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iv.

 慧は立ち上がっていた。その勢いに高野は驚いたようだった。冗談じゃない、と慧は思った。おまえならできる、だって。ふざけるな。今やってることで精一杯なんだ。これ以上、何ができる。

「勝手なこと、いわないでくれ」

 思わず声を荒げた。

 怖れに気づいたからといってどうなる。向き合ったからといってどうなる。現実は何も変わらない。誰かが助けてくれるわけでもない。誰も気づかないあの世界で、自分はいつだって一人きりだ。

「あんたに何がわかる」

 高野は気圧されて慧をみつめていた。だがその目には、父や兄めいた深い温かさが湛えられているようにも見える。慧は戸惑った。彼にぶつけたい想いが限りなくある気もしたが、言葉は浮かんでこなかった。

 突然激しい吐き気がこみ上げてきて、慧は口元に手をあてた。高野を押しのけ、部屋から走り出る。急いで近くのトイレへと飛び込んだ。

 今までに感じたことのない、ひどい吐き気だった。昨日の夕食以降何も口にしていないので、出るものはほとんどない。胃液が僅かに上がってくるだけだ。それなのに吐き気はとまらない。喉の辺りが痙攣し、胃が絞り上げられるように痛んだ。苦しい。身体の中身をすべて出してしまわなければ治まらないのではないかと思うほどの苦しさだった。

「広沢」

 高野の声が聞こえた。後を追ってきたらしい。声はやけに遠く、自分が朦朧としていることに慧は気づいた。慌てていたので個室の扉を閉め忘れたと思い当たる。立ち上がろうとしても、身体はいうことをきかなかった。そのまま動けずにいると、背後に高野の気配がした。

「大丈夫か」

 囁くように問う。

 構わないでください、といいたかったが、声が出なかった。高野は屈み込んで、静かに慧の背中を擦った。

「あまり出てないな」

 吐瀉したものを見た様子でいう。落ち着いた声だ。

「朝、食べてないのか」

 慧は微かに頷く。背を擦られて身体の苦痛が和らぐのがわかり、彼は驚いた。吐き気はまだ消えていない。それなのに妙にほっとして、全身から力が抜けそうになった。

 不思議な気分だった。あのとき??音楽室の暗闇の中で、転びそうになって高野に支えられたときと同じだ。今まで誰からもしてもらった試しのないことだった。吐くのは一人でこっそりしていたことだから当然だが、それ以外でも、苦しいときや困ったときに他人の手が差し伸べられるという経験そのものが、慧にはほとんどなかった。日常生活では、他人の支えは必要ないほど出来がよいというせいもある。そして非日常生活においては、たとえ危機に陥ったところで彼を助けられるものはいないのだ。

 弟の奏は、慧の気持ちを察して寄り添おうとしてはいたが、まさか四つも年下の、しかも自身も問題を抱えた弟に頼るわけにはいかない。弟がそうすればするほど、むしろ相手を守らねばという想いが強くなる一方だ。苦痛を察してくれる人間に身を委ねるなど、あり得ないことと思っていた。それなのに??いつの間にか、伸ばされた手にまったく無防備に身を任せている。いつの間にか、高野に気を許したくなっている。不意に慧は、自分がひどく小さな子供になった気がして落ち着かなくなった。

 吐き気はようやく静まりつつあった。慧はゆっくりを身を起こす。高野の手が身体から離れた。

「もう大丈夫ですから。すみませんでした」

 壁に手をかけながら立ち上がった。

「ああ」

 高野が頷く。

「よくあるのか、こういうこと」

 慧は問いかけを無視して、暫く黙っていた。嘘はつきたくなかったが、本当のこともいいたくなかった。

「──さっきも、乱暴なことをいってすみません」

「気にするな」

 高野は黙殺については追求せず、少し笑った。

「あれくらい普通だ。おまえは気持ちを抑え過ぎなんだ。だからこういうことになってる」

 慧は黙ってトイレの水を流すと、個室から出た。

「おれのことは、もう放っておいてください。大丈夫ですから」

 高野の方を見ずにいって手洗い場に行く。鏡に映った自分の姿があまりに憔悴し切っていて、また溜息が出そうになった。

「まあ、そういうな」

 後ろに立った高野も鏡の中の慧を見ていう。

「口はよく濯いでおけよ。胃液の酸で歯がやられると悪い」

 慧は鏡に映った高野を見返した。放っておいてください、ともう一度いおうとしてやめた。 相手の目に、真に慧を思いやる気持ちがあることを認めたからである。

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