融ける 解かれる
「俺の女に手ぇ出すなや。このダボが」
「知らなかった、から……」
一人の女を挟んでにらみ合う、男が二人。
女を抱きこんだほうの男が、見せ付けるように彼女のこめかみに唇を寄せる。
ドラマのようなその光景に、ツキンと心が痛む。
どうして、そこにいる”女”は、
私じゃないのだろう。
にらみ合う”男”は、二人とも
私が惚れた男だというのに。
********
自分で言うのも、どうかとは思うけど。
物心がつく頃にはすでに、自分が”キレイ”といわれる顔をしていることに気づいていた。
幼稚園でも、小学校でも。男の子は、私が笑いかけると真っ赤になる。大人たちは、目を細めて頭をなでてくれる。
そして……
「ねぇ? おねがい」
そう言えば、なんでも思いのままになった。
ブランコの順番も、折り紙のキレイな色も。
世界の全ては、私のもの。
思い通りにならないことに出会ったのは、小学校三年生のときだった。
お正月、いつもの年と同じように着物を着せてもらって行った、お祖父ちゃんの家。
見たことのない男の子がいた。
「誰?」
「小林 義弘。おまえは?」
「室谷 洋子。って、だから、なんでお祖父ちゃんのところにいるの?」
「俺の祖父ちゃんでもあるから」
お祖父ちゃんの孫は、私だけ。だから、お祖父ちゃんたちは、何でも私の言うことを聞いてくれたのに。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃねえよ。今まで、ここには来れなかった、それだけのことだぜ? 祖父ちゃんの名前だって、俺と同じ”小林”だろうが」
と言われて、負けた気がした。
「ま、おまえとは従兄妹ってことだな」
よろしくな、と笑った義弘に、私は初めての恋を知った。
おせち料理をつつきながら、なんとなく大人の話を聞いたところによると。
長い間ケンカをしていた、義弘のお父さんとお祖父ちゃんが仲直りできたので、義弘は生まれて初めてお祖父ちゃんの家に遊びに来ることができた。お祖父ちゃんは、義弘が産まれたことすら知らなかったから、私がただ一人の孫だと思っていた、ってことらしい。
そして、義弘の家が同じ中学校の校区内にあるという事も。
早く、中学生になりたいなぁ。義弘と一緒の学校に行きたい。
学年も同じだから……一緒のクラスになったりして
そのくらい近所に住む従兄の存在と、芽生えた初恋のくすぐったさに、お雑煮の汁に映った顔がにやけている。
なのに
「もう、兄さんたら。信じられない。あんな女との間に息子まで! それも、洋子と同じ中学に行くなんて!」
「まあ、落ち着けって」
「これが、落ち着いていられますか!」
その日、家の玄関を入ったところで、お母さんが喚きだした。まるで、お祖父ちゃんの家に飾ってある鬼のお面みたいな顔。お父さんは仕方ないなぁ、って顔で聞きながらコートを脱いで、ネクタイを緩める。
「洋子に中学受験をさせるわ!」
いやいや、したくないし。私、バカだし。ムリムリ。
「どこに、そんな金が有るって言うんだ」
「お父さんにだしてもらう!」
拳を握り締めたお母さん。その後ろで必死でバツ印を出している私を見たお父さんが、”わかった”って頷く。
「まだ、洋子は三年生だし。追々考えて行けばいいから。とりあえず、部屋にはいろう、な?」
そう言ってお父さんは、玄関横の和室へ入ってしまった。私も、キーキーと喚き続けるお母さんを放っておいて、廊下の突き当たりのドアを開ける。
テレビの置いてある寒い部屋に入って、ストーブのスイッチを入れた。
「冗談じゃないわ。あんな女に負けてたまるもんですか。新築分譲の戸建てが、何よ。兄さんが、がんばったんでしょうが。それを、自分の手柄みたいに。私だって、お父さんから援助してもらえば、こんな団地の一室じゃなくって……」
私の着物の帯を解くお母さんから、ブツブツとおまじないみたいに言葉がこぼれてくる。怖くなった私は、下着のまま服を抱えて、お父さんが着替えている和室へと逃げた。
「ねぇ、お父さん」
ブラウスのボタンを留めながら、訊いてみた。
「うん?」
「お母さん、伯母さんと義弘のこと、嫌いなの?」
「うーん」
ステテコの上から部屋着のズボンを履きながら、お父さんが困ったような顔で笑う。
「私、義弘と遊べて、楽しかったのになぁ」
「そうか。洋子は、義弘と仲良くなったか」
「うん」
セーターからズボっと顔を出したお父さんが、私の頭を撫でる。
「久しぶりに伯母さんと会って、お母さんもびっくりしただけだよ。きっと」
「そうかなぁ?」
それだったら、いつもみたいに『お願い』したら。お母さん、中学受験を諦めてくれるかなぁ。
けれども、どんなに『お願い』をしても、お母さんの決心は変わらなかった。
やりたくも無い受験勉強に、塾へと通う。
勉強なんてしたくないし。塾への行き帰りの電車では痴漢にあったり、酒臭いおじさんに囲まれて怖かったり。
最低。
あの初対面の日から、卒業までの三年間。
お祖父ちゃんの家で、お正月に会う以外にも、義弘と顔を会わせる機会は何度もあった。
隣の小学校、なんだから。”ちょっとした遠出”のつもりで行った公園ですれ違ったり、義弘が学校対抗のサッカーの試合に来ていたり。
「昨日の”鷲小”との試合。小林にまたやられたんだよな」
少年野球をしているクラスメイトの話題にも、時々、鷲野台小学校 ー通称、”鷲小”ー に通っている義弘の名前が出てくる。それを、女子の会話を聞いているふりで、聞き耳を立ててみたり。
そんな努力も、あと少し。
春になれば、同級生。
合格ラインには程遠い、と塾の先生に言われながらの受験には、当然のごとく落ちた。
やった。
受験に落ちて、喜ぶのは、私くらいなもんだろうけど。
それでも、違う意味で私にも春が来た。
一年生のクラスは、残念ながら一緒にならなかった。私が一組、義弘は五組。
入学式で顔を合わせた伯母さんとお母さんは、にっこり笑ってすれ違った。
その翌日。
放課後の廊下で、義弘に呼び止められた。そのまま、人気のなくなった一組の教室へと戻る。
「洋子さ、叔母さんになんか言われた?」
「何か、って何?」
「俺とはしゃべるな、とか」
「義弘、そんなこと言われたの?」
「まあな」
「あの二人、仲悪いよね?」
顔を合わせる機会を最低限にしようとしているらしく、お母さんと伯母さんが顔を合わせるのはお正月だけ。いつだったか買い物の途中で伯母さんの姿を目にしたお母さんは、わざわざ遠回りをして帰った。
「叔母さんのこと、『あのブラコンが』って、うちの母さんは言ってた」
「はぁ?」
ブラコンって……。
「うちの両親、どうやら駆け落ちだったらしくってさ」
「お祖父ちゃんとケンカしてた、って。それ?」
「それ。母さんに言わせると、叔母さんが有る事無い事吹き込んだせいで、祖父ちゃんが結婚に反対したってさ」
なにやってるんだか。
我が親ながら、ため息しかでない。
「で? 洋子のほうは?」
義弘が詰襟の首元を気にしながら、尋ねてくる。
「義弘にだけは、負けるな、って」
受験に落ちてから、耳にたこができるほど聞かされたお母さんの言葉を口にすると、義弘もため息をついた。
「負けるな、ってなぁ?」
「ねぇ? どんな勝負よねぇ?」
中学受験をしたとはいえ。そもそも、落ちる程度の頭しかなかったわけだし。
だからといって、少年野球のエースと、体育で勝負になるわけないし。
「モテ度でも、競うか?」
「馬っ鹿じゃないの」
そう言いながら顔を見合わせて、笑う。
お母さんの、馬鹿。
娘の初恋まで、邪魔しないでよ。
それからの中学校生活は、『負けるな、負けるな』という雑音に耳をふさぎ続ける毎日だった。
ただ、学校の中にまではお母さんの目も、伯母さんの耳も届かないから。休み時間に、チラッと会話を交わしたり、テスト前の図書室で一緒に勉強したりした。
二年生の時だけ、一緒のクラスになれて。キャンプや文化祭で撮ったクラス写真が私の宝物になった。
ただ……その頃、だったか。
”インモラル”という言葉を知った。
血がつながっている者同士の恋愛が、許されるものではないと。
”ブラコン”と呼ばれているお母さんの想いと同じく。
私のこの恋は、許されない。
苗字が違う私たちが従兄妹同士だとは、同級生の誰一人として気づかないまま。もしかしたら、先生も知らないまま、三年間が過ぎた。
そして、高校生。
義弘は、野球の推薦で県外の私立高校へと行ってしまった。私は、中の下くらいのランクの市立高校。
「洋子の勝ちよ! 公立高校に入れたんだから!」
合格の証書を、誰よりも喜んだのは、お母さんだった。
喜びのあまり、正月でもないのにお祖父ちゃんの家まで押しかけて、義弘一家と鉢合わせをしてしまうほど。
「あら、兄さんたちも来てたの」
「ええ。義弘が県外に行くでしょ? お正月も練習で、帰ってこられないみたいで。しばらくお義父さんたちとは、顔を合わせられなくなるから、ご挨拶に」
伯母さんの答えに、『あんたに聞いてない』ってお母さんが小さな声で毒づく。
「洋子も義弘も、志望校に入れて、よかったなぁ」
「本当にねぇ。義弘君が来るって聞いたから、ほら、お祝いに、アップルパイを買ってきてたのよ。洋子ちゃんも来てくれて、丁度良かったわ。あなたたち、好きでしょ?」
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、そんなお母さんたちの諍いに気づかない風で、私たちに声をかけてくる。
義弘がニコッと笑って、テーブルに身を乗り出す。
「ホントだ。祖母ちゃんありがとう」
「じゃぁ、私、紅茶いれるね」
そう言いながらお台所へと行きかけた私に、お祖父ちゃんが手招きする。
「今日の主賓だからな。二人はこっち」
「そうよ、洋子ちゃん。お茶はお祖母ちゃんが淹れるから。そっちで義弘君と座ってなさい」
並んで座った私たちの隣で、お祖父ちゃんがタバコに火を付けた。
その日。テーブルの下で、そっと手を重ねてきた義弘。
彼と触れ合ったのは、それが最初で
最後だった。
高校時代、私は義弘のことを忘れようとして、結構遊んですごした。
それでも忘れられなくって。
夏と春の高校野球の季節は、お母さんの目を盗んで新聞の記事をチェックした。
義弘の高校は、三年間一度も甲子園の土を踏むことは無く。私も、彼の姿を目にすることは無かった。
そんな私でも、大学生になった。
お祖父ちゃんの家には、高校生になってから、お正月にすら行かなくなっていた。どうせ、行ったところで、義弘は来ていないしって。
律儀に顔を出しているお母さんによると、義弘は西隣の県の大学に入ることが決まったらしい。甲子園に行くことは無かったとはいえ、強豪校のレギュラーという野球の腕が評価された、とか。
「ふん、野球しか能がないのね。怪我でもしたら、終わりじゃない」
いっそ、怪我して再起不能にでもなればいいのに、と、呪いの言葉を吐くお母さんにうんざりして。
通えなくも無い距離の大学だけれども。私は一人暮らしをはじめた。
お母さんから離れて、制服も時間割も無い生活。
『人間って、こんなに自由だったんだー』って大きく深呼吸をする。
そして、束の間の自由を満喫するべく。高校時代に輪をかけて、遊ぶ。
トミィと出会ったのは……共通の友人を通じて、だったと思う。
流行に敏感で、誰よりも美人な彼女とは妙にウマが合った。
その彼女が企画した合コンで、私は一人の男子と出会った。
「ユキです。よろしくー」
そう名乗った彼は、垂れ気味の目で笑っていた。
トミィの彼氏と一緒にバンドを組んでいるという彼は、方言交じりの言葉をしゃべっては、合コンの席を盛り上げていた。
「楽器? ドラム叩いとるねん」
そう言って、テーブルをトコトコ叩いて見せた。
その笑い顔も、方言も。なんだか、いい。
この子が、欲しい。
「ねぇ、ユキ。私と付き合わない?」
「ごめんなぁ。俺、彼女居るから。他の奴に、聞いてみて?」
「ええぇー。ねぇ、じゃあ、一回だけデートしよ? ね、おねがい」
これで落ちない男はいなかった。
なのに。
「洋子さん。自分の彼氏が、よそでそんなこと言われとったら、嫌やないん?」
って。
私との話を切り上げたユキは、そのまま座を盛り上げる方に熱中して。最後まで、私のほうを見なかった。
結局、その合コンで私が付き合いだしたのは、ユキのバンドでベースを弾いているサクとだった。
サクと付き合いだして、一月と少し経った頃。ユキの彼女と出会った。
バンドの練習の後。一緒にスタジオの廊下を歩いていたサクが、ロビーに出たところで一人の女の子に声をかけた。
どこかオドオドしたその子の表情に、古い記憶が浮かんでくる。
あれは中学二年生の時、だった。
義弘と放課後の教室でしゃべっていて。その邪魔をしたクラスメイト。
名前は、たしか……
「ハイジ?」
そう。”いつも『はい』としか言わない、ハイジ”と呼ばれていた子。本名、なんだったっけ?
ハイジが、首をかしげるように私を見つめる。
ちょっと。私のこと、忘れたとか言うわけ。あんたより、格段に存在感があったと思うけど?
「室谷 洋子だけど」
「あ」
驚いたような声を上げたハイジの視線が、床に落ちる。
「どないしたん?」
廊下から姿を現したユキが、ハイジの肩に手を置いて、耳元に顔を近づける。
ひそひそと話し合うその姿に、ハイジがユキの彼女だと分かった。
ハイジとは中学の同級生で、とかそんな話をしていても、ハイジはやっぱり『はい』としか言わない。これなら……ユキは、私のもの。
『ねぇ、譲ってよ』『はい』って、ね?
ユキとハイジを切り離すチャンスを作ろうと、二人をご飯に誘う。
珍しくハイジが返事を濁した。
この勝負、もらったわ。
『私と一緒にご飯に行くのが嫌なら、ユキだけでも貸して』とお願いする。
けれども、勝利の確信はもろくも崩れた。
私の”お願い”に答えたのは、ハイジじゃなくって、彼女を大事そうに抱きかかえたユキの方だった。
「ハイジはユキと離したら、病気になるねんで」
って。なによ、それ。
その上、追い討ちのように、横で聞いていたサクまで同意するし。私は、世界名作アニメの話、してるんじゃないわ!
私の負けん気に火がついた。何が何でも、ユキを手に入れる。
そのためにトミィに協力してもらって、仲を取り持ってもらう算段をしたり、ハイジを牽制したり。
あの手この手を使ったけれど、結果は芳しくなく。
そのうちに、サクとは別れることになった。トミィも彼氏と別れてしまって、ユキとのつながりは完全に切れた。
まあ、いいわ。
義弘とのつながりが切れて、ユキと出会ったように。
きっとまた、新しい出会いはやってくる。
新しい彼氏と二年参りの約束をしていたその年の暮れ、お祖母ちゃんから電話がかかってきた。
〔洋子ちゃん、お正月は来る?〕
〔ごめんねぇ。友達と初詣に行く約束してるから〕
〔そう〕
電話越しに、ため息が聞こえる。
ごめんね。でも、伯母さんとお母さんの静かなバトルなんて見物に行きたくないの。それよりは、彼氏と……ね?
〔洋子ちゃん、成人式でお着物、着るのでしょう?〕
〔うん。夏ごろにね、お母さんに買ってもらったの〕
〔らしいわね。洋子ちゃんが振袖を着ているところ、一度見せて欲しいな、ってお祖父ちゃんと言っててね〕
〔……〕
〔お正月に来れないんだったら、成人式の日に、義弘君と一緒に晩ご飯食べに来ない? お祖母ちゃんたちにも、お祝いさせて?〕
『義弘と、一緒に』って言葉に、気持ちが一気に前向きになる。
そして。
〔大人同士のお祝いの席にしましょうね〕
〔おとな、どうし?〕
〔二人も大人になるのだから、もうお母さんがついて来なくっても、いいんじゃない?〕
〔わかった。式が終わったら、行くわ〕
〔本当? じゃぁ、たくさんご馳走、作るわね〕
はしゃいだようなお祖母ちゃんの声に別れを告げて、電話を切る。
成人式、か。
中学校の卒業以来、数年ぶりに義弘に会える。
「洋子」
成人式の会場は、鵜宮市内のホール。丙午の翌年に産まれた私たちの学年は、結構人数が多い、とは聞いていたけれど。ここまで、市内に”同級生”がいるとは思っていなかった。
そんな人ごみの中で呼ばれた名前に、振り返る。
義弘、だ。
高校・大学と野球で進学先を手に入れてきた彼は、中学校の時とは比べ物にならないくらいがっしりとした体つきになっていた。
それでも一目見た瞬間に、『彼だ』と、迷いも無く心が叫ぶ。
「久しぶり。元気そうだな」
「まぁね。野球、がんばってるって?」
そんな会話の最中に、同じ中学校の野球部だった子が五人、彼を見つけて声をかけてきた。
ひさしぶりだなんだと、挨拶を交わしながら、彼らはチラリチラリと隣にいる私を見ている。
「もしかして、室谷さん?」
そのうちの一人が、やっと気づいてくれた。
「ええ。ひさしぶりね」
「うわ、ホントだ。室谷さんだ」
「なによ。誰だとおもったわけ?」
「いや、元からキレイだったけどさ。いったい、どこのモデルかと」
「そう? 着物のおかげよ」
「いやいや。『きれいな人は、よりきれいに』だよ、な」
そんな”うれしがらせ”を言っても、なにも出ないわよ。
って、やっぱりうれしい。
一人が義弘に体当たりをしながら、からかいの言葉をかける。
「小林も、ナンパのつもりで声かけて、びっくりってか?」
「いや、別に。そんなに変わったか?」
きょとん、とした顔で答える義弘が改めて、私を上から下まで眺めて、首を傾げる。
「うーん。そうか? 中学と同じだと思うけど……」
ひどい。朝から、美容院で着付けもメイクもしてもらったのに。『大人っぽくなった』くらいのこと言いなさいよ。
膨れた私に、なだめるような顔で同級生が言ってくれる。
「ぜんぜん、違うって。なぁ?」
「ありがとう」
特別サービスで笑いかけると、相手が赤くなった。義弘が横で舌打ちをしたのが聞こえて、ちょっとすっきりした。
長かった式典を終えて。
「小林、飲みにいかねぇ?」
一緒に並んで客席に座っていた野球部の面々が、そんなことを言い出す。
「いや、俺は約束があるから」
「おぉー。デートか?」
「まあな」
「じゃぁ、室谷さんは?」
「私は、お祖母ちゃんの家で、お祝いしてくれるから……」
義弘とチラリと目を合わせる。
皆には知れない秘密を共有した、懐かしい笑いが口元に浮かぶ。
そんな彼と並んで、ロビーに通じる階段を下りる。
歩きにくいなぁ。着物って。
少しイラつきながら、最後の段を降りた。数歩、歩いた私の横を、同じように振袖を着た女の子が、スルリと追い越して行く。
なんで、あんなにスムーズに歩けるのかしら?
そんなことを思いながら眺めた彼女が、玄関口の方へと体の向きを変えた。白いその横顔がこちらから、見えた。
「あ、ハイジ」
「はいじ?」
隣で義弘が怪訝な声を出す。
「ほら、中学校の同級生に居たじゃない? ”『はい』しか言わないハイジ”って」
「……ああ、灰島か」
そんな名前だったっけ? って。なんで、覚えているのよ
「どこに?」
「ほら、あそこの……」
指差しで示した彼女の姿に、義弘が首をかしげる。
「あんな子、だったか? 人違いじゃねぇ?」
「人違いなんかじゃないわ!」
憎い恋敵の顔を間違えるもんですか。
「おい、ハイジ」
歩み寄りながら義弘がかけた声に、ハイジの足が止まる。
歩きにくい着物姿の私と違ってスーツを着ている義弘は、数メートルの距離を一息に縮めて、こちらを振り向くこともしない彼女の肩を掴んだ。
「無視するなよ。ハイジ」
ノロノロと振り向く彼女に、私も近寄る。
素人目にも私の着物とは格が違うのがわかる上等な着物に身を包んだハイジは、確かにセーラー服の頃とは別人のようだった。
ああ、そうか。この子みたいなのっぺりした顔って、着物に映えるのよね。それに、相変わらずの俯き加減の視線が、大和撫子の雰囲気だし。
「久しぶりね。ハイジ」
「……はい」
蚊の鳴くような返事がかろうじて聞こえた。
「洋子、よく分かったな。絶対、人違いだって思ったのに」
「馬子にも衣装って言うけど。化けたわよねぇ。私も去年、逢わなかったら分からなかったかもよ?」
「へぇ」
義弘や同級生たちの面白がるような視線から、隠れようとするように身を捩るハイジ。
そんな彼女に、ユキの近況を尋ねたら、ワザとのようにサクの話にすり替えられた。
って、もしかして……。
「とうとう別れたの?」
やっと、私にもチャンスが巡ってきたわ。
トミィといわず、どんな伝手を使ってでもユキとつなぎをとってみせる。
まずは……ライブの出待ちから、かしら。
「洋子、こいつ、男いたの?」
作戦を練っていた私は、義弘の声で我に返った。
「いたのよ、それが」
私よりも、こんな子のほうが良いって、変わり者が。
「へぇ。ハイジにも男がねぇ。その割りに、男慣れしてなさそうじゃん」
俯いたハイジを覗き込むように、義弘が顔を近づける。ハイジは、両手をもみ合わせるようにしながら、顔を背ける。それを、追うように、義弘が立ち位置を変える。
面白くない。どうして、ユキも義弘もハイジを気にするわけ?
「義弘、趣味悪いんじゃない? ハイジなんかがいいの?」
「いや、こんな反応の子、俺の回りにはいないって」
『俺が声をかけて、顔を背ける女なんていない』って、むかつく。私の知らない義弘を見てた女が、高校でも大学でもいたことを、思い知らされる。
「ワレェ、何しとんどいや」
チンピラまがいの恫喝が聞こえたのは、義弘がハイジの両手をとった直後だった。
ユキ、だ。
彼も成人式に出ていたのだろうか。スーツを着たユキが、いつだったかのようにハイジを背後から抱きしめていた。そして、いつも陽気に笑っているような垂れ気味の目を怒らせて、義弘を睨みつけていた。
ハイジが、狂ったようにユキの名前を呼ぶ。そんな彼女をなだめるユキは、眼の力を抜かないまま、声だけを和らげる。その声に、ハイジの体から力が抜けたのが、見ている私にも分かった。
「この手、どないして欲しい? 離さんかったら、折ってまうで?」
義弘の右手を握ったユキの口からこぼれた言葉に、お母さんの呪いを思い出す。
利き腕の右手を折られたりしたら、義弘は野球ができなくなってしまう。
義弘の両手が、ハイジの腕から外れた。支えをなくした二つの手が、人形のように、パタリと下りる。
振り袖が、ゆらりと揺れた。
勝ち誇った笑みを浮かべたユキは義弘の手を離すと、その手をハイジのお腹に回して両手で抱き込んだ。
そして。
「俺の女に手ぇ出すなや。このダボが」
「知らなかった、から……」
”俺の女”とハイジを呼んだユキと、”手を出した”事を否定しなかった義弘と。
自分でも想像していないほどのショックを受けている私の方へ、チラリと視線を寄越したユキが、ハイジのこめかみに唇を寄せた。
その姿に、心の奥がツキンと痛む。
今まで、いろんな男と付き合ってきた。それなりの経験もつんできた。
だけど。たかがキスひとつ、に私は傷ついた。
一番好きだった義弘との間では、絶対に許されない行為で。
二番目に好きだったユキは、違う女とのその行為を私に見せつける。
「知らんかったわけ、ないやろが。なぁ? よ・う・こ・さ・ん?」
わざとらしく名前を呼ぶ冷たいユキの声に、義弘が咎めるように私の顔を見る。
私のせい、じゃない。私は、何もしていない。
なのに。どうして二人に責められる。
『次はホンマに怒んで?』という、ユキの声を聞きながらジリジリと後ずさる。後ろから切りつけられそうな、彼の視線から目を離すことができない。
お願い。誰か、彼の目を塞いで。
「おい、行こうぜ」
義弘の声に、つながった視線が断ち切られた。詰めていた息を吐いて、二人に背を向ける。
それでもなんとなく、後ろ髪を引かれる思いで玄関口から振り返った。
彼らは、あたりをはばからずに抱き合っていた。
駅前で、野球部の五人とは別れて。お祖父ちゃんの家へ向かう電車に義弘と二人で乗る。
さっきのユキとの一幕のせいか、おしゃべりをする雰囲気にもならなくって。黙って電車の振動に、身を任せる。
「ハイジの彼氏、洋子の知り合いか?」
義弘がやっと口をきいたのは、改札を出てからだった。
「元カレの友達」
嘘じゃない。全部本当、でもないけど。
「そうか」
「なに?」
尋ねた私に、義弘は答えないままにスタスタと歩く。
「義弘、ちょっと待って!」
「うん?」
着物じゃ、そんなスピードで歩けない。ハイジは、平気で歩いていたけど。私は、彼女とは違う。
そう思って。自分が彼女より劣っていると認めてしまったようで、無性に腹が立つ。
「ああ。ごめん。歩きにくいか」
「うん」
それでも、振り返った義弘が、開いた距離に気づいて戻ってきてくれただけで機嫌が直る。現金な私。
そのまま、ゆっくりとしたペースで並んで歩く。
「洋子」
「うん?」
「お前、碌でもない男と付き合ってるんだな」
「そんなの、義弘には関係ない」
「関係ない、か」
軽く笑うように言った義弘が、再び黙り込む。
碌でもない男を好きになるのは、仕方ないじゃない。初恋からして、許されない恋だったし。
「あ」
チラリ、と、空から舞い落ちるものに気づいた。
「降ってきたな」
「今年初、ね」
「いや、大晦日にも降ったから、”初”じゃないだろ」
「義弘の住んでるあたりだけでしょ? こっちは降ってないわよ」
他愛の無い会話を交わしながら、そっと掌を差し伸べる。
二番目に好きだった男の名前を持つ、淡い結晶が手の上で融ける。
触れる端から”水”へと名前を変える結晶が、失った恋をあざ笑う。
私が彼に触れることなど、ありえないと。
「洋子」
立ち止まってしまった私に、義弘が遠慮がちに声をかけてきた
「なに?」
なんとなく、名残を惜しむように手を握りしめる。そんな私を知らずに、義弘は鈍色の空を見上げて、白い息を吐く。
「従兄妹同士は、結婚できるって知ってた?」
「はぁ? 血が繋がっているのに?」
「おじ・おば、までらしいぜ。アウトなのは」
「ふぅん。だから、何?」
「いや、別に。ただの……ムダ話」
そうか。
一番目の恋は、”許される”かも知れないんだ。
葬ることすらできなかった初恋に、今までの恋と行為を恥じる。
義弘への想いが、許されるのなら。あんなに碌でもない恋愛を、重ねてこなかったのに。
「寒くないか?」
そう言って差し伸べられた、義弘の手をとる。長年の野球生活の賜物だろう。グローブのように硬いその掌が、とても愛おしく思える。
「祖父ちゃんたちが、待ってるだろうから。少し、急げるか?」
「ううん。これが精一杯」
初めて、手をつなぐんだから。少しでも長く、この時間が続いてほしい。
「そうか」
それだけ言って、義弘がコートのポケットに繋いだままの手を入れる。ポケットの中で、指が絡み合う。
「祖母ちゃん、何作ってくれただろうな」
「茶碗蒸し、あるといいね」
「そうだな。アレ旨かったし。太巻きも、あるかもな。洋子、好きだっただろ」
「うん。アナゴがおいしいのよね」
「それから……」
子供の頃、互いが好きだった”ご馳走”を、競うように挙げながら、ゆっくりと足を運ぶ。
歩きながら見上げた顔が、視線に気づいたように見下ろしてきた。
目が合う。
微笑んで、ぎゅっと手を握った彼の想いが、私と同じところにあるような気がした。
この恋が許されるなら、いつの日か。ユキとハイジに許される行為が、私たちにも許される日が来るかもしれない。
そう考えると柄にも無く照れくさくなって、目をそらす。
その視線の先。
彼のコートの肩口に、寄り添うような二つの結晶が溶けずにくっついていた。
END.