iii.
「これ、持ってみてくれるか」
「なあに」
麻美は手を出さずにいった。口ぶりは無邪気だが、目は警戒に満ちていた。
「何だか、怖い感じがする」
「そうか。じゃあ、いい」
慧は霊符を仕舞った。高野が麻美の反応に色を失っていた。慧も溜息をつきたくなる。かなりよくない状況だった。彼女は霊符に触れない。魔物の支配下に入りつつあるのだ。これ以上、麻美と井戸の中のものを接触させてはいけない。早めに対処しなければならなかった。
「兎のこと、誰かにいう?」
麻美が不安げに訊いてくる。
「そのことはもう、追求しても仕方がない」
慧はいった。
「それより、その井戸だけど、あまりいいものじゃないんだ。近づかない方がいい。井戸は学校のそばにある。今週一杯は学校へ行かないでくれ」
無駄かもしれないが、彼女が自分で意識できる部分に一応働きかけておく方がいいだろう。まだ現実的な思考も十分働いている。
「何、それ。広沢君、ひょっとして霊感とかあるの」
「知り合いに、そういうのがいるんだ」
ぽかんとする麻美を適当に誤魔化した。
「いうことを聞いてくれるか」
「うん、わかった」
麻美は不思議そうにしながらも頷いた。少しだけ笑う。
「学校に来い、っていうんじゃないから大丈夫」
「学校に来るのは、やっぱり大変か」
高野が横から問うた。こんなときでも、教師としての思考回路は保たれているらしい。
麻美は曖昧に首を振って、
「気持ちは全然、嫌じゃないんです。でも、教室に入ると、ときどき息が苦しくなって、じっとしていられない気がすることがあって。またそうなるのかなと思うと、何か怖くなって、なかなか行けないっていうか。行こう、って思っても、途中で帰ってきちゃったり」
「やっぱり、病院へ行った方がいい」
慧はいった。
「井戸のことが落ち着いたら、ちゃんと行くんだ」
「何だか、広沢君の方が先生みたい」
慧と言葉を選びあぐねて黙っている高野とを見比べ、麻美はいう。またさりげなくかわされたようだ、と慧は思った。
「あ、お母さんだ」
アパートの入口から一組の男女が出てきた。麻美の母親とその彼氏らしかった。建物の前の駐車場に停めてある軽自動車に乗り込む。車は出て行った。
「やっと帰った」
麻美は呟いて車のドアを開けた。
「じゃあ私、行くね。来てくれてありがとう。高野先生も、さよなら」
「あ、ああ」
このまま行かせてよいのか、と迷う高野に構わず、麻美はさっさと車を降りる。ドアの外で二人ににっこり笑ってみせた。素早く背を向け、去っていく。慧は黙ったまま、雨の中に溶け込むように遠ざかる後姿を見送った。




