iii.
四月が終わり、ゴールデンウィークも飛ぶように過ぎた。青く澄んだ空とは裏腹に、教室内は倦怠感でどんより沈む五月の朝だった。慧は、近くの席の女生徒たちが興奮して囁き合う声を聞いた。
「でね、小屋の外に血が垂れてたんだって」
「嘘。本当に」
「ホントホント。うちの弟、わざわざ見に行ったんだから」
「見たの、血」
「見たって」
「何か、動物とかじゃないの」
「だって、金網は全然破れてなかったらしいよ。掛け金もかかってたって。だけど鍵はないから、外から簡単に開けられるんだよ」
「変なの。何で鍵かけてないの」
「だって、毎朝子供たちが世話してるから。いちいちどっかに取りに行くの、面倒くさいんじゃない」
「そっか。じゃあやっぱり、人ってこと」
「やだ。変質者とかじゃない」
「わかんないけど、ね、怖いでしょ」
「兎、どうなっちゃったんだろうね」
チャイムが鳴った。彼女たちは興奮したまま各々の席に戻る。高野がやって来て、朝のホームルームが始まった。
慧は窓の外を見たまま、今の会話について考えを巡らした。話の中心になっていたのは野村詩織だった。彼女の弟は、確かまだ小学生だ。ということは、今の話は小学校で飼っている兎のことか。
会話から察するに、兎がいなくなって、小屋の外に血の跡があった。小屋には動物が無理に入った痕跡はなく、人の仕業ではないかと思われている??ということか。弟が見に行った、というからには、ちょっとした騒ぎとなっていたのだ。近所で兎の屍骸でも見つかれば、地域のショッキングな事件として話が広まりそうである。
兎小屋には、直ちに鍵がかけられるだろう。人の仕業なら、とりあえずそれで被害の拡大は防げる。兎がまだ残っていれば、の話だが。
あるいは人ではなく??慧は思った。魔物の手によるものかもしれない。世間で起こる陰惨な事件や出来事の中には、ときに魔物や魔物に憑かれた人間によるものが混じっている、と慧には感じられていた。調べられはしないから確実なところはわからないが、まず間違いないだろう。
闇の世界は日常のすぐ近くにある。魔物に出会うことなく一生を過ごす人々も、魔物の仕業を垣間見ることはあり得るのだ。だからといって慧に何かができるわけではない。ただ、自分の身近で起きた出来事が魔物によるものだとしたら、用心は必要だ。場合によっては、対処もしなければならない。もっと大きなことに発展する前に。
他にも似たようなことが起きているとすれば、注意を喚起する知らせが自治会から家にまわってくるかもしれない。学校でも噂が流れるだろう。暫くは気を配っている方がよさそうだ。
窓の外に広がる平和そのものの眩しい空を眺めながら、慧は考えていた。