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i.

 学校を出た慧は、夕暮れ前の穏やかな陽の下を重い足どりで歩いた。気分が悪かった。先ほどトイレで吐いたばかりだ。その上、余計な会話をしてしまった。慧はうんざりする。高野とのことは思い返したくなかった。

 時間を無駄にはできない。一刻も早く、井戸の中のものを何とかしなければならないのだ。今日の吹奏楽部の諍いとらやらのせいで、中のものの力が少し増したようだった。霊符の効力は、もうぎりぎりだろう。いつまで抑え切れるかわからない。

 だが、今あの井戸に近づくのは危険だった。状態が悪過ぎる。少し落ち着かなければ。

 煙草を吸いたくなったが、この辺ではさすがにまずい。持ち歩いてもいなかった。そういえば手持ちもだいぶ少なくなっている。慧は方角を変え、祥子のところへ向かうことにした。

 マンションに着くと、丁度お客が一組帰るところだった。慧を見た祥子は、あら、と眉を顰めた。

「吸い過ぎの自覚はありますから」慧はいう。

「そうじゃなくて」

 祥子は慧をじっと見た。

「何だか、よくないことが起きているのかしら」

「何か感じるんですか」

「いいえ。慧ちゃんが、とっても疲れて見えるから」

 慧は宙を仰ぐ。

「きっと、勉強のし過ぎですよ」

「あ、そう。頭がいいんだから、そんなに勉強しなくたっていいのにね」

 半分、独りごとのようにいい、祥子は煙草を寄越す。

「無理はしないことよ。私にはこれくらいしかできないから、それ以上はいえないけど。あ、お茶でも飲む」

「いえ、いいです」

「さっきの人たち、ケーキ持ってきたのよ。結構おいしい店のらしいけど」

「甘いものは、ちょっと」

「そうだったわね。どうしよう、あんなにたくさん。持っていかない、奏ちゃんにお土産」

「あいつも、甘いものは苦手ですよ」

「そうだったっけ。子供のくせに何、かわいくない兄弟ねえ。康君は私のこと嫌ってるから、お土産なんていらないだろうし」

「好きも嫌いもないですよ。接触する機会がないんだから。それに兄も甘いものはほとんど食べません。結構好きみたいだけど」

 祥子が康のことをいい出したので、慧は閉口した。兄に土産を持っていくなど、ぞっとしない話である。

「お父さんが厳しいのかしら。そういえば、あの人も私のこと嫌ってるわよね。いつだったか誰かのお葬式のときも、胡散臭そうな目で私のこと見てたもの」

 慧の父親のことまで思い出した祥子は、恨みがましい顔つきになる。

 父が祥子を嫌っているのは事実だった。何も知らないし何も見えない父にとっては、祥子の行為は詐欺同然なのだ。母が慧を祥子のところに出入りさせているのも気に入らず、子供の頃はかなりうるさく妨害してきた。説明のしようもないので、母子は了解したふりをし、その後は隠して祥子とつきあっていた。

「私も嫌いだわ、あの人」

 気持ちはわからないでもないが、息子を目の前にして堂々という祥子に少し呆れる。

「親戚のことをそういうふうにいうのは、どうかと思いますよ」

「あら。じゃあ、親戚をあんな目で見るのは許されるのかしら」

「それは職業柄、仕方ないんじゃないですか。世間一般の評価だ」

「失礼ね。ちゃんと役に立ってるわよ。感謝されてるんだから。それでケーキまで貰ったんじゃない」

「わかってますよ。役に立っても胡散臭いものはあるってことです」

 不満顔の祥子を適当にあしらって、村川宅を辞した。空は赤みを含んだ夕方の色に変わり始めている。ふと思い立って、マンションの向かいの堤防へと足を向けた。階段を上がると、目の前が急に開ける。向こう岸の街並みがやけに遠く感じられた。

 つかの間、静かに流れる川を眺める。吐き気は相変わらず続いていたが、気分は幾分和んだ。慧は堤防を下り、家への道を急いだ。

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