ii.
家に戻ると、弟の奏が玄関に走り出てきた。部屋から外を眺め、兄の帰りを待っていたのだ。いつものことだ。だが今日はいつもの笑顔がない。おかえりなさい、の言葉もなかった。
「慧兄さん」
心配そうに腕に縋ろうとする。歩いてくる姿から異変を察したのだろう。慧は慌てて身を引いた。
「触るな。大丈夫だから」
二人は──何というか、とんでもない兄弟だった。兄の慧にはこの世のものではない闇の生き物が見え、弟の奏には触れたもの(人でも物でもだ)に残っている感情や記憶が見える。
慧は何とか普通に社会生活を送っていたが、奏はその能力のせいで、幼稚園も学校もほぼ行けず仕舞いで過ごしている。そんなナイーブな弟に、今し方体験したばかりのあの光景を見せたくはなかった。
だが奏は、既に慧に触れていた。ほんの一瞬の接触だったにも関わらず、かなりのことがわかったらしい。奏の顔が蒼ざめた。
普段なら、そんなに簡単に読まれたりはしない。自分が動揺していることに、慧は初めて気づいた。
「僕、救急箱取ってくる」
小声で奏がいう。慧は溜息を抑えて頷いた。わかってしまったものは仕方ない。弟を気の毒に思いつついう。
「母さんたちに見つからないように頼む。部屋に行ってるから」
奏は頷いて玄関を離れた。
慧はそのまま二階へと上がり、自室へ行った。手当てをしても傷があるのは一目瞭然だ。幾ら子供を信頼(あれを信頼というのだろうか)している親たちでも妙に思うだろう。どう誤魔化したものか。破れたコートや服の始末もあるし、頭が痛い。
もっと幼い頃はよかった。いや、よかった、といっては語弊があるかもしれない。それでも、今よりはましだった。
初めて魔物に遭遇したのは生まれて間もない頃だったという。慧自身は覚えていない。見えない何かが慧を部屋の隅へと引きずっていこうとするのを、母が目撃したのだと聞いた。
その手の力はない母も、さすがに変だと思い、従姉妹の祈祷師、村川祥子に相談した。祥子は魔物封じの霊符を渡してくれた。
彼女の祈祷師としての力はごく弱いものだったが、その頃は慧の力も弱かったので、それで充分、魔物たちから身を隠すことができた。四、五歳くらいまではそれで済んでいた。成長とともに力は強まった。やがて、祥子の霊符では魔物を防ぐことができないほどになった。
魔物たちが狙うのは、すべての人間ではない。ネガティヴな感情を抱き過ぎて闇の気配を引き寄せ、人の世界と闇の世界の境界へ入り込んだ人間や、生まれつき魔物を見る力を持っている人々である。
魔物を退ける力を持つ、術者と呼ばれるものたちも、ときに魔物に狙われる対象となった。術者の力が強ければ魔物は近づけない。狙われるのは力の弱い術者たちだ。術者には、普通の人間より心身のエネルギーが高いものが多いらしい。魔物にとっては、多少の危険を冒しても襲う価値のある獲物というわけだ。
慧には、その術者としての力があったのだ。自身の霊符では危険を防げないと判断した祥子は、試しに自ら霊符を作ってみることを慧に勧めた。これが驚くほど効いた。すなわち、術者であることの証だった。
もうこの道から逃れられないと悟った祥子は、幼い慧に様々な知識を与えた。当面は霊符で身を隠すこともできようが、いずれ力が増せば、それも難しくなる。もっと積極的な手段が必要になるかもしれない。祥子の力では、そこまで実技として伝えることはできなかった。早いうちに基礎的な知識を吸収して、後は自分で何とかするしかないわ、と彼女はいった。
学校でそうであるように、慧は祥子にとっても優秀な生徒だった。じきに非力な師匠を超えた力を発揮するようになった。それが厄介ごとの始まりでもあった。
自分で作る霊符ですら身を隠しきれない力となっても、術者としてはまだ不充分だ。要するに魔物たちの格好の獲物である。逃げまわるにも限界があり、結局は力任せに反撃して──その日のようなことになったのだ。