第39話 夫婦
え、と小さくライサは声を出す。何回か瞬きを繰り返し、戸惑うようにニーナの顔を見つめた。
「そう、なんですか?」
出会った時から、ニーナたち夫婦は非常に仲睦まじかった。そんな二人が離婚危機だなんて。
ニーナは気まずそうに頭をかいて、ぶつぶつと呟き始める。
「まぁ、なんというか、ロジオンのことは嫌いじゃなかったし他にいい奴もいなかったし……。とりあえず勢いで結婚したものの、あの男はガサツで脳みそまで筋肉でできているようなやつで、気遣いなんて微塵もできないし。まぁ、私は私で素直に誰かに寄りかかるような生き方は良しとしなかったしね。何度怒りを爆発させて、離婚してやろうかと思ったことか」
知らなかった。初めから仲の良い夫婦だと思っていたのに。
ニーナたち夫婦の意外な過去を聞いて、ライサは目を丸くする。
「だったら、どうしてここまで長い時間、一緒にいられたんですか?」
「何かある度に、じっくり時間をかけて話をしたのさ。いや、あれは話し合いとかじゃなくて、口喧嘩とか罵りあいみたいなもんだったけどね。自分の気持ちを何時間もかけてぶつけてぶつけられて。それを繰り返して、なんとかギリギリ踏み止まりながらやってきて――気づいたら、こんな長い付き合いになっちまったよ」
ニーナは、少し照れくさそうに苦笑を浮かべた。そして目を伏せて、首をゆっくりと横に振る。
「ライサの母親の行動は、決して許されるものじゃない。ただね、悲しいことだけど、どんなに誠実な人間だって、多少なりと気持ちが変わってしまうことはあるよ。ずっと同じ環境で生きていくわけじゃないし、長く暮らしていく内に見えてくる相手の一面ってのもあったり、それで幻滅したり気持ちが冷めてしまったり。まぁ、色々あるさ」
ライサは痛む胸を押さえながらも、ニーナを真っ直ぐに見つめた。彼女も真剣な眼差しで、ライサに語りかけてくる。
「人の心は分からないし、いくらでも変わってしまう。だからこそ、必要な時にはちゃんと自分の気持ちを伝えていかないとね。ライサ、アンタはザックに、アンタの過去の話とか今の『怖い』って気持ちを、ちゃんと伝えたかい?」
ライサは弾かれたように顔を上げた。
しばらく間を空けて、ゆっくりと首を横にふる。
「……いいえ。シャトゥカナルのこともあって、良い機会がなくて」
違う。機会がなかった、何て言うのはいいわけだ。話そうと思えばいくらでも機会はあったはず。
言い訳をし、ただ逃げていただけだ。
「全く。なんでも一人で抱え込んでしまうのは、アンタの悪い癖だねぇ」
ニーナは大きくため息を吐くと、ライサの頭にそっと手を乗せた。優しい手つきは、遠い記憶にある母の手と同じくらい温かい。
「ライサ。ザックはアンタにとって、血の繋がりも、何の所縁もない他人だ。一から二人で、二人だけの関係性を作っていかなくちゃならない。だからもう、分かるね? 怖いなんて言ってる場合じゃない。ちゃんと自分の気持ちを伝えないと、万が一の時、アンタはもっと後悔することになるよ」
ニーナの指摘に、ライサの心臓が激しく痛みを覚える。分かっている、勇気を出さなければいけないと言うことは。
唇を噛みしめているライサに、ニーナの柔らかい声が響く。
「大丈夫さ。ちゃんとお互いの気持ちに寄り添っていれば、二人が積み重ねていた言葉や時間が、きっとこれからのアンタたちを助けてくれる。この先どんなことがあっても、決して、悪いようにはならないよ」
それに、とニーナは一瞬、ロジオンが出て行った扉の方へ視線を向けた。
「そう言う、面倒なことができる相手がいるっていうこと自体が、とても幸せなことだと私は思うね」
ハッとしてライサは顔を上げた。
『何かすっきりしない事とか、迷ってることとかあるんだろ? おれに話してくれたら嬉しいな!』
タチアナの魔法具の時も、ザックはライサのもやもやとした気持ちを聞いてくれた。ニーナはロジオンと言葉を交わして、何度もぶつかり合って今の関係性を築いていったのだ。
そう。私は彼に、話すべきだった。
「好き」と言えないなら言えない理由を。自分が怖がっているものの正体を。
「ライサ。作った祭具を見せてみな」
不意にニーナから告げられた言葉に、ライサは戸惑いながらも作った祭具を、肩に下げた鞄から取り出す。
丁寧に布にくるんだそれを、ライサはそっと彼女に差し出した。
布の上でライサは慎重に祭具を眺める。明りに透かしたり、あらゆる角度から見て、やがてにこやかに頷いた。
「うん。完璧だね。ほら、二人の力で、こんなに美しくて良いものが作れるんだ。いずれ私たちよりもずっと、良い夫婦で、職人になれるよ」
今はまだ一番は譲ってやらないけどね。
ニーナの笑顔に釣られて、ライサも笑顔を見せた。
「ありがとうございます。その、私……今すぐ帰ります!」
今すぐ駆け出さんばかりのライサに、ニーナは少し呆れたような眼差しを見せた。
早く帰らないと。早く帰って、ザックを傷つけたことを謝って、彼とちゃんと話をしよう。
ライサは村の中を全速力で駆け抜けた。
ニーナに勇気をもらった。まだ怖い気持ちはあるけど、きっと大丈夫。
心は前よりもずっと軽やかだった。
ライサは家が見えてくると扉を勢いよく開いた。
「ザック、ただいま……! ごめんなさい、私――」
入って初めて、家の灯りが消えていることに気づいた。そうか、ザックが眠ってしまったからか。
しかし、ここまで真っ暗なのはおかしい。家の中は物音が一切なく、恐ろしいほど静まり返っている。
胸騒ぎがして、ライサはザックの部屋へ向かい、ノックをする。
「ザック、寝てるの? 少し入っても良い?」
反応はなかった。普段の自分であれば、そんなことは絶対にしない。何故かそうしなければと感じて、ライサはザックの部屋の扉を開けた。
暗い室内へ一歩ずつ踏み入り、奥の寝台に近づいていく。一切の乱れもない丁寧に整えられた寝台を目にして、ライサは愕然として立ち尽くした。
ザックが、いない。
「ザック、ザック⁉ どこ!? どこかにいるんでしょう⁉」
声を張り上げながら、ライサは家じゅうを駆け回る。工房や炊事場、ライサ自身の部屋まで隅々まで探す。しかし、ザックの姿はどこにもない。
ライサはふらふらとザックの部屋に戻り、呆然とその場に立ち尽くす。
一体どこに行ってしまったのだろう。
ふと、ザックの机の上に何かが置いてあることに気づいた。
「これ、タチアナの時に作った魔法具……?」
柔らかい色合いで作られた小さな木箱は、音を記録できる魔法具だ。確かあの時、いくつか試作品を作ったのだったか。これは、試作品の一つだろう。
その隣に何かの入った麻袋も置かれていたが、一旦木箱の方を手に取った。
胸騒ぎが強くなる。
震える指で、ライサはそっと木箱を開いた。
『――ライサ』
聞こえてきた声に、ライサの肩が跳ねる。少し雑音が入って聞き取りづらいが、ザックの声だ。
『まずは、ごめん。勝手に黙って出て行ったりして。心配したよな? でも、仕方がなかったんだ。おれは、もうライサの側にはいられない。おれの心臓は、あと少しで』
凍りついて、動かなくなってしまうから。




