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サイドミラーに早川麻美の姿が映った。慧は振り返って、ガラス越しに外を見る。煙る雨の中、傘もささずに歩いてくる彼女を認めた。ドアを開け、外に出る。高野も慌てて追ってきた。近づく慧に気づいて、麻美が足をとめた。
「広沢君」
それから高野を見る。
「高野先生も。どうしたんですか」
「昨日、倒れたりしたから、ちょっと心配でな。突然で悪いとは思ったけど、訪ねてみたんだ。さっき部屋に行ったけど留守みたいだったから、そこで待ってた」
車を示して高野がいう。麻美はアパートの方を見やって表情を曇らせた。
「家に誰もいなかった?」
「呼んだけど、誰も出てこなかった。お母さん、いたかもしれないのか」
「わからない。彼氏が来たから、私は外に出たの」
「彼氏って」
「お母さんが、今つきあってる人」
「ああ、そうか」
高野が沈黙する。何といってみようもない様子だった。別に悪いことではない、と慧は思う。離婚しているのなら、麻美の母は独身だ。新しい相手がいたとしてもおかしくはない。
雨が少し強くなった。高野が空を見上げ、車に入るよう慧と麻美にいった。三人は車に乗り込んだ。
「心配かけて、ごめんなさい。だけど私、全然大丈夫ですよ。ホントに、普通によく倒れるんです」
従順に後部座席に座り、麻美はいった。作ったような元気な笑顔だ。いかにも防衛的だった。彼女を見た高野に軽い緊張が走るのを慧は感じた。
「いつからだ」
慧は訊いた。急に問われ、麻美は驚いた目で助手席の慧を見た。
「いつから、倒れたりするようになったんだ」
「よく覚えてないけど──貧血ぽく、くらくらするのは、もうずっと前からで、意識なくなった、みたいになるのは割と最近かも」
「病院には行ったのか」
「前に、貧血っていわれた」
「前って、いつだ」
「中学に入ったばっかりの頃、かな」
「何度も意識がなくなるなんて、普通じゃないぞ。どうして、また病院へ行かないんだ」
「行っても、どうせ貧血だよ」
「身体の痣に気づかれたくないからか」
麻美が黙った。上目づかいに慧を見る。高野が、おい、とつついてきたが無視した。
「見たの」
「昨日倒れたとき、服が捲れた」
「どこ」
「背中と足」
再び沈黙した後、麻美は頬を膨らませた。
「もう! 変な場所じゃない。広沢君てば」という。更に彼女は、高野にも目を向けた。
「先生も」
「え、あ、ああ」
動揺しながら高野が答える。
「もう! やらしい!」
麻美は膨れっ面になった。
「え、いや、すまない。偶然な」
高野は両手をあげ、周章狼狽の態で謝った。こういう反応か、と慧は思った。お願い黙ってて、という態度の方がよかった。これは一層厄介かもしれない。大したことではないと誤魔化すほどに、ネガティブな思いは膨れ上がっていくものだ。
「痣は、なぜできたんだ」
慧は更に質問した。麻美がじっと慧を睨む。
「あれはね、お母さんと喧嘩したの」
「喧嘩だって」
高野が驚いて口を挟んだ。
「いったいどんな。取っ組み合いでもしたのか」
母と娘で痣ができるほどの喧嘩をするなど、高野には考えれない話らしかった。言い訳にしても非現実的だ、といいたげな口ぶりだ。
「二人とも、結構凶暴だもん。お母さん、子供みたいなとこあって、男の人とうまくいかないと私に当たるから。それで私も、わーってなって、物投げたり、何だかよくわかんなくなっちゃうんです」
麻美は他人事のように語る。唖然として聞く高野に、更にいった。
「あ、もしかして先生、虐待とかそういうのだと思って、わざわざ来たの」
「まあ、その可能性もあるかなとは──」
「でも、何で先生なんですか。担任じゃないのに」
「加藤先生は、今日からいないんだ」
「どうして」
加藤が不在の理由をいいづらいのか、高野は言葉に詰まった。慧は再度口を開く。
「もうひとつ訊いていいか」
麻美にいった。
「小学校の兎のことだ」
彼女の顔が強張った。それまで浮かべていた微かな笑みが、中途半端な形で歪む。頬から血の気が引いていくのがわかった。




