ii.
理由は薄々わかっていた。考えないようにしながら授業をこなす。高野は英語教師だ。海外に行ったことは一度もないが、耳がいいせいか英語の発音は抜群によかった。午前の最後は、三年二組の授業だった。高野が手本として教科書を読み上げた後、順に生徒たちに英文を読ませていく。これ以上神経をすり減らしたくないので、慧には引っかからぬよう指名の順番を工夫していた。気を抜くと考えごとに沈みそうになる自分を戒めて、授業は滞りなく進む。こういうときでも自動的に仕事ができてしまうのだ。これはもう、特技といってもよさそうだった。
問題は昼休みだ。給食が終わり職員室に戻ると、隣の席の琴江が話しかけてくる。何ということはない世間話だ。なのに、それだけでもう落ち着かない。高野は会話の切れ目を狙って、そっと席を立った。
とぼとぼと廊下を歩き、職員室から離れた。校舎の一番奥へと向かう。音楽室や美術室などがある部分だ。別棟になっていて、体育館を間に渡り廊下で繋がっている。技術棟と呼ばれるその建物の端には非常口があり、そこから裏の松林に出ることができた。この時間に人がいることはまずない。高野は着任して間もなくそのことを確認し、一人になりたいとき密かに訪れていた。
松林で兎の骨が発見されたと聞いた後は、魔物の仕業を疑い、用心のため近づくことを躊躇って、他の場所を探さねばと思っていた。その件は、犯人が大人でも子供でも学校や地域にとって由々しき事態ということで、高野たちのところにも注意を促す連絡がまわってきたのだ。だが、野次馬根性の木村に誘われて嫌々ながら骨が落ちていたという場所まで行ったところ、魔物の気配は感じなかったため、再度利用することにした。なにしろ学校内には一人で過ごせる場所がほとんどない。勤務中だから文句はいえないものの、高野にとってそれはなかなか苦痛なことだった。
体育館で遊ぶ生徒たちの騒めきを耳に、渡り廊下を歩く。琴江と話すとなぜこんなに落ち着かないのか。彼女が特別高野に好意的だとは思わない。高野が彼女に惹かれているというわけでもなかった。そういうことではないのだ。そうではなく──。
それは、いつも考えないようにしていたことだった。その実、高野の心の奥底に深く根を張っていること。高野の人生における、今ひとつの大きな課題であった。
高野が他人との深いつきあいを避けるのは、闇の気配を引き寄せないよう気持ちの平穏を保つためや、自身の異質さを他人に悟られないためだけではなかった。誰かと親しくなって長期間長時間一緒にいることになったら、無意識に相手を害してしまうのではないか。高野はそのことを怖れていた。両親のことがあるからだ。
高野の父親は闇の世界の生き物だった。オーラ・ヴァンパイアと呼ばれる、他者のオーラ──生体エネルギーのようなものだ──を吸って生きる魔物だ。
しかし父は、母と出会って彼女に惹かれた。母も父を受け入れた。二人は一緒に暮らし始めた。それから父は、人間のオーラを奪わずに生きるようになった。飢えは、人用の食事と、時折吸う魔物のオーラでしのいでいた。人の食事は、あまり役立っていなかったらしい。魔物のオーラはそれほど好みではない、と聞いたこともあった。ひょっとしたら、いつもどこかで満たされない空腹感を感じていたのかもしれないのだが、父はそんな様子は少しも見せなかった。