【後編】
大和家を後にし、駅に向かって真智も女の子も黙々と歩いた。
真智の後ろを連いていく女の子には、この沈黙が耐え難い。整った真智の後ろ姿を見つめ、何か話題を探した。
「…あ」
何か思い浮かんだらしい女の子は、ウキウキした表情で真智と並び歩く。
「ねぇ、大和くんの初恋はどんな人なの?」
「え…」
真智は話の脈絡が測れず、ポロリと声を洩らした。
「大和くんって他の人と違うから、初恋の相手も他の人と違うんじゃない?」
女の子は思いつくまま適当に言っているのだろうけれど、真智は内心揺れた。
(他の人と違う、か…まったくその通りだな…)
真智の心に響く言葉はどこか皮肉めいて、しかし、嬉しげでもある。
「…花の──」
真智は唇を動かし、息を零した。
「なに?」
女の子はうまく聞き取れず、聞き返す。
そんな女の子を瞳には映さず、別の乙女を宿していた。
「…俺には勿体無い、素晴らしいヒト。そのヒト以外に女は有り得ない」
「……その人が忘れられない? 今でも、好きなの?」
女の子は不安を覚えた。いつになく素直な真智。学校では絶対に見られない姿だ。
「当たり前だ。今でも気持ちは変わらない。愛している」
真智の眼裏で乙女が弾ける。優しく響く鈴の声が、真智を呼ぶ。
好きよりも強い言葉が真剣に発せられ、女の子は焦った。
「で、でも、片想いだよね? あ、もしかして、おばあちゃんのだって言ってたあの花、本当はその初恋の人の物じゃない?」
突然歩くのを止めた真智を、女の子は不思議そうに振り返る。そして、的を射たのだと思った。
「当たった? ホラ、初恋って叶わないって言うでしょ? 失恋とかして、何か初恋の人の物が欲しいと思ったとか…手に入ったはいいけど、捨てられないとか」
真智が黙り込んだので、女の子は自分の考えが正しいと思った。意気揚々と言い募る。
「でも、そんな物、早く捨てたほうがいいよ。初恋なんか綺麗さっぱり忘れて、新しい気持ちで、新しい恋をしたほうがいいって。大和くんだったら、すぐ恋人できるよ」
女の子は笑顔を作っていたが、頬は引き攣り、視えない恋敵に嫉妬しているのは見え見えだった。しかも、あわよくば、自分が真智の恋人になろうと画策している。
「初恋の人の物なんか全部捨てて、さ…」
女の子は上目遣いで、媚びを売るような仕種をした。
「わ、私とか──」
「黙れ!」
真智の低い怒声に、女の子は首を竦める。
「俺の大切なヒトを物扱いするな!」
大きな声で怒鳴られるよりも迫力があった。
「な、に? 物扱いって? ………花? 大切な、人?」
女の子は恐る恐る聞き返す。理解し難いとでも言いたげな表情をした。
「喋り過ぎたな」
真智は自身に向けて言い、女の子を睨み据える。
滅多に感情の変化が見られない瞳は、怒りに燃え盛っていた。それは、閻魔大王を思わせる眼力だ。
「お前みたいな女が同じクラスに居ると思うと反吐が出る。招かれてもいないくせに、のこのこと連いてきて。図々しい女。お前に何が解かる!? 二度と俺の家に来るな、話しかけるな!」
女の子に声を出す間も与えず、それだけを一気に叩きつけて踵を巡らせた。後は振り向きもせず、来た道を戻る。
本来なら、家に上げず追い返していたのだが、運悪く母親に見つかってしまった。嬉しそうな母親を蔑ろにはできず、仕方なく相手をしてやっていたらつけあがって…挙句、大切なヒトを物扱いして…不愉快も積もり積もって爆発する。
(あの女がどうなろうが知ったことか)
…誰にもわからなくていい。
愛しいヒト…
わかるのは、自分だけでいい……
機嫌の優れない真智は夕食もそこそこに、ベッドへ潜り込んだ。
深夜──この世に器を持たぬ者たちが勢力を伸ばす頃、闇夜を劈く悲鳴に、真智は目を覚ました。目は開いたが、頭は完全に醒めていない。夢と現の狭間をまだ彷徨っていた。
二度目の悲鳴──
真智はガバッと跳ね起き、耳を欹てる。
激痛に喘ぐ、乙女の苦鳴。
「───美佳」
真智は蒼白になって布団から飛び出した。両親を起こさないよう足音を殺し、階下へ駆ける。
彼女の存在はずっと前から知っている。祖母に連いて庭に出た時、彼女を視た。透き通る金髪は長く空を揺らめき、幾つも重ねた衣はまったく重さを感じさせずフワフワしていた。その出逢いは衝撃的で、夜も眠れなかった。夢かもしれないと思っていたら、翌日も愛らしく微笑んでいた。ただ、真智以外の人間には視えないようで、祖母も視えたら良いのにとよく思っていた。
彼女と話していると両親、特に母親が嫌な顔をする。両親を困らせたくなくて、仕方なく視えない、聞こえないフリをした。
彼女から漲る愛を注がれていても、そうするしかなかった……
裸足のまま庭に飛び降りると、暗闇の中に黒く小柄な人影がいた。
「何をやっている!?」
真智の地を這うような怒号に人影は仰天し、シャベルを放り出して逃げる。真智はそれを一瞥したが、彼女が気がかりだったので追いかけようとはしなかった。
人影の所作からして、女だろう。心当たりがある。
真智は掘り返された花を見た。花の傍らで、美佳が息も絶え絶えに倒れている。
痛々しい姿だった。美しい金髪は乱れ散り、フワフワしていた衣は泥にまみれて重たげだ。
可憐な乙女は、今にも消えてしまいそうである。
「美佳…」
真智は久方振りにその名を口にした。
膝をつき、美佳をそっと抱き起こす。
「美佳」
降り注ぐ音色に、美佳は重たい瞼を押し上げた。霞む視界の中、月影の下に愛しき人を見出す。
「美佳」
確かに呼ばれて、美佳は目を細めた。
《ああ、真智…私が、視えているの? 私の声が聞こえるの…?》
か細い声に、真智は肯く。
「初めて逢った日から、ずっと…」
《初めて…?》
美佳は目を丸くして驚いた。
初めて逢った、あの遠い日から姿も視え、声も聞こえていたなんて……
「そう…だけど、父さんや母さんに申し訳なくて、装っていたんだ。もうずっと、美香を視ていた」
目の端から泪が溢れる。
《嬉しい……嬉しい……》
美佳の胸は、愛しい気持ちでいっぱいになった。
そんな美佳の姿を視て、真智は眉を寄せる。後悔に濡れた表情であった。
「ごめん。こんな事になったのは、俺のせいだ」
不意の言葉に、美佳は首を傾ぐ。
「俺は恋をしている。あるヒトを愛している。それ以外の女はすべて煩わしい。そういう内容を、今日家に来た女に話したんだ。…初恋はどうだったのかと尋ねてきたから」
真智は固く視界を閉ざした。
「本来なら、明かす義理もないが…今日は何故か口が軽くなってしまった」
《恋……》
美佳の声に、項垂れていた真智は顔を上げた。
真智の頬に、美佳の細い指が添えられる。
愛しい人の体温を感じらる……これほど、幸福なことはない。
《恋をしているの…? 私と、同じね…私はあなたに恋しているわ。あなたは誰に恋しているの…?》
美佳の澄んだ菫星石の瞳を見て、真智は泣きそうになった。
どうして、この瞳には何もないのだろう?
自分をこんな目に遭わせた者を……その原因を生み出した真智を…これっぽっちも憎んでいない。
ただ、愛しさと優しさに輝いていた。
「…今日は、とても驚いたよ。美佳が怒るとこ、初めて見た……美佳」
柔らかく儚い微笑を浮かべるふっくらとした美佳の唇に、真智は自分のそれを重ね合わせる。
美佳は目を瞬き、少し離れた真智の顔を見つめた。
《…真智……》
両の手で真智の顔を包む。
《私は、花…真智とは結ばれない…でも真智を愛している……》
美佳は一度口を閉ざし、躊躇いがちに再び開いた。
《…真智は、誰に恋しているの…?》
美佳は戸惑う。
これは、現実なのだろうか…?
真智は可笑しくなった。もう、確信を持ってくれてもいいようなものなのに……
「美佳」
ポロポロ…ポロポロ…美佳は泪を零した。
《真智…真智……私はあなたを愛している…真智は……?》
「美佳」
消えてしまいそうな美香の身体を抱き締める。
「好きだよ…愛している」
《ああ…真智。私の愛をどう表現すればいいの? 私は花なのに、真智を想って………幸せになって…幸せになって、真智。私では、あなたを幸せにできない…真智》
美佳は泣きすがり、真智を困らせいるであろう自分に怒りを覚えた。
《ごめんなさい、ごめんなさい…私が、人間じゃなくて、ごめんなさい……私を愛してくれて、ありがとう…》
今度は、美香から真智に口接ける。甘い蜜の香りが、真智の口中に広がった。
《側に居てあげられなくて、ごめんね……真智、私は人間に嫉妬してしまったから貴美子さんと同じ場所へ逝けないだろうけど…どこに逝ってもあなたを守るわ…ここに居ては、私自身が災厄になってしまうから、あの子を憎めないわ……大丈夫…あなたを守るわ…》
「───っ」
真智は下唇を噛む。
逝くなと叫びたかった。だけど、叫んだところで美佳の消滅は止められない。
「大丈夫、美佳。おばあちゃんは美佳を待っているよ」
真智は微笑んだ。美佳にしか見せない、柔らかい笑顔。
《最後に、真智に触れることができてよかった…触れられないままなんて、とても辛いわ……愛している、世界の誰よりもあなたを………》
美佳も、最高の笑顔を輝かせた。
二人とも、それこそ花のような笑顔で見つめあった。
真智は、満天の星空を仰いだ。
「……美佳。俺はお前を忘れない。愛している」
愛を囁く真智の頬を、一陣の風が撫ぜていく……
『…花の乙女』
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