第39話 思い出してくれましたか?
「待ってください」
わたしは後ずさりながら、素早く辺りを見回した。逃げ道を探しているのに彼も気づいたのだろう、エリス様が小さく笑って肩を揺らす。
「間違った方向に逃げれば、終わりだろうね? 防御壁の穴を通らなければ、魔法船には戻れない。魔物になぶり殺しに合うか、それともここで――」
と、そこでエリス様が何か魔法の呪文を唱え始めたので、本気でヤバいと思った。
「ま、待ってくださいと言いました! 魔力の移動って何ですか、何だかそれ、呪いの……ええと、呪いに対するアレというか、禁止されてるやつですよね!?」
そうだ。
ユリシーズ様が言っていた話。
水は低い方に流れる。呪いの原理。
「ああ、知ってるんだ? 学園では教えてくれない話のはずなんだけどね」
エリス様は呪文の詠唱をやめ、面白いものを見るかのような目をこちらに向ける。その表情が明らかに病んでる人のそれで、背筋がぞわぞわする。
「まあ、話が早いね。君の魔力をもらいたいんだ。大丈夫、生きていくには必要なくらい……少しは残るはずだよ?」
「何それ」
だんだん、わたしの心の中に怒りの感情が広がっていくのが解った。
それと同時に、何でこうなってしまったんだろう、という違和感も。
ゲームの世界では、ヒロインであるディアナと殿下やエリス様たちと仲良くなっていた。だから、彼らと色々な会話をして、彼らの悩みを聞いたり、一緒に問題を解決していこうとしていた。
エリス様は確かに魔力の低さでコンプレックスがあって、殿下の傍にいることすら躊躇いがあって。
でも根っからの悪人ではないし、こんな……他人から魔力を奪おうと考える人じゃなかった。
それなのに、こうなってしまったのはわたしのせいなんだろうか。
今のわたしが、エリス様から逃げなければ、ゲームと同じように仲良くなっていれば、こんな展開にはならなかった?
でも。
過ぎたことを考えるのは今じゃない。
「わたし、防御魔法、得意ですよ?」
覚悟を決めて、わたしは持ってきたカバンから短剣を取り出した。人間相手に使うとは思っていなかったけど、そっちが戦うなら抵抗するまで。
前世ではほとんど抵抗できずに死んでしまったけれど、同じ轍は踏まない。そう決めて新しい人生を過ごしてきたんだから。
「ふうん? 現代魔法でどこまでやれるか試してみようか?」
エリス様はそう言ってから、再度呪文の詠唱を始めた。途端に輝く、わたしたちの足元。草が生い茂る地面に、青白い魔法陣が浮かび上がる。そこに書かれた魔法言語は、わたしの知らない文字も混じっていた。
「やってみます」
と、わたしは手始めに魔方陣に向けて攻撃魔法を放った。それと同時に、自分の身体の周りに魔法による防御壁を作り上げる。
まあ、当然というべきなのか、単なる攻撃魔法で魔法陣を打ち消すことなんてできない。魔法言語が鋭い刃となって魔法陣に連撃を食らわせても、ただ高い金属音が響くだけだ。
じゃあ、次は魔道具攻撃!
鍛え上げた短剣の出番!
肉体強化の魔法で移動速度を上げ、わたしと同じように防御壁を作り上げたエリス様に攻撃。今度は効果があった。
「防御壁は現代魔法ですよね?」
衝撃を受けたガラスのようにひび割れた彼の防御壁の目の前でわたしが笑うと、エリス様が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「散々逃げ回ってたのに、威勢がいいね?」
「逃げたのは正直にすみませんとしか言えませんけど」
みるみるうちに修復されていく彼の防御壁を見ながら、わたしは何とか言葉を続けた。「怖かったんですから仕方ないじゃないですか。エイデン様は、もっと女の子に対して優しくなった方がいいと思います」
「僕ほど優しい人間はいないと思うけど」
「優しい人間が他人から魔力を奪うなんてこと、します?」
わたしはそれから、短剣による攻撃を繰り返す。
わたしの腕も、足も、光り輝く魔法言語に覆われている。それを見たエリス様も、わたしを真似て肉体強化の魔法を使った。そして素早く地面を蹴って後ろに飛び退り、改めて呪文の詠唱を始めた。
『魔力の量ってそんなに重要ですか?』
ゲームの中のヒロインは、悩むエリス様にそう問いかけていたと思う。
場所は学園の裏庭、二人きりでの会話。
少しずつ仲良くなって、色々なイベントをクリアして、一緒に勉強したり同じチームで戦ったりした後でのこと。
エリス様は少しずつ、ヒロインにだけ弱音を吐くようになっていったんだ。
『重要だよ。少なくとも、ウィルの……殿下の側近として働くためには、それが一番必要とされる』
『量より質じゃないですか? 魔法の組み合わせだったり、どう活用するか。冷静に物事を考えたり、殿下が見えていないものに先に気づいたり、やるべきことはたくさんあるじゃないですか。魔力だけが重要じゃないんですよ』
『それをディアナが言う? 誰よりもずっと多くの魔力を持つ君が?』
エリス様の苦笑は力なく、いつもの笑顔とはかけ離れていた。
ヒロインはその弱々しさに胸を突かれるような思いをして、彼の力になりたいと言葉を探すのだ。
『持つからこそ、ですよ。わたし、魔力が多いからこそ厭な思いをしてきたことがあるんです。きっと、エイデン様もわたしと同じ立場だったら、わたしと同じように悩むんじゃないですか?』
『そうかな』
『そうですよ』
そしてどちらからともなく笑い合う。
それは、あるかもしれなかった展開。
っていうことは、これからでも巻き返しできるかもしれないってことじゃない? 何とかエリス様を改心させることができれば、軌道修正ができる。そう信じたい。
「今更ですが、エイデン様とは話し合う必要があるかも、ですね」
わたしが言うと、エリス様は「本当に今更だね」と笑う。
そして、彼は凄まじい威力の攻撃魔法を放ってきた。間違いなく殺意が見えるくらいの。
森の奥でぶつかり合う魔法。
近くを飛んでいた鳥が遠くに逃げ去っていく気配。折れる木の枝、蒸発する足元の草。これだけ騒いでいれば、きっと誰かが気づくはず。それを待とうか。もしかしたら、殿下たちだってエリス様を探しているのかもしれないし――。
そう考えながら、わたしたちが次の攻撃のタイミングを計っていたときだ。
一瞬だけ、誰かの足音が聞こえた気がした。
わたしがそちらに視線を投げると、エリス様も自分の背後に意識を向けた。
エリス様の防御壁が壊れた。
何があったのか、エリス様も解らなかっただろう。凄まじい風圧と共にその魔法が弾け飛び、近くに生えていた木の幹に肉体ごと叩きつけられたエリス様が苦痛の叫び声を上げたのが解った。
かろうじて、わたしは自分の防護壁に守られてその場に立っていられたけれど……。
「どうして? ウォルター様が?」
わたしは茫然とその場に現われた彼の姿を見つめていた。
ウォルター様は右手に剣を持ち、安堵したように明るい笑顔を浮かべながらわたしを見やる。
「今度は間に合ってよかった。怪我はない?」
「怪我は」
――ないですけど。
でも。
わたしの近くに歩み寄ってきたウォルター様は、すぐに鋭い視線をエリス様に投げて目を細める。
エリス様はそこで、腹部に手を当てながらゆっくりと立ち上がろうとしているところだった。しかも、咳き込んだタイミングで少量とは言えないくらいの血を吐きながら。
「エイデン様」
わたしが慌てて彼に近寄ろうとすると、ウォルター様が抜身の剣を上げてわたしの前を遮った。
「危険だよ。下がって」
「やりすぎですよ! っていうか、相手はエリス・エイデン様ですよ!?」
公爵家の息子であるエリス様を攻撃した上に怪我をさせたのだ。どんな理由があったとはいえ、伯爵家の人間である彼がただで済むわけがない。
「大丈夫、僕が君を守ってあげるから。安心して」
そう笑う彼の笑顔が、何だか急に怖くてたまらなくなった。
「……あの」
わたしは唐突に、気が付いてしまった。
思い出してしまった?
ウォルター・ファインズ。わたしの前世でのこのゲームの推し。憧れの先輩と似ている彼が好きだったけれど。
さっき、彼が放った攻撃魔法。
エリス様の防御壁を簡単に壊したその魔法、魔法言語は、わたしが知らない文字列で構成されていた。エリス様がさっきまで展開させていたわたしの足元の魔法陣も壊してしまっていたけれど、そこに書かれていた古代言語とも全く違う。
というか、わたしが好きだったキャラクターのウォルター・ファインズの一人称は……『俺』だった気がする。
あれ? 気のせい?
この世界のウォルター様は、ずっと『僕』と言っていたけれど――。
「……あなた、誰ですか?」
わたしがそう言いながら後ずさると、彼は驚いたようにわたしを見つめ直し、すぐに輝くような笑顔を見せた。
「思い出してくれた? いえ、思い出してくれましたか? ずっと、この時を願っていたんです。あなたが僕を助けてくれたように、いつか僕があなたを助けられたら、と。絶対にあなたに恩を返すのだと決めて生きてきたんです。ずっとずっと、僕はこの時を待っていた……」
ウォルター様のその歪んだ笑みが、どこかで見たようなものだと眩暈と同時に気づかされるのだ。
どこで見た?
っていうか、わたしが助けた?
いつ、どこで?
「昔、あなたは言った。助けを求めている人がいたら、手を差し伸べるのが当然だと。女性でありながら、本当にあなたは強かった。そんなあなたに近づくために、僕はずっと」
「ウォルター様は……あなたみたいな性格じゃなかった」
「そうでしょうね。不本意でしたけど、あなたが彼のことが好きだと気づいたから、僕はこの身体を選んだんです。この世界を選んだんです。生まれ変わる場所を、あなたともう一度出会える場所を、運命的に演出するために。あなたの好みの男性がああいう人間だと知ったから、転生屋に交渉したんです」
ちょっと待って。
何が起きてるの?
どうなっているの?
わたしが混乱する頭に手を当てた瞬間、目の前の男性は低く続けた。
「そう言えば、前世で訊いたけど教えてもらえませんでしたね? どうだったんですか?」
「え?」
わたしが呼吸を整えながらもう一度彼に視線を向けた瞬間、彼はこう言った。
「 あの男――、あのサッカー部の男にチョコレートマフィン、渡したんですか?」




