vi.
技術棟に不穏なものを感じたのは、そのときだった。高野はぞっとする。それでも、挙動不審にならぬよう、そ知らぬ顔で職員室を出る余裕はあった。
廊下に出たものの──どうするべきか。高野は迷う。技術棟の方を見た。これは間違いなく闇の気配だ。井戸の中の妖気がまた漏れたらしい。それが闇を呼んだのだ。霊符にも一応の力はあろうが、本来は封印が必要なほどのものだ。何か刺激があれば、効き目が不安定になってもおかしくない。少女たちの諍いだけなら持ちこたえられたかもしれないが──おそらくは血が決定打になった。人の血は魔物を賦活させるのだ。
高野は既に歩き出していた。危険なのはわかっている。また魔物が現れるかもしれない。行くべきではない。行きたくもなかった。そもそも、自分が行ってもどうにもならない。わかってはいる。逡巡しながらも、足はとまらなかった。慧はどうしたろう。気づいたろうか。
状況を確認するだけだ。とにかく行ってみよう。気配を殺して技術棟に近づいた高野は、渡り廊下の端で立ちどまった。棟の中に慧の気配があった。音楽室らしい。闇の気配が強くなる。次いで魔物が生じたことを感じ、高野の二の腕に鳥肌が立った。複数だ。まずい。あいつは大丈夫なのか。
恐れ戦きながら音楽室に近寄り、引き戸を細く開いた。部屋の中央に慧の姿が見えた。そのそばに、人とも獣ともつかぬ、やや大ぶりの魔物が四体立っていた。あんなものが、あんなに出てきてしまったのか。高野は魔物たちに気づかれないよう、懸命に自分の驚愕と慄きを抑えた。
魔物たちも、慧を見て驚いている様子だった。人の世界に来るなり術者に出くわすとは思わなかったのだろう。しかし、まだ逃げ出す素振りはない。一対一なら即座に引き返したろうに──迷っているのだ。数にものをいわせて、勝てるかどうか。
待てば逃げていくかもしれないぞ。高野は思った。迷うこと自体、相手に力が及ばぬ証ではないか。無用な争いを避けられるなら、それがお互いのために一番いい。
だが慧は、彼らにそれ以上の時間を与えなかった。殺気は一瞬で高まった。手元で白い光が輝き出す。
高野は背筋が寒くなった。殺す気なのだ。あいつは、あの魔物たちを──。
意識しないうちに部屋の戸を大きく開いていた。霊符の光のせいで先に進むことはできない。慧が霊符を放った。
「広沢! よせ!」
叫んだときには、すべてが終わっていた。光が消え、闇の気配も消え失せ、魔物たちは床に倒れていた。高野は呆然と室内をみつめる。生臭い血のにおいが漂ってきた。
魔物たちが死んでいるのは明らかだった。ずたずたに裂かれている。身体が震え、高野は戸口に掴まった。血のにおいが急激に濃くなって、酔いそうなほどだった。
慧がこちらを振り返る。学生服の胸や腕の辺りに、黒さが増し、濡れて見えるところがあった。血で汚れているのだ、と瞠目した。
「何で、こんなところにいるんです」
慧が戸口へと近づいてくる。制服の血は魔物たちのものだとにおいでわかった。慧自身は無傷らしかった。
「早く出てください」
高野の脇を通り抜けながら慧がいう。見れば、魔物たちの屍骸は既に消えかけていた。血の跡も薄くなっていく。生臭いにおいだけが、しつこく立ち込めていた。
無言の圧力に操られ、高野は慧の背を追って渡り廊下まで出た。何かいうべきだ、と思った。
「広沢」
呼びかけてみるが、次の言葉は出てこない。慧がちらっとこちらを見た。何の色も窺わせないその瞳に射竦められ、高野は動けなくなる。慧は高野を置いて、一人歩き去った。
暫し立ち続けていた高野は、音楽室にまだ残る魔物の血のにおいを微かに感じた。
慧についていた血は消えただろうか。
──血のにおいもしますか。
生徒指導室で話したとき、慧がいっていた言葉を思い出す。彼はどんな思いで魔物たちを殺したのだろう。高野は慧を追わなかったことを後悔した。




