v.
川からの風が吹いてくる。夕暮れにはまだ早いというのに、やけに冷たい風だ。慧は学生服の中で身を竦ませた。
家に帰る途中、通りをひとつ外れて例の小学校へ行ってみた。中に入るのは目立ちすぎるので、周囲をまわることにする。金網越しに空っぽのグラウンドを眺めた。子供たちはとっくに下校したようだ。辺りにも人影はなかった。静かだ。犬の鳴き声ひとつしない。歩いているだけで怪しい人物と思われてしまいそうだった。慧は気配を殺しつつ、グラウンドの向こうに目をやる。立ち並ぶ校舎の片隅に兎小屋らしきものが見えた。
魔物がいた様子は特に感じられなかった。だが、わからない。襲われたのは小動物だ。魔物の仕業としても小者だろう。それほど強い妖気は残らなかったかもしれない。時間も経ち過ぎている。既に気配が消えている可能性もあった。要するに、魔物かどうかの判別は難しいということだ。仕方ない。無駄足になることは予想していた。念のためだ。
帰ろうと方向転換しかけた慧は、少し離れたところを歩く人の姿を認めた。不意に現れた人影は、足音も立てずにひっそりと進んでいく。少女だった。中学生くらいの。見覚えがあった。
あれは──三組の早川麻美だ。一年のときに同じクラスだった。制服姿しか見たことがなかったので、咄嗟にはわからなかったのだ。ほっそりした身体にジーンズにパーカーという少年めいた服装を纏った麻美は、影のように歩いていく。
何だか嫌な感じだ、と慧は眉を顰めた。随分と沈んでいる。闇の気配こそないものの、暗い感情に支配されているのは明らかだった。彼女は最近不登校気味だと、女子たちがいっていた。こんなところで何をしているのだろう。麻美はこの小学校出身だ。家はこの付近だったろうか。
彼女は慧には気づかず歩き続ける。夕闇の中に吸い込まれ、少しずつ見えなくなった。慧は、幻影じみたその姿をみつめていた。
同じクラスだったとき、麻美はどんなふうだったろう。記憶を辿ってみる。どちらかといえば明るく元気な少女だったように思う。あまりに元気過ぎて、そう見せたいのだろうかと感じたこともあった気がする。欠席はあまりなかった。一年の終わり頃、彼女の両親が離婚したと聞いた。その後のことは、クラスが分かれたのでよくわからない。不登校が始まったのはいつ頃からなのだろう。あんなに暗い有様となっているのはなぜなのか。
もしや麻美は、兎の件に関係があるのではないか。慧は溜息をついた。無闇に疑うのは問題だ。そうだとしても、魔物絡みでなければ手の出しようもない。踵を返し、歩き始めた。いつの間にか、辺りには夜気が漂っていた。
家に帰り着くと、玄関で奏が待っていた。おかえりなさい、と笑う。人懐っこく邪気のない笑顔だ。そのせいで年よりも幼く見える。ただ、奏がそんな笑顔を見せる場面は限られていた。
学校には相変わらず、ほとんど行っていない。以前よりも更に行けなくなっているのだ。ごくたまには、何を思ったか出かけていくときもあるようだった。そんな日は、戻った後、ひどく怯えた様子で部屋に閉じこもっていた。慧が帰ってきても出迎えない。部屋を訪ねると、泣いていたらしい目を伏せて、そっと慧に縋ってきた。その頭を静かに撫でてやると、ようやく少しほっとした顔になるのだった。
奏には、いったいどんな世界が見えているのか。他人の感情や記憶──慧は想像してみる。あの怯えようだ。愉快なものであるはずはない。おそらく魔物同様のおぞましさなのだろう。あるいは奏の能力が、人の持つ暗さに特によく反応するのかもしれない。
こんな子供に酷な話だ。見ないためには触れないようにするしかない。そうするともう、どこへも行けなくなってしまう。日中、奏が家で何をしているのか、慧は知らなかった。広沢家には、子供がいる家に大抵あるようなゲーム機や漫画の類は一切ない。『世界名作全集』ならばあるが、まさか一日中それを読んで過ごしているわけでもないだろう。
いずれにしても、夕方になると自室の窓から外を眺めて、慧が帰ってくるのを待っている。その姿を認めると、玄関に下りてきて兄を迎えるのである。
「悪い。今日はちょっと遅くなった」
奏は気にしていない様子で首を振った。慧は服を着替えて、奏の部屋へ行った。
夕方はいつも、奏に勉強を教えてやっている。勉強も嫌いではない奏だが、何より兄と過ごす時間が好きで、楽しみにしているらしかった。慧の学年が上がるにつれ、二人が一緒に過ごせる時間は減りつつあった。奏は特に不満もいわない。よほど不安定なとき以外は寂しげな顔も見せず、一時でも一緒にいられれば、それはそれで満足というふうだ。
執着しないのはいかにも彼らしい。不可思議な能力に囚われさえしなければ、奏は穏やかで優しく、拘りのない人間だ。賢く物覚えもよいので、普通に学校に行っていれば教師の覚えもさぞめでたいだろうと思う。もっとも、本人にとってそれがいいのかどうかはわからない。当たり前に学校へ行き、勉強し、友達と遊びまわる生活──それは幸せなものだろうか。
最後の部分がどんな感じなのかは、実のところ不明だった。慧にも友達というものはいないのだ。いつ魔物に出会うかわからない身では、他人と親しくする余裕はないに等しい。なるべく余分なエネルギーを消耗しないよう、必要以上に人と関わらず、目立たず静かに過ごすのが常となっていた。
「今日、庭に猫が来てたよ」
勉強の合間に奏がいう。
「二匹。飼い猫と野良なんだ。仲がいいんだよ。猫の行動範囲って、結構広いんだね。あれって、この近くの景色じゃない気がする。どこだろう」
後半は独りごとだ。上方に視線を泳がせ、何かを思い出している。猫から見えた記憶だろうか。なぜか、動物には人よりも気軽に触れるらしかった。
奏の能力は年々強くなっている気がする。前はもっと漠然とした見え方だったはずだ。あるいは、見えたものを識別して言語化する力が上がったせいで、そう感じるだけかもしれない。うまく制御して使いこなせるなら、自分の力よりよほど役に立ちそうだ、と思ってみたりもする。ないに越したことはない、という点では、どちらも同じだろうが。
一階から母親の声がした。夕食だ。授業の時間は終わりだった。
「また明日ね」と奏がいう。二人は揃って部屋を出た。