BADENDストーリーの勇者の旅立ち前にあったお話
眠る様に落ちて行くお日様が、遠くの山の頭をじりじりと焼いている様を、蒼い目の少年がぼんやりと見詰めていた。
空は、白いレエスがあしらわれたドレスのような澄み切った青から葡萄酒を零した様に赤くなり、やがて海の底の如き蒼いベールを纏ったかと思えば人魚の涙を鏤めたビロウドへと衣更えるよう。
――嗚呼、僕が一番好きな時間だなあ。
と少年はふんわり微笑んだ。
大好きな色と大嫌いな色が優しく寄り添うように解け合っている空。
黄昏から日没までのほんの僅かにしか見る事が出来ない其れを少年は愛しているのだった。
そら、もうすぐに見れなくなってしまうのだから目に焼き付けなければ、と少年はいよいよ飴色のカーテンが掛けられた窓に齧り付いて。
しかし背後に佇む扉から"カチリ……"と控え目な音が鳴ると、もうまるでその風景には一片の価値も見出だせないとばかりにあっさりと振り返るのだ。
「リオさま、リオさま、ご本をよんでくださいな」
扉の後ろからひょこりと顔を覗かせたのは一輪の雪の欠片。
綺羅星が泳ぐ夜空の様なおっきな目をわくわくと輝かせ、両手にはいつも連れているお人形の代わりにリボンと包装紙でおめかしした一冊の本を抱き抱えていて。
稚い唇から紡がれる小夜啼鳥の囀りにも似た声音が少年の鼓膜を喜ばせた。
嗚呼、小さな脚を懸命に動かして窓辺に座る少年の下へ駆け寄る姿のなんと可愛らしいことか。
「嗚呼、勿論良いよお姫様、さあ何を持って来たんだい?」
「わかりません、お父さまがもってきてくださったのです。今はじめて見るのです」
「じゃあ見てみようか、どれどれ……嗚呼、僕はこれを知っているよ"羊飼いの少年と狼"だね。読んであげよう、おいで」
小さな手から差し出された本のリボンを解いて眺めながら、少年はそう言ってぽんぽんと自分の膝を叩いてみせる。
淑女であれば馬鹿にしてと怒るか、はしたないと憤るかする行為も、まだ当分小さい儘のお姫様は何の不満も無く笑顔さえ見せて従うのだ。
丸い爪先が愛らしい靴を脱いで窓辺に綺麗に揃えてみせて、にこにこと楽しげな少年の手を借りて膝の上によじ登る。
少年の膝でお行儀良く手を揃えてちょこんと座る姿を見れば、誰もがなんと仲の良い兄妹かと思うだろう。
少なくとも、まさか将来貴族の夫婦になるような関係には見えない程に優しく暖かく、何の作為も見えはしなかった。
さあ、少年は自分の膝の上で、うきうきと揺れる小さな頭を一回撫でてやってから絵本の拍子をぺらりと開いた。
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「――"嘘つきの少年はそれでも必死に叫びましたが、とうとうぱくりと食べられてしまいましたとさ"…おしまい」
「かわいそうですリオ様。この男の子は嘘つきだけれど、とてもかわいそうです」
ゆっくりと絵本を閉じた少年は、物語の途中から既に泣きそうだった少女がいよいよ泣きじゃくる姿を見て、さも愛おしげに頭を撫でた。
くすんくすん、と嘘つき少年のために室内に響く嗚咽がおさまるまで、少年はずっと撫で続ける。
「嗚呼、そうだね。とてもとても可哀相だ。彼は皆に食べられてしまったよ」
「?……オオカミさんにでは無いのですか?」
「そうだよ、本当に男の子を食べたのは狼さ。けれど狼に食べさせたのは皆なんだ」
「?」
大きな瞳をきょとんと丸くして少年を見上げる少女はもうすっかり泣き止んでいて、年齢にしては難しい事を話始める少年は歳相応に安心した笑顔を浮かべてみせた。
「ねえ、優しい優しいお姫様。彼が何故嘘をついたのか解るかい?何故毎日がつまらなかったのか解るかい?」
「わかりませんリオ様。嘘つきはいけないことです、だから何故この男の子が嘘をついたのかなんてわかりません」
「……そうだね。じゃあ考えてみよう、男の子は毎日毎日働いてるんだ、お喋り出来る友達もいなくて、いるのはメエメエ鳴く羊だけ」
少年は蒼いベールのかかった夜に似た瞳を苦しそうに細め、真珠が鏤められた夜色の瞳を見つめた。
「ねえ、寂しくは無いかな。村では色んな人が働いているのに羊飼いはひとりぼっちなんて」
「でもリオ様、羊さんはもこもこしていますからきっと温かくて優しいと思います」
「じゃあ、これから毎日毎日お喋りできるのは羊だけでお友達や……僕とも会えなくて平気かい?」
「リオ様もですか?……いやです私、リオ様と会えなくなるのはいやです」
「嗚呼、泣かないで。これは例えばのお話なのだから」
少年は"嗚呼、僕だって嫌だよ。本当は凄く嫌なんだよ"という言葉を無理矢理飲み込んでみせ、今にも泣き出しそうな少女の頭を一つ二つと撫でる。
「彼はきっと寂しいと言えなかったんだ。寂しいのに寂しいと言えないから代わりに嘘つきになってしまったんだ。誰かが彼の傍にいれば彼は嘘つきにならずに済んだんだ」
いつの間にか泣き虫役と慰め役が入れ代わってしまったようで、少年の声はみっともないくらいに震えていた。
少女はそんな少年の膝の上で精一杯の背伸びをすると自分とお揃いの黒髪を、少年がそうしてくれたように一つ二つと撫でてみせる。
「嗚呼、ねえ、君は寂しくなったら寂しいと言うんだよ。でないと嘘つきになってしまうから。そうしたら皆が君を狼に食べさそうとしてしまうよ」
「ああでもリオ様、私は全然さびしくないです。お父様もお母様もお兄様もユーリもシシィもそれにリオ様も一緒に居てくれるのですから」
「でも僕はいつかいなくなってしまうんだよ、すぐには会えない場所に往かなくてはいけないんだよ」
「……ですからリオ様。リオ様もさびしくなったらさびしいと言ってくださいな。でないと嘘つきになってしまうのでしょう?皆がリオ様をオオカミさんに食べさそうとしてしまわないように、さびしい時は言ってくださいな」
少女は、夜空の様な瞳を不安げに震わせながらとても痛そうな顔をして、少年の小さな手を、もっと小さな手を両方も使ってなんとか包み込んだ。
更に少年の手を握る小さな指がぎゅうと力を強めると、少年は夜空に似ている瞳を切なげに揺らしてほんの少しばかり痛そうな顔をしてから、いつものように微笑むのだ。
「……うん、約束する。さあ、もう寝なくちゃいけないよ。遅くまで起きていると怖い魔族に連れて往かれちゃうからね」
「はい、ではリオ様おやすみなさい。良い夢を」
少女はそう言って膝から降り、爪先までいっぱいに背伸びをすると少年の額に優しくキスを贈った。
少年も擽ったそうに笑ったあとで少女の額に少女がしたのよりも少しだけ長く優しいキスをした。
それから二人でくすくすと笑い合って、強く握りあった手を片方ずつ解いていった。
すると、丁度迎えに来た侍女に連れられて少女は部屋を出る。
お互いの姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返り、訪れた時よりもはるかにゆっくりゆっくりと自分の部屋に帰って行く少女に、少年は微笑みながら何度も何度も頷いてみせた。
やがてその小さな姿が闇に融けてしまうと少年は扉を閉めた。
誰も入れないよう鍵をかけてから寝台にふらふらと近寄り、力無く倒れ込む。
軽く軋みながら沈み込んだスプリングがマットを穏やかに押し返した。微睡むのに丁度良い柔らかさだった。
「……僕はもうとっくに嘘つきなんだよ、ごめんね」
少年はまるで抑揚の無い声音で呟くと、あまりにも穏やかに笑う。
少年が勇者として旅に出るまで、あと、僅か。