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v.

 保健室で休んでいけ、としつこく繰り返す高野を無視して、慧は教室に戻った。高野は納得できない様子で文句をいっていた。授業に出るのに文句をいうとは、変わった教師だ。消耗してはいたが、吐き気はもう消えている。今日は体育の授業もない。別に大丈夫だろう、と慧は判断した。

 実際、大丈夫だった。給食も普通に食べることができた。高野がときどき心配そうにこちらを見る。気づかれないように見ているつもりらしいが、残念ながら、はっきりとわかった。慧は高野を見ずに済ませた。とりあえず今のところ、何も考えたくなかった。

 授業が終わる。家に帰ると、奏が玄関で待っていた。

「おかえりなさい」

 駆け寄ってきて、少しほっとした顔を見せる。

「具合、よくなったんだね」

 顔色を見たのか、雰囲気から察したものか。確かに、今朝に比べればずっと調子はよかった。

「心配かけて悪かったな」

 慧がいうと、奏は屈託のない笑顔を見せた。

 いつもどおり奏に勉強を教え、いつもどおり夕食を済ませる。両親は今朝のことは忘れた様子で何もいわない。その後も吐くことはなかった。夜半過ぎ、また海へと出かけた。

 暖かな夜だった。風も弱い。慧は煙草を吸いながら、背に当てられた高野の手の感触を思い出していた。それだけで、なぜかまた、身体中の力が抜けていく気がする。

 本当はいつだって誰かに助けて欲しかったんだ、と思う。心の底からそう叫びたかった。けれどそれは無理な話だ。叶わぬ願いなのだ。誰もこの世界にはやって来られないのだから。そのことに気づきたくなかった。気づいたら自分は、怖ろしさと孤独で潰れてしまう。ずっとそう思っていた。だけど??。

 物思いに耽りながら家に戻る。階段を上りきったところで、慧兄さん、と声をかけられ、慧は足をとめた。廊下の暗がりの中に、奏が立っていた。

「脅かすなよ。起きてたのか、おまえ」

「うん、さっき目を覚まして。兄さんが出て行くのがわかったから」

「ずっと待ってたのか」

「うん」

 家を出てから、どれくらい経ったろう。一時間以上は過ぎているだろうが、ずっとここで待ち続けていたのか。慧は軽い驚きをもって、闇に佇む弟をみつめた。待っている間、眠気に襲われたらしい、やや腫れぼったい瞼の下には、いつもと変わらない心配そうな目があった。高野と同じ目だ、と感じる。真に相手を思いやる気持ちが、そこには宿っていた。

 自らも他者の感情に翻弄され怯えながら、いつだって静かに慧に寄り添ってくれる奏。自分が押し殺していた不安や恐怖を、奏も感じていたに違いないのだ。守らなければと思ってた弟に気遣われていた──奏にそんなつもりはないだろうが──と改めて認識し、慧は暫く言葉を失った。

 一人じゃなかった、と思う。誰だって、自分の問題は自分にしか解決できない。そのことと孤独であることは、別の話だ。今頃気がつくなんて。おかしくなって笑ったら、なぜか少し涙が出た。

「兄さん、大丈夫?」

 奏が腕に縋ってくる。大丈夫だ、というと奏は頷いた。その頭をそっと撫でる。柔らかい髪の毛の感触が心地よかった。

「おまえ、髪伸びたな」慧はいう。「今度、また切ってやるよ」

 人に触られるのが苦手な奏のために、最近は、不器用な母親に代わり慧が髪を切ってやっているのだ。奏は頷きながら笑った。

「兄さん、海のにおいがするね」彼はいう。「それに、何だかあったかい」

 甘えるように奏が抱きついてくる。いつも、そんなに冷たかったのか。思わず苦笑しつつ、慧はしっかりと弟を受けとめた。

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