iii.
「慧兄さん。入るよ」
遠慮がちなノックの後、奏が恐る恐るという様子でドアから顔を覗かせた。普段の彼にはない仕草だ。兄が見せたくないと思っているものを勝手に見てしまうことを、怖れているのだろう。けれど心配で堪らなく、そばにいたいとも思っている。
そんな弟がいじらしくはあったが、傷はその目に触れさせたくなかった。
「助かったよ。ありがとう。後は自分でやるから、大丈夫だ」
奏は、救急箱を受け取った慧をみつめたまま動かなかった。その目が潤み、涙が浮かぶ。慧は驚いた。
「どうしたんだ」
「怪我、痛いんでしょ」
ためらいがちに訊く。
「大丈夫だ。おまえが泣くことない」
実際、痛みはさして感じなかった。それよりも親たちをどう誤魔化すかの方に気持ちがいっていた。
奏は俯いて涙を零しながら、小さい声でいう。
「僕が代われたらいいのに。そうじゃなくても、ちょっとでも痛いのを貰えたら、慧兄さんも楽になれるかもしれないのに。僕は、わかるだけで何にもできないんだ」
肩を震わせ、声を抑えて泣く弟に、慧の胸は痛んだ。目を閉じて深く息をする。
大丈夫だ、もう落ちついている。手を伸ばし、軽く奏を抱き寄せた。
「心配するな。大したことないんだ」
そっと頭を撫でる。
「ほら、わかるだろ」
弟は頷いて、手の甲で涙を拭った。
「部屋に戻れよ。おまえ、血は苦手だろ。夕食が食べられなくなるぞ」
奏は幾らかたじろいだ。慧が笑うと、つられて彼も笑った。ほっとした様子の弟を、慧は部屋から送り出す。その後、傷の手当をした。
左手の出血は完全にとまったようだった。五センチほどの傷だ。派手に動かさなければ、このままで平気だろう。
消毒し、ガーゼを当てて包帯を捲く。右頬は何もしない方が目立たなそうだったが、それでは切り傷と一目で知れる。できれば、転びました、という言い訳で切り抜けたい。仕方なく、ガーゼを当て絆創膏で固定した。
破れたセーターとジーンズを脱いで着替える。少しさっぱりした。よくよく見れば惨憺たる有様だったのだ。奏が不安げな目で見ていたのも無理はない。
切れた洋服は箪笥の奥に仕舞っておけば、当面隠しておけるだろう。後でこっそり、どこかに捨てればよい。問題はコートだ。よりによって最近買ってもらったものだった。まったく、と思ってみても、やつらが弁償してくれるわけではない(そもそも、もう死んでいるのだ)。古いコートを着るしかなかった。そのうち母親が変に思うかもしれないが、そのときはそのときだ。
ほっと息をついたところで夕食に呼ばれた。食欲はなかったが、行かないと却って騒ぎになり面倒なので、仕方なく部屋を出る。廊下で一つ上の兄、康と鉢合わせた。顔の絆創膏を見て驚いている。細い縁の眼鏡の奥で、不審げに目が見開かれた。
「何だよ、おまえ。怪我したのか」
「ちょっと、転んだんだ」
「転んだ? おまえが」
信じられない、という口ぶりだった。慧も我ながら嘘くさいとは思った。運動能力には長けている方で、日頃から、転んだりバランスを崩したりといった不器用なこととは無縁だ。家族もそれは承知だった。
兄からしてこれでは、両親はどんな反応を示すやら。もっとましな理由を考えるべきだった、と後悔する。やはり自分は落ち着きを失っているらしかった。
「その手もか」
目ざとく左手の包帯に気づき、康が更に問う。慧は黙って頷いた。
ドアが開く音がして、二人は振り返る。奏が部屋から出てきた。泣いていた痕跡はもう見当たらなかった。小学二年生という幼さでも、彼にはそういう心得がある。
何してるの、という奏の言葉に促されるように、康は追及を中断して階段を下りていった。心配そうに自分を見上げる弟に、慧は笑ってみせた。