iv.
「広沢! おい、広沢!」
慧は壁に打ちつけられて気を失っていた。呼んでも目覚めない。目を閉じた慧の顔は、普段の姿からは想像もつかぬほど弱々しく、頼りなげに見えた。
やはり自分は愚か者だった──力なく横たわる慧の傍らで、高野は思った。
どんなに生意気な口をきこうが、成績がよかろうが、魔物を逐う力があろうが、こいつはまだほんの十四の少年だ。こんな子供が、魔物の存在と自分の力とに怯え、一人で吐き続けて、煙草なんかで誤魔化しながら必死で生きているというのに。
高野は唇を噛んだ。慧のいったとおりだ。おれは何もわかっていなかった。言葉でいうことなんて何の意味もない。そんなのは、ただの小言に過ぎないんだ。心配しているといって何になる。気にしているからといってどうだというのだ。必要なのは、実際に何かしてやることではないか。具体的な手助けではないのか。
彼が自分を『あなた』呼ばわりする理由もわかった気がした。口先だけの人間を、先生と呼べるはずもない。
こいつを助けてやらなければ。
高野はゆっくりと振り返った。竜が動き出そうとしているところだった。ずっと抑えていた何かが、自分の内で燃え上がり始めた。竜が高野に気づく。強い妖気を感じた。激しい飢えのようなものが俄かに沸き起こってきた。
この妖気。魔物のオーラ。これを奪えば──。
他者のエネルギーを吸収する。今までしたことはないが、できるかどうかと自問する思いは消えていた。これは本能だ。できないはずがない。そしておれの力は、この竜よりも強い。
飢えは抑え切れないものになっていた。魔物の血が目覚めようとしているのだ。闇の気配に触れすぎたせいかもしれなかった。慧を守りたいのか、既に目的がすり替わってしまったのか。そんな考えが頭を掠める。自分が、引き返すことのできない一線を越えようとしているのがわかった。
不意に背後から強く肩を掴まれ、高野ははっとした。
「やめた方がいいです」
慧の声だった。振り返ると、蒼ざめながらも、いつもどおり表情のない大人びた彼の顔が間近にあった。
「一度めは已むを得ずでも、二度めは違うかもしれません。人として生きるよう、お父さんにいわれたのでしょう。その力は使わない方がいい」
高野は我に返った。耐え難いほどの空腹感が嘘のように消え失せる。背後で蠢く竜の気配には、もう怖ろしさしか感じなかった。たった今まで見下してさえいたというのに。
人間の自分に戻ったのだ。高野は深く息をついた。
「おまえ、大丈夫なのか」
掠れる声で慧に問う。
「ちょっと頭を打っただけです。力を抑えすぎた。次は失敗しません」
慧は落ち着き払って答えた。
「今、戸を開けますから、早川を連れて出てください」
「そんなこといったって、おまえ」
慧の胸元が白く光り出した。高野はたじろぐ。
「それ、落ち着かないな」
「だから、ここにいない方がいいんです」
「だって、おまえ一人で」
動き出そうとした竜が、光を恐れて後退する。慧はそれをちらっと見て、高野にいった。
「この間、おれが吐いていたとき、背中を擦ってくれましたね。あれで少し──身体が楽になった。おれはずっと、問題が完全に解決しない限り何も変わらないって思っていたけど、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。また背中を擦ってほしいとはいわないけど、いざというときには助けてくれる手があるのかもしれないと思うだけで違う。だから、今、先生にいなくなられると困るんだ」
何だよ、それ。高野は言葉を失った。こんなときに何をいってるんだ。まるで殺し文句じゃないか。
「ここは、おれ一人でやる。大丈夫ですよ。万が一のときはお願いするかもしれませんけどね。そのためにも、先生は外で待機していてください」
慧は呆然としている高野をじっと見た。
そういわれたからといって──高野は慧を見返しながら思う。ではお任せします、とはいえない。自分にも、やろうと思えばやれるはずなのだ。なのに慧だけに負担をかけ、難事を引き受けさせるなど。それでは立場が逆ではないか。
慧は、再び竜の動向を気にした。高野も同じく見やる。竜はまだ竦んでいた。だが、動き出すのは時間の問題だ。
「確かに、後のことは保証できないかもしれない。けどおれは、これ以上おまえに無茶をさせたくは──」
「おれ自身のためにやるんですよ」
慧はいった。
「そんなに無茶なことでしょうか。この間、いってじゃないですか。やらない限り何も変わらない。ずっと苦しむことになる。そのとおりだと思いますよ」
高野に向けられた慧の瞳は、強い光を帯びていた。見たことのない色だ。これまでの、無自覚な防衛からくる鋭さではない。穏やかな強さだった。
いつの間に、と高野は思った。いつの間に変わったんだ、こいつ。ずっと、ひたすら感情を抑え込み、怖れや不安に気づかないようにすることで心の平静を保ってきたんだろうに。
今は違っていた。今の慧は、自分の強さも弱さも知っている。それらを受け入れ、自らの宿命ともいえる困難と堂々と渡り合おうとしているのだ。
高野は、慧がいった言葉に続きがあったのを思い出した。
──大丈夫だ、おまえならできる。
そうだ、おれがいったんだ。自分のいった言葉には責任を持たなければならない。高野は思った。具体的な手助けができないこの状況では尚更だ。信じるんだ、こいつを。
「次は失敗しないって、さっきいったな」
「ええ、そのつもりです」
慧は微かに笑った。高野は少し呆れる。こんなときによく笑えるものだ。末怖ろしいやつだ。とても敵わない。
「さあ、早く出てください。内輪もめで共倒れなんて真っ平ですよ」
高野の言葉を了承ととったのだろう。慧は高野を急かし出す。
その上、何てかわいげのない態度だ。思いながら、高野は決意する。こいつはやれる。ここは任せよう。信じて見守るんだ。今おれにできることは、それしかない。
「わかった。おれだって万が一なんてごめんだぞ。絶対、失敗するなよ」
高野はいった。もちろん自分のためではない。失敗するということは、慧の命が危ないということだからだ。
「努力します」
いいながら慧は、引き戸を少しだけ開いた。高野は麻美を抱えて教室を出た。




