vi.
慧は再度呪符を確認した。だいぶ痛んでいる。効力が切れかけていてもおかしくないほどの痛み方だ。封印してから相当の時間が経っているせいだろうか。
「中に何かいる」
高野が怖ろしげに井戸を見る。
「何だ。相当の大物らしいが」
「たぶん、竜か大蛇か、そういったものじゃないでしょうか」
慧はいう。
「井戸にいる闇の生き物といえば、その辺りでしょう。左の呪符は水害を避けるためのものだ。洪水などの水害を引き起こすのも、竜や大蛇なんかの仕業と昔は考えられていたから」
「ああ、なるほど。ちなみに、右の、それは」
「魔のものを封印する呪符です」
「道理で、嫌な感じだ」
高野は顔を顰めた。
高野にも困ったものだ、と慧は思う。魔物は駄目。霊符の類も駄目。どうしてみようもない。
「つまりこの中に、竜か何かが閉じ込められ、封じられているわけか。何だってそんなものを」
「雨乞いのために竜を呼んだものの、その力を制御しきれなくなり封印した、という話を聞いたことがあります。その手じゃないでしょうか」
「昔の人はやることが大胆だな。まあ、時代によって闇の世界の生き物とのつきあい方も違うんだろうな。人の都合で呼ばれて閉じ込められたんだとしたら、何だか気の毒な気もするな」
「あくまで推測ですけどね」
「けど、この気配――封印されているのに、妖気が漏れてるのか」
「呪符が痛んで力が弱くなっているんだと思います。だから気配の感じが安定しなかったんだ。呪符の効力と争って、現れたり消えたりしていた」
「そうか。え、じゃあ、呪符の効き目が切れる、なんてことも」
「あるかもしれません」
「そしたら、どうなるんだ」
「中のものが出てくるでしょうね」
「そんな。どうするんだよ。漏れてる気配で、これだけの闇を呼ぶんだ。本体が出てきたら、どんなことになるか」
「闇の気配だけじゃなく、本体自体が引き起こす被害も心配です。水害避けの呪符が使われているということは、かつて実際に洪水か何かを起こしたか、起こしかけたか──それくらいの力があるはずだ」
「どうする。おまえにどうにかできるのか」
「封印し直すのが常套手段とは思いますが」
慧は黙った。魔物の封印は経験がない。準備が必要だった。
「今すぐには無理です。とりあえず手持ちの霊符で抑えておきます」
慧は高野に離れるよういい、魔物封じの霊符をポケットから出した。封印ほどの威力はないが、それなりの力はある。弱まりかけた封印を、一時的に補助するくらいはできるだろう。
井戸の上に霊符を置く。白い光が放たれ、辺りが明るくなった。高野が何やら声をあげる。井戸が発していた重苦しい妖気が、すっと消えた。それとともに、二人を包んでいた闇の気配も急速に薄らぎ始めた。霊符の光が消え、暗闇も去り、気づけばそこは夕暮れの橙と藍に染まる音楽室であった。
「戻った」
高野が呟き、深く息をついた。恐れをなした様子で慧を見る。
「すごい力だな。全部消えたぞ。これでとりあえず闇が生じる心配はなしか」
「その場しのぎですからね。どれくらい持つかはわかりません。なるべく早く対処しないと」
「また、あそこへ行くのか」
「あなたはもう来なくていいですよ」
「どうやって行くんだ。そんな自由に出入りできるのか」
「場所はこの辺りと重なっていることがわかりましたから、闇の気配を呼び出せば何とかなると思います。置いてきた霊符が目印になるだろうし」
「闇を呼び出す? また危ないことを」
「仕方ないでしょう。やらなければ、もっと危険なことになる」
高野は溜息をつく。
「早く戸締りの続きをした方がいいですよ」
慧はいった。
「一応は大丈夫と思いますが、用心に越したことはない。技術棟には長居しない方がいいです」
高野は、はっとして腕時計を見た。慧も壁の時計に目をやる。既に六時半に近かった。
「まずい。もうこんな時間だ。生徒玄関、閉まってるぞ。おまえ、そこから出ろ」
先ほど自身が松林に下りた窓を示して高野がいう。まだ開け放したままになっていた。
高野に急かされ、慧は不審者のごとく窓から外に出た。気をつけて帰れよ、という高野の声が追ってくる。振り向かずに歩き出した。
封印か、と思う。やればできなくはないだろう。それですべて治まればよいのだが。
何となくひっかかる感じがして、慧はすっきりしなかった。あの呪符はかなり強力そうだった。何しろ今まで、あんな井戸があることを少しも知らずにいたくらいだ。それが時間の経過だけで、これほど急激に弱まるものだろうか。
気にかかることは、他にもあった。早川麻美だ。今回の異変の原因が、井戸の封印が破れかけているせいならば、彼女は無関係のはずだ。けれど麻美は、あの井戸と同じ気配を漂わせていた。なぜだ。そういえば麻美は、兎の話をした後に倒れた。彼女はやはり、兎の件について何か知っているのではないか。
とはいえ、そのことが井戸の中のものとどう繋がるのかはわからない。もう少し調べてみなければ──夕陽の色が消えかけた松林を歩きながら、慧は思った。




