼えた。部屋が激しく震える。対のスピーカーも落ちた。窓ガラスが更に割れ、破片が床に降る。そんなに怒るな、と慧は思った。おまえは殺さない。必ず元の世界へ返す。あと少しだ。ほんの僅かな力の加減のはずなんだ。
こんなに長時間、魔物とやり合ったことがなかったので考えたこともなかったが、今なら高野のいっていたことも少し理解できる気がした。あの竜の本来の力は、もっとずっと強い。おそらくは慧もまともに太刀打ちできないくらいだ。だが、長いこと封印されていたために、かなり弱っている。元の力の半分も発揮できていないのだ。攻撃も場当たり的だった。押されて、それを撥ね除けるために暴れているだけらしい。それらのことが手に取るようにわかった。そもそもこれは、魔の生き物といっても、直接的に人を襲って喰ったりするタイプの竜ではないのかもしれない、とも思った。
相手を見極めるとは、こういうことなのだ。知っていることではあったし、余裕があれば幾らでも可能なことだ。ただ、この場で落ち着き払ってそれができるのは不思議だった。
もう少し力を加えてみるか──と慧は思案する。こいつは、覚醒そのものは自ら望んでしたことだろうが、好き好んでこんな場所に出てきたのではない。弱ってもいるし、よほど好戦的でない限り、難を逃れたい気持ちが先に働くはずだ。相手が撥ね返せない強さの、しかし死なない程度に加減した力を、抵抗を諦めるまで加える。難しい。傷ひとつつけず、というのは無理かもしれない。だが、やるしかない。幸い、竜の動きはまだ遅かった。今のダメージから回復する前に、続けて仕掛けるのだ。
慧の手元で霊符が白く光り始めた。竜が竦んだ。慧は霊符を放つ。先ほどよりも鮮やかで眩い輝きが竜を包んだ。光の中で相手が激しく抗ってもがくのを感じ、慧は更に力を強めた。眩暈がしそうだった。こっちもそろそろ限界か、と思う。雷鳴のごとき咆哮が聞こえてきた。やがて、それが途切れた。
突然、風雨が静まった。強い妖気が、どこかへ吸い込まれるように消え始めた。霊符の光が収まったとき、闇の生き物の姿はどこにもなかった。慧は竜がいた場所をみつめ、暫く立ち尽くしていた。




