ii.
生徒たちに下校を促す放送が流れている。慧は生徒玄関を出て、裏手の松林へとまわった。
夏至まで一ヶ月を切った夕暮れだ。鬱蒼とした林の中も、まだ明るかった。技術棟に人影はない。気配を殺して音楽室近くまで行った。辺り一帯には、闇や魔物の気配も、例の妙な気配もないようだった。
やはり駄目か、と思う。完全に手詰まりだ。また何か変化が起こるまで様子を見るしかないのか。それで遅すぎなければよいのだが。
目の隅で何かが動いた。慧はそちらを見る。木の陰から人が現れた。セーラー服姿の少女だ。早川麻美だった。
「広沢君」
麻美が声を上げる。慧は僅かに眉を顰めて彼女を見た。
「もう下校時刻だぞ」
自分のことは棚にあげていう。
「こんなところで何をしているんだ」
「私──」
麻美は困惑した。
「何でもないの。帰らなくちゃ」
方向変換しかけた彼女を、慧は呼びとめた。
「早川の家、小学校の近くだったか」
「そうだけど。どうして」
「この間、その辺りで見かけたから」
「広沢君の家、近くじゃないよね」
なぜか麻美は怯えているように見える。
「親戚の家に寄った帰り。あの小学校で兎がいなくなったって話、知ってるか」
「うん、聞いた」
麻美は頷いて、
「死んじゃったんでしょ。かわいそうだよね」
純粋に同情している顔だ。慧も頷く。
「じゃあ、私、帰るね」
麻美は歩き出そうとした。途端に身体が揺らいだ。慧は駆け寄って彼女を支える。重みがずっしりとかかってきて、完全に意識がなくなったとわかった。
「早川」
慧は何度か麻美を呼んだ。彼女は目を開かない。仕方なく地面へと寝かせた。身体を抱えた弾みで、制服の裾が捲れていた。肌が露出している。直そうとして、慧は手をとめた。脇腹の皮膚が変色している。痣らしかった。黄ばみかけている。少し前についたもののようだ。慧は暫く考え、麻美の身体を動かして背中も確認してみた。そうそう服を捲ることもできないので可能な範囲だけだ。背にはもっと新しい痣があった。他はどうか、とスカートにも手をかけようとしたとき、校舎内に急に気配を感じた。
「広沢。おい、広沢!」
気配の主は音楽室の窓から身を乗り出していた。高野だ。慧は呆れる。さっき危ないといったばかりなのに、あんなところで何をしているんだ。
高野は窓から出てきて林の中に下りた。走り寄ってくる。
「おまえ、何してるんだ」
うろたえていった。
「誰だ、その子。──三組の早川じゃないか。今日、学校へ来てたのか」
「不登校気味らしいですけど、だいぶ休んでるんですか」
「英語の授業は数えるほどしか出てないぞ」
高野は答えてから、慌てて慧を見た。
「じゃなくて、どうしたんだ彼女」
「今、急に倒れたんです」
「倒れた? 大丈夫なのか、救急車を呼んだ方が──おい、何してる」
慧は構わず、スカートを少し捲ってみた。思ったとおり、太腿部にも痣があった。制止しかけていた高野の声がやむ。
「何だ、それ。痣か。ひどいな」
「みたいですね。脇腹や背中にもありました」
「何だって。どこかにぶつけたんだろうか」
「ええ。あるいは誰かの暴力によるものとか」
まさか、という顔で高野が麻美を見下ろす。
「丁度、服で見えないところばかりだ」
慧がいったとき、麻美の身体が動いた。慧はスカートの裾を元に戻す。彼女が瞼を開いた。
「大丈夫か」
慧がいうと、麻美はゆっくり上半身を起こした。
「私、倒れちゃったの」
「大丈夫なのか、早川」
屈んで問う高野にも気づき、彼女は照れたように笑った。
「ちょっと、貧血。いつもなんです、私」
彼女は立ち上がり、制服を掃う。
「ごめんね、びっくりしたでしょ」
慧にも笑顔を見せた。慧と高野も立ち上がる。
「家の人に迎えに来てもらった方がよくないか」
心配そうに高野がいった。
「もう平気。一人で帰れます。じゃあ、さようなら」
彼女は小走りに、夕日で染まる松林を抜けていく。逃げるようなその後姿を、慧はじっとみつめた。
「大丈夫なのかな」
眉根を寄せて高野が呟く。
「走ってますから、身体は大丈夫だと思いますけど」
「身体は、ってどういう意味だ」
高野が慧を見る。彼にはわからなかったようだ。慧にははっきりと感じられていた。麻美はごく僅かではあるが、技術棟で感じたのと同じ、あの妙な重苦しい気配を漂わせていたのだ。




