表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/60

iii.

「慧兄さん。入るよ」

 遠慮がちなノックの後、奏が恐る恐るという様子でドアから顔を覗かせた。普段の彼にはない仕草だ。兄が見せたくないと思っているものを勝手に見てしまうことを、怖れているのだろう。けれど心配で堪らなく、そばにいたいとも思っている。

 そんな弟がいじらしくはあったが、傷はその目に触れさせたくなかった。

「助かったよ。ありがとう。後は自分でやるから、大丈夫だ」

 奏は、救急箱を受け取った慧をみつめたまま動かなかった。その目が潤み、涙が浮かぶ。慧は驚いた。

「どうしたんだ」

「怪我、痛いんでしょ」

 ためらいがちに訊く。

「大丈夫だ。おまえが泣くことない」

 実際、痛みはさして感じなかった。それよりも親たちをどう誤魔化すかの方に気持ちがいっていた。

 奏は俯いて涙を零しながら、小さい声でいう。

「僕が代われたらいいのに。そうじゃなくても、ちょっとでも痛いのを貰えたら、慧兄さんも楽になれるかもしれないのに。僕は、わかるだけで何にもできないんだ」

 肩を震わせ、声を抑えて泣く弟に、慧の胸は痛んだ。目を閉じて深く息をする。

 大丈夫だ、もう落ちついている。手を伸ばし、軽く奏を抱き寄せた。

「心配するな。大したことないんだ」

 そっと頭を撫でる。

「ほら、わかるだろ」

 弟は頷いて、手の甲で涙を拭った。

「部屋に戻れよ。おまえ、血は苦手だろ。夕食が食べられなくなるぞ」

 奏は幾らかたじろいだ。慧が笑うと、つられて彼も笑った。ほっとした様子の弟を、慧は部屋から送り出す。その後、傷の手当をした。

 左手の出血は完全にとまったようだった。五センチほどの傷だ。派手に動かさなければ、このままで平気だろう。

 消毒し、ガーゼを当てて包帯を捲く。右頬は何もしない方が目立たなそうだったが、それでは切り傷と一目で知れる。できれば、転びました、という言い訳で切り抜けたい。仕方なく、ガーゼを当て絆創膏で固定した。

 破れたセーターとジーンズを脱いで着替える。少しさっぱりした。よくよく見れば惨憺たる有様だったのだ。奏が不安げな目で見ていたのも無理はない。

 切れた洋服は箪笥の奥に仕舞っておけば、当面隠しておけるだろう。後でこっそり、どこかに捨てればよい。問題はコートだ。よりによって最近買ってもらったものだった。まったく、と思ってみても、やつらが弁償してくれるわけではない(そもそも、もう死んでいるのだ)。古いコートを着るしかなかった。そのうち母親が変に思うかもしれないが、そのときはそのときだ。

 ほっと息をついたところで夕食に呼ばれた。食欲はなかったが、行かないと却って騒ぎになり面倒なので、仕方なく部屋を出る。廊下で一つ上の兄、康と鉢合わせた。顔の絆創膏を見て驚いている。細い縁の眼鏡の奥で、不審げに目が見開かれた。

「何だよ、おまえ。怪我したのか」

「ちょっと、転んだんだ」

「転んだ? おまえが」

 信じられない、という口ぶりだった。慧も我ながら嘘くさいとは思った。運動能力には長けている方で、日頃から、転んだりバランスを崩したりといった不器用なこととは無縁だ。家族もそれは承知だった。

 兄からしてこれでは、両親はどんな反応を示すやら。もっとましな理由を考えるべきだった、と後悔する。やはり自分は落ち着きを失っているらしかった。

「その手もか」

 目ざとく左手の包帯に気づき、康が更に問う。慧は黙って頷いた。

 ドアが開く音がして、二人は振り返る。奏が部屋から出てきた。泣いていた痕跡はもう見当たらなかった。小学二年生という幼さでも、彼にはそういう心得がある。

 何してるの、という奏の言葉に促されるように、康は追及を中断して階段を下りていった。心配そうに自分を見上げる弟に、慧は笑ってみせた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ